ピーチャンとぼくの五十代(03)
 水浴の巻

 朝からやけに暑い。真夏の日曜日だ。ベランダで網目の窓越しに眺めると、雲一つない空からギラギラ太陽が照りつけている。今日で何日目だろう。こんな日がずっと続いている。大空を飛んだのがこんな日だったら、ぼくはいまいないだろう。
 
 主人は朝のテレビに飽きたか、
「ピーチャン、おはよう」
 ぼくも、
「オトーサン、オハヨー。オトーサン、ダイスキ」
 主人はパンツ一枚、肩に手拭をしている。さてはシャワーを浴びたか。
「ピーチャン、暑いね。これだけ毛が生えてるのだから、蒸し風呂だね」
「ピーチャン、ダイスキ! ピーチャン、イイコダヨ」
「お母さん、ピーチャンも大変そうだよ」
「ピーチャンもお父さんのようにシャワーを浴びたいでしょうに。だけどかごの水で我慢ね」
「オカーサン、ダイスキ」
「大して毛のない犬だって舌を出しているよ。ましてピーチャンは大変だよね」
「暑い中でかごに入れられて、ねっ、ピーチャン。外へ出してあげられなくてごめんなさいね。この前みたいに迷子になってしまうと大変だから」
「ピーチャン、イイコダヨ」

「ピーチャンサ、水浴びさせてあげようか」
「かごの水でもう少し辛抱よ。だってときどき入ってるじゃない」
「だからさ。窮屈そうだよ。水道の水だったらもっともっと喜ぶよ。いつもそうじゃない」
「オトーサン、ダイスキ。ピーチャン、イイコダヨ」
「ほれ、ピーチャンも催促してるよ」
「そうね。ピーチャンさえよろしければ……」
「お母さんのお許しが出たよ、ピーチャン」
「ピーチャン、ダイスキ!」
 ………… 

 いつもはかごから出してくれて、洗面所の電気をつける。ぼくはそれと察して洗面所へスイと飛ぶ。落下傘降下で水道の栓の上にソフトランディング。主人は水道の水を少しだけ流れるように調節する。ぼくはひょいと主人の右手人差指に乗っかる。人差指は水がチョロチョロ流れ落ちている手前まで伸びる。そこでぼくは羽根を広げたり、頭を出したり引っ込めたりして、水浴びを楽しむ。
 ときどきやってくれるこんなことが頭にあるからぼくは喜んだ。
 
 いつものとおり、洗面所で主人の右手人差指に乗っかる。蛇口からチョロチョロ落ちている水のところへ人差指が向かう。首を伸ばして頭を少し水に突っ込む。ブルブルっと振って、水しぶきを周囲へ飛ばす。次は左の羽根の番。羽根をゆっくり水の下に持っていって広げる。落ちる水を少し受けてから、閉じたり広げたりしてきれいにする。続いて右の羽根も同じようにする。また頭を少し水に突っ込む。ブルブルっと振って、水しぶきを周囲へ飛ばす。次に左の羽根。続いて右の羽根。同じことを何回も繰り返す。なんと気持ちのいいこと。
 
「ピーチャン、まだ暑がっているよ。ね、かわいそうに。ちゃんと洗ってあげるよね。きれいになるよ。すっきりするよ」
《??》
 主人の左手がぼくを抱っこする。そして右手でぼくの羽根を交互に広げる。蛇口の水を少し強くして羽根に落とす。次に頭を蛇口に持っていって水をかける。
「なにをしているの!」
「だって……」
 ブルブルっと振らないから、自分で振れるわけないから、水はどんどん皮膚を直撃して体に入り込む。
 《サムイ》どころではない。息ができない。気が遠くなる。何がなんだかわからなくなった。
 
 手拭で羽根や皮膚の水をぬぐっているようだ。扇風機の風が気持ち悪く、冷たい。もうろうとした状態でかごに入れられ、日向(ひなた)に置かれた。あのギラギラ太陽が助けてくれる。だんだん周囲が明るくなってきた。
「お父さん、もう絶対にダメですよ!」
「ピーチャン、すまん、勘弁ね」
「お父さん、本当にダメですよ!」
「ピーチャン、本当にすみません」
《イラヌオセッカイハモウヤメテ》
 そんなことをつぶやこうとするのだが、声にならなかった。以来、水浴びは好きでない。だれもいないとき、かごの水でときどきするが、その度に思い出して気持ちが悪くなる。死なずにすんでよかった。

 パコチャンの巻 (その1)

 春だ。清々(すがすが)しい陽気の中で、小鳥たちは楽しそうである。南向きのベランダによくやってくるハトやスズメたち。オスにはメスがいて、メスにはオスがいて。みんな仲むつまじく、のどかな春を楽しんでいる。見渡すところ一人ぼっちはぼくだけ。
《このままで終わるのかなあ》
 
 それを十分察していたかのように、ある日ヨシコさんが黄色いお友達を連れてきてくれた。小さなかごに入れて。
 ヨシコさんは、大学を卒業して得意の英語と司書学という難しい学問を生かせる会社に就職していた。そればかりでなく、大学時代の一年先輩と結婚して、少し遠くのスイートホームに住んでいる。
 
 お友達はじっとしている。心配げな目だ。
「ピーチャン、イイコダヨ」
 小声で話しかけてみた。一瞬、お友達の目が大きくなった。黄色い羽根が少し羽ばたいた。
「ピッ、ピッ」
 静かにさえずった。
 なんときれい。そしてまんざらでもなさそうだ。
 早くぼくのかごに来ないかな。
『早く行きたい』
 お友達もそう言っているようだ。
「ほら、パコチャンですよ」
 と、ヨシコさん。
「ピーチャン、そーら、お友達ですよ。よかったね、うれしいですね!」
 自分の方がうれしそうな奥様。
「寂しかったね、ピーチャン。仲良くしなさいよ。パコチャンはネ、ピーチャンの恋人。いい子供生むんだよ」
 主人も頬を膨らませている。
 やっぱりメスなんだ! パコチャン、素晴らしい名前。
「ピピッ、ピッ、ピッ」
 いい声だ。そのうち話もできる。ぼくはもうひとりぼっちではない。
「早く入れてやれよ。ピーチャン、待ってるんだから。パコチャンも行きたがってるし」
「はいはい。ピーチャン、パコチャンですよ」
 やっとパコチャンが来た。
 
 奥様の手からぼくが乗っかっている止まり木に、いやいやをしながら飛び移って来た。
 なんか居心地が悪そうだ。落ち着きのない顔で黄色い羽根をバタバタさせる。虚ろな目であっちを向いている。さっきのまんざらでもない顔はどうしたのだろう。恥ずかしいのかもしれない。
「ピーチャン、ダイスキ」、とまた小声でぼく。
 知らんぷり。あっちを向いて、ピクリともしない。
「ピーチャン、イイコダヨ!」、少し声を大きくしてみた。
 依然として虚ろな目はあっちを向いたまま、つれないそぶりをしている。ぼくは少し羽根を広げて見せた。お友達だよ、の合図だ。そして深呼吸して、緊張を和らげるようにした。
「ピーチャン、ダイスキ。ピーチャン、イイコダヨ!」
 もう一度呼びかけてみた。
 チラッとこちらを向いた。
 
 優しい目をしている。が、まだかなり緊張しているようだ。よそから無理やり連れて来られて、知らないかごに入れられ、知らない友達に会わせられた。いま、居心地が悪く、戸惑い、緊張しているのはもっともなことだ。
 落ち着くまで待とう。早く笑顔を見せてほしい。ぼくはもううれしくってたまらない。
 主人はぼくたちのかごをベランダに出してくれた。ぽかぽか陽気も手伝って、スズメや小鳥たちのさえずりが一層賑やかになっている。
 
 パコチャンはあい変らずあっちを向いたまま。ただ、ときどき羽根を広げたり羽ばたいたりするようになった。落ち着いてきたのだ。
「グー」、わけのわからない声を出した。不安げであるが、怖がってはいない。
 もういいんじゃないか。止まり木をカニのように横に歩くのは、両足ともよくないから不得手だ。が、それしか方法はないので、おそるおそる擦り寄ることにした。
 パコチャンはじっとしている。少し羽根をパコチャンに触れてみた。パコチャンは挑戦的にブワッと羽ばたいた。ぼくは支えを失って下の桟に落ちる。ちょっと自信を失った。
 
「ピーチャンたちセキセイインコはサ。昔オーストラリアで野生して、草や花の種を食べ、木の洞穴(ほらあな)に巣を作って生活していたんだって」
 主人はいつの間にか本を読みながら奥様に話しかけている。
「セキセイってこんな字―背黄青―なんだよね。ピーチャンはグリーンセキセイ、パコチャンはイエローセキセイ」
「お父さんは勉強家ですよ、ピーチャン。パコチャンはまだ黙ってますね」
「ピーチャンたち、ラブバードとも呼ぶんだって。インコ同士で一度飲み込んだものを口移しで与え合う習性があるって書いてあるよ。やっぱり口移しはほとんどオスとメスとでやるそうだよ」
「本当、ピーチャン、そうなんだって」
「ピーチャンもパコチャンに口移しすればいいのにね」
「本当ですよね」
 そうだ、そうなのだ。パコチャン、きっと喜ぶに違いない。
 
 えさ箱へ降りてツブツブをいっぱいお腹に入れた。準備オーライ。上の止まり木へひょいと乗っかる。ぼく、少し興奮してるのかな。悪い右足を踏み外すところだった。
 今度もパコチャンと同じ方向を向いてにじり寄る。パコチャンは逃げる様子でもないし、けんか腰の気配もない。黙って待っている。
 羽根と羽根が触れた。一瞬パコチャンはピクッとしたが、動こうとしない。もうあせる必要はない。
 ツブツブで口を膨らませて、パコチャンのくちばしへ持っていった。パコチャンは待っていたかのように、一粒もこぼさず上手に受けてくれた。
 しばらく長い口移しが続く。無我夢中。パコチャンのほうが落ち着いている。ぼくのお腹のツブツブはすっかりパコチャンのお腹へ行ってしまった。ぼくの口にはもうツブツブがないのに、パコチャンはぼくに口を合わせたままでいる。そうだ、パコチャンは喜んでいる。安心しているのだ。ぼくはやっとパコチャンの恋人になれた!
 
 一夜明けた今朝も素晴らしい天気だ。そよ風に、外では小鳥たちが騒がしく飛び交っている。二羽ずつで楽しそうだ。海側の棟の屋上に顔を出したお日さまも微笑んでいる。
 パコチャンとぼくもハネムーンだ。起きるとすぐ、ぼくはパコチャンにツブツブを口移しする。パコチャンもお腹がすいていると見え、しばらくはどんどん欲しがった。何回もえさ箱に通ってパコチャンの口に運んだ。空腹感が去ると、パコチャンはゆっくりぼくのくちばしを楽しみだす。こんな幸せなことってあったのだ。ぼくは朝から天国にいる。
 今度はパコチャンが動く。ぼくを羽づくろいするために幾分もっとこちらを向く。パコチャンのくちばしは天使のクシだ。触れただけでなんともいえない気分にさせる。丁寧で、優しく、長く、かいがいしい。ぼくは目を閉じる。大空へ舞い上がる。天空を遊泳する。いつまでも、いつまでも。幸せすぎる。終わってほしくない。
 
 パコチャンは、昨日の口移しからぼくを受け入れている。
「ピピッ、ピピピッ、ピッ、ピッ」
 彼女はぼくと同じ言葉ではないが、ぼくには全部わかる。
 ぼくも優しく、
「ピーチャン、ダイスキ。パコチャン、ダイスキ。パコチャン、ダイスキ。ダイスキダヨー」

 パコチャンの巻 (その2)

 パコチャンは腰を下げて待っている。ぼくは優しく上に乗っかる。いや、乗っかろうとする。パコチャンの背中からずり落ちる。下の桟にドスンと転落する。
 パコチャンは怪訝(けげん)な顔をしたが、すぐに事情がわかったようだ。
 もう一度パコチャンの上に乗っかろうとする。下の桟にドスンと落ちる。また同じことを繰り返す。何度も工夫しながら繰り返す。パコチャンもぼくのハンデがわかっているから、彼女も工夫してぼくが乗っかりやすいように協力してくれる。何回も何回も、……気が遠くなるほど。
 
 パコチャンは辛抱強く、いつまでも協力してくれた。最後にぼくの方があきらめた。あきらめざるを得なかった。羽根にも足首にも血が付いているのは構わない。が、もう力が尽きた。パコチャンは恨めしそうだ。
「パコチャン、ダイスキ」
 これ以上すまない気持ちを表現できない。
「グー、ピッピッ」
 パコチャンは許してくれた。
 
「そのうちできるようになりますよね」
「そうだよ。ピーチャンは賢いんだし、パコチャンも頑張っているしサ」
 主人も奥様も心配そうである。あれから何日たったのだろう。毎日、二人で何回も何回も挑戦した。いつもいま一歩のところまでいくのだが。足が踏ん張れないのだ。左足は足首に生えた爪で何とかできる。右足がなんともならない。一見左よりよさそうだが、足首の付け根から完全に麻痺している。パコチャンの背中にあてがっても傾斜に沿って滑り落ちる。それを左が堪えられない。やっとバランスさせても、次の動作に移ると同時にもんどりうって落下する。どんなにしてもこの繰り返しなのだ。パコチャンは同情してくれている。申し訳ないが、ぼくはもうなすすべがなくなっていた。
 悔しい。恥ずかしい。すまない。何日もそう思った。が、どうしようもなかった。パコチャンに感謝する。彼女は、ぼくがそれをできなくても、不満な顔をしたり怒ったり軽蔑したりしない。パコチャンはぼくと一緒にいるだけで幸せそうな顔をしている。
 
 だからパコチャンとの生活は、清くて深いつながりなのだ。
 目的がかなわなくても、パコチャンはよく乗っかりっこをさせてくれる。赤ちゃんを作ることができないのは二人ともわかっている。乗っかりっこはオスとメスの道具ではない。二人の愛の確認なのだ。
 もう何回失敗しても謝ることはない。恥ずかしくもない。パコチャンは励まし続けてくれる。失敗を優しく労わってくれる。落ち方もマスターしたから、もう血を流すこともない。
 
「巣箱買ってやろうよ」
 主人に言われるまでもなく、奥様は早々と入れてくれた。
 その巣箱にパコチャンが入るようになり、白いビー玉大の卵を次々と産むようになった。
 毎日パコチャンのお腹は膨れる。巣箱に入る。中でじっとしている。
「グーグー」
 中から呼びかけてくる。
「パコチャン、ダイスキ。ダイスキダヨ」
 ぼくは外で、いつもそう応える。
 巣箱から出てくるとお腹は小さくなっている。ぼくに擦り寄ってえさと羽づくろいをねだる。十分食べて、羽づくろいにも満足すると、ぼくの好きな乗っかりっこをしてくれる。
「グー、ピピッ」
「パコチャン、ダイスキ、ダイスキ。ピーチャン、イイコダヨ」
「ピピピッ、ピッピッ」
「パコチャン、ダイスキ。ダイスキダヨ!」

 奇跡よ、頼む! パコチャンもぼくも願いは同じだ。パコチャンは卵を中で温めながら、ぼくは巣箱のそばで見守りながら、祈っている。きっとパコチャンはいい子を産んでくれる。
 主人と奥様はかわるがわる見に来る。ときどき奥様は、パコチャンが巣箱の外にいると、ぼくたちのかごに手を突っ込んで巣箱を開けようとする。
「ジージー、ジージー」
 パコチャンは不安そうな目つきで奥様をにらみつける。ぼくはすぐ奥様の手を突っつきに飛ぶ。
「パコチャンは母親の優しさ、ピーチャンはやはり男らしいですね。だけど、巣箱もときどききれいにしてあげなくてはパコチャンかわいそうでしょ。ね、ピーチャン」
「それにサ。卵がちゃんと(かえ)らないよ」
 主人が奥様の味方をする。
 
「ワーッ、今日もたくさん産んでるわ。これではパコチャンの入る隙間ないじゃない」
 ぼくの突っつきをよけながら、奥様は無理やり巣箱を開けた。
「お父さん、見てちょうだい」
「どれどれ。また卵だけか。ひとつくらい(ひな)(かえ)ればいいのにね」
「本当ですよ。雛に孵ってくれれば」
「ピーチャンがね……。無理なんだよね。あのときイスをずらさなければ……」
「そうじゃないですよ。カキフライのとき、わたしがカーテンを開けていなければ……」
「何とか頑張ってほしいね」
「本当ですよ。ピーチャンもパコチャンも大変だけど」
 お二人とも一縷(いちる)の望みを抱いてくれている。残念ながら期待に副うことができない。奇跡を信じたい。奇跡が起こってほしい!
 
 パコチャンの様子が変だ。ここしばらく羽づくろいしてあげようとしても嫌がるし、ぼくにはしてくれない。一日のほとんどが巣箱に入ったきりなのだ。ときどき出てきても羽毛を膨らませて寒そうである。
「パコチャン、ダイスキ。ピーチャン、イイコダヨ」
 話しかけてもあっちを向いている。もっと話しかけると、
「ジージー」
 羽づくろいしないからでもあるが、いつもより汚くなった。そしてそれを気にしてもいない。ぼくがついているのに、寂しそうだ。すぐ巣箱へ入っていく。
 奥様は巣箱からパコチャンを出して、
「お父さん、パコチャン変よ。毛羽立(けばだ)ってるし、ずっと前の卵を抱きっぱなしだし」
 主人もじっと見つめる。
「んんーん。おかしいね。逆らってもこない」
「そうでしょう」
「巣箱、取ってやったら? 卵ばかり産んで体が弱るだけだしさ」
「そうするわ。赤ちゃんはダメなようですしね」
 
 巣箱は取り払われて、かごもきれいになった。パコチャンは桟に二、三個卵を産んだ。相変わらず羽根を膨らませたままである。目を閉じたままじっとしている。ときどき目を開けても、虚ろにあっちを向いたまま。
「やっぱりおかしいよ。病院へ連れて行こうよ?」
「そうするわ。今日は土曜日だから、月曜の朝になったらすぐ行ってきます」
「よろしく頼む。ピーチャンも寂しそうだしね」
「本当。パコチャン元気になってね。ピーチャンと仲良くしてよね」
 ぼくには手の施しようがない。口移しのえさもほんの少ししか食べないし、話しかけても嫌がるし、うつむいて目を閉じてじっとしたままなのだ。
 
 ぼくが物心ついたときにはもうひとりぼっちだった。だからパコチャンはぼくの恋人であり、優しいお母さんなのだ。
 事実、いろんな世話をやいてくれる。羽づくろいしてくれるときは目が潤んで、ぼくを母の愛情で包み込んでくれる。目を閉じると(まぶた)の奥にパコチャンが恋人で現れたり、お母さんで現れたりする。
 そのパコチャンが。早くよくなってほしい。早く!
 
「おーい。パコチャン、死んでるよ!」
「パコチャンが、死んでる?」
「もう硬くなっている。夕べ死んだんだよ。かわいそうにね。ね、ピーチャン」
「すまなかったわね。今朝病院へ連れて行くところだったのに」
「ピーチャン寂しいね。パコチャン、行ってしまったね」
「本当に仲良かったのにね。ピーチャン寂しいですね」
 
 ぼくは夜明け前からわかっていた。お別れもすませていた。いまじっと耐えている。なにかにじっと耐えている。いまの悲しさやこれからの寂しさを思ってではない。そうではない。
 ぼくはパコチャンに幸せをあげただろうか? パコチャンはぼくといて、幸せだっただろうか? もっと幸せにしてあげることができなかったか? そう、もっともっと幸せにしてあげることができたはずだ。ぼくがこんなに幸せだったのだから。
《パコチャン、ダイスキ。パコチャン、ダイスキ、ダイスキ》、胸に込み上げてくる。すまない。いまはじっと耐えるしかない。
 …………
 
 ベランダの植木鉢にパコチャンは眠っている。
「ピーチャン寂しいね。仲のいい恋人だったからね。大事にしてあげてたもんね」
「本当ですよ。大事にしてあげてましたからね」
「これからピーチャン、どうなるんだろう」
「そうですね。どうなるのでしょうね」
 
 ぼくはしばらく耐えるしかない。植木鉢の方を向いて、パコチャンの冥福を何回も祈る。パコチャンはぼくの心に生きている。
 これからは外のスズメや小鳥たちを見ても、決して羨ましくない。ぼくの心はこれからもずっとパコチャンと一緒なのだ。

< 大空の巻(1) カスガイの巻 >
「ピーチャンとぼくの五十代」 表紙
まえがき
第1章 ピーチャンだよ
第2章 子持山だよ
第3章 第二の人生、垣間見
第4章 もうすぐシニア
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