ピーチャンとぼくの五十代(02)
 大空の巻 (その1)

 五月(さつき)晴れというのかな、さわやか。十一階のベランダ越しに眺めると、中庭の木々も緑、緑。かごの中でもそよ風が羽根に心地よい。
 奥様はとなりのベランダで物干しに余念がない。
《オヤッ、窓が開いてる!》
 先ほど奥様がぼくのかごを丹念に掃除してくれた。水を取り替え、えさも古いのを全部捨てて新しいのに。そのときかごの窓を閉め忘れたのだ。待てよ、そうではない。いつもはリビングで飛び回るだけだから、一度くらいは大空を飛ばせてあげたいという「親心」。そうだ、そうなのだ!
 
 大空を飛ぶ。夢にまで見ていた。奥様のお心に感謝しなければ。恥ずかしい飛び方だけは見せてはならない。部屋で飛ぶぼくしか見ていない奥様はきっとびっくりするだろう。声を上げて喜ぶだろう。『ピーチャン、スバラシイ!』、と。
 外へ出るためにはまず腹ごしらえだ。ツブツブを十分に食べ、水を飲む。そしてウオーミングアップ。足はダメだが、自慢の翼だ。広げてよし、たたんでオーライ。惚れぼれする。準備OK!
 
 奥様はまだ洗濯物をパタパタさせて物干し作業中。大好きな「五番街のマリーへ」を口ずさみながら。少し調子ッパズレなところもあるが、本人は至ってご機嫌だ。

♪♪ 五番街へ行ったならば
    マリーの家へ行き
       ………… ♪♪

 止まり木から開いた窓の桟へひょいとホップ。もう一度周囲を確かめてから、奥様に気づかれないようにベランダの手摺りへステップ。そして大きく羽根を広げて、マンションの中庭へ向かってジャンプ!
 
 初めての大空だ。舞い上がるのに必要なそよ風の受け方を羽根が自然とわかるまでほんの数秒。すぐに慣れた。さて、どっちへ向かおうか。いつもベランダへやって来るスズメたちが矢のように飛んで行く。ハトもバタバタ飛んでいる。ぼくの飛び方がそんなにおかしいのかなあ。みんなぼくを見ては首を傾げる。そうだ、スズメたちについて行こう。
 ちょっと振り返ってみた。まだ物干しを続けている奥様の姿が小さく見える。なぜ気づいてくれないのだろう。きっと、『ピーチャン、スゴーイ』と言うに違いないのに。待て、いまはちゃんと飛ぶことだ。
 
 中庭の遊び場に大きな木が見える。降りてひと休みしよう。風も凪いでいるから楽だ。フワリ、フワーリ降りる。上の枝にフワリーッと止まる。不自由な足でも何とかなった。ぼくと同じようなスズメが数羽、下の方に止まっている。にぎやかにさえずっている。楽しそうだ。彼らの言葉がわかればなあ。ぼくも声を出そう。
「ピーチャン、ダイスキ。オトーサン、ダイスキ」
 みんなぼくを見上げた。
「オカーサン、ダイスキ。ピーチャン、イッテキマース」
「チュチュチュチュ……。チュー、チュリー、チュチュチュ」
 みんな、「トモダチダヨー」と呼びかけているようだ。仲間が増えたことを喜んでくれている。
 
 下の広場にヒトの子供たちがサッカーボールを持って集まってきた。そのガヤガヤでスズメの仲間は一斉に飛び立った。どこへ行くのだろう。ぼくもついて行こう。
 仲間はしばらく飛んで別の広場の隅っこに降りた。そこはマンションの一角で、すべり台やブランコがある。ぼくはそこの銀杏(いちょう)の木に止まった。後ろから他の小鳥たちが近くの小枝に飛んできて、しきりに話しかけてくる。いま、ひとりぼっちはぼくだけだが、そのうちみんなの仲間になれそうだ。『イッショニアソボーヨ』、きっとそう言っている。
 
 下を見る。砂場のところでみんなおいしそうに食べている。《ナンダロー》。
 羽根を広げて枝を離れ、フワーッと降りてみた。うまく降りられた。みんなが食べているのはパンくずか何かかな。奥様がいつもくれるものに比べると食欲がわかない。少しだけいただいてみよう。《マズイ!》。
 そうだ。奥様はもう物干しを終えたかな。
 マンションを見上げる。
《アレッ?》
 窓がいっぱい。みんな同じだ。ジッと見つめる。奥様はどこにもいない。いや、見えるはずがない。全部で千百という世帯が十二階建ての六棟を占めて、ぐるっと中庭を囲んでいるのだから。空高く、大きすぎて多すぎて、奥様のベランダは小さすぎて、全然わからない。
《ドウシヨー》
 
 そんなぼくの今を忘れさせてくれるように、スズメや小鳥たちが集まってきた。ハトも何羽かいる。ぼくはハトが嫌いだ。声も『ボー、ボー』、目がキョロキョロ。体は大きいし、太っているし……。ぼくのそんなことを知らぬげに、ハトも仲良く話しかけてきている。
 ぼくは両足とも悪いから、満足に歩けない。それがわかるから、みんな同情してくれている。パンくずを持ってきてくれる。小さな虫やわけのわからない食べ物も。きっと新入りのぼくを歓迎してくれているのだ。
 
 サッカーボールが勢いよく転がってきた。子供が数人早足で追いかけて来る。
《アブナイ!》
 みんな一斉に飛び上がって、てんでんに散っていった。ぼくも必死で飛び上がった。思いっきり上へ上へと舞い上がる。銀杏並木の道路の遙か上に来た。下の電線に数羽止まっている。銀杏の一番上が電線に絡むようになっていて、ちょうど木陰になったところにみんな止まっている。涼しそうだ。
《ぼくもちょっと降りてみようっと》
 フワリフワーリ、落下傘のように降下する。電線の真上でバタバタッと羽根を整えて、フワーッと乗っかる。なんとかソフトランディングできた。
 先客の小鳥たちがこちらを向いて拍手している。声を大きくして何か話しかけてくる。
「チュチュチュチュ、ジュジュ、チュリー、チュチュ」
 
 少し強い風が南の方からソヨッと吹いてきた。みんなは平気だが、ぼくは残念ながら電線に留まっていられない。両足とも力なく滑る。《しまった!》。
 あわてた。思わず羽根をバタつかせながら急降下。みんな驚いているが、どうすることもできない。
 道路を隔てた銀杏並木の下の小枝にやっと乗っかった。と思う間もなくまた風。今度は予想できたから、その風に乗ってフワーリ、フワリ。下へ下へ。マンション裏手の歩道に降りることができた。
 見上げると、さっきの小鳥たちはずっと電線に乗っかっているようだ。両足の悪いのはもう慣れたが、やはりみんなが羨ましい。
 電線の上から全員そろって心配そうに見つめている。この風の具合ではちょっと戻れそうにない。

 大空の巻 (その2)

《アレッ?》
 ここ、八百屋さんの軒先じゃないか。もちろんこれまで見たことのないお店だ。まだ昼前。お客さんが来た。
「いらっしゃい。今日は新茶も入りましたし。エンドウ、シソ、ラッキョウ。八街(やちまた)から届いたばかりです。イチゴもおいしそうでしょ」
「そうですね。じゃ、イチゴ二箱くださいな。それにエンドウとラッキョウ、一篭(ひとかご)ずつ」
 掛け合いが気持ちいい。
 そうだ。そのイチゴ、うちの奥様だったらぼくにもすぐ少しくれるのに! きっとお店の女将(おかみ)さんもくれるに違いない。

「あら? かわいいインコ!」
「どこから飛んできたのかしら」
「疲れているようね」
「かわいそうに。どなたのお宅でしょうね」
「この子、イチゴ欲しそうじゃない」
「一つ食べさせましょうか」
「おいで、おいで」
 思ったとおりだ。おいしそうなところを選んでくれている。うれしい。
「ピーチャン、ダイスキ! ピーチャン、オイシイ」
「この子、しゃべってますよ」
「うわー、驚いた!」
 おいしいイチゴだ。お腹がすいているからなおおいしい。
「ピーチャン、オイシイ。イイコダヨ!」
「なんとまあ、かわいい子でしょう」
「いいわね。……? この小鳥、足、変よ」
「?、左が足首までしかないわ」
「右足も変ね。()えてるみたい」
「かわいそう」
「ほんとうですね。かわいそう」
 こちらはそれどころではない。いつ取り上げられるかわからないから、どんどん食べなくちゃ。
「いい子ですね。いい子ですよ。おいでおいで!」
 思わずお客さんの手に飛び乗ってしまった。
「かわいい子ね、あんた!」
「はじめてですよ。こんな人なつっこい小鳥」
「ピーチャン、イイコダヨ。オカーサン、ダイスキ!」
「お母さんですって!」
「ホント。人間の言葉、わかるみたい」
「鳥かごの空いたのあるから。この子もらっていっていいかしら」
「それがいいですよ。どうせ帰るところ知らないのですから」
 そうなのだ。奥様のところへ帰りたくても、全然わからなくなっていた。
「あんた、ピーチャンっていうんですよね。ピーチャン、いい子ですよ」
 手の平がふわっと羽根を覆った。やさしい手だ。安心した。快く抱いてもらった。
 
 八百屋さんの何軒か後ろで、かなり大きな一軒家だ。
 帰るとすぐ、奥さんは前に使っていたような鳥かごに入れてくれた。小さい。けど、ホッとした。お水と、さっきのおいしいイチゴを入れてくれた。空豆かな、そんなのも。しばらくすると、どこかで買ってきたツブツブも。なんと手際がいいのだろう。
「ピーチャン、今日からここがあなたのお(うち)よ」
「ピーチャン、ダイスキ! オカーサン、ダイスキ!」
「本当にかわいいわね。もう大丈夫よ」
「ピーチャン、オイシイ!」
「足はどうしたのでしょうね。痛々しいけど、あなた大したものね」
 
 新しいご家庭は、三人家族だ。ご主人もお嬢さんも恥ずかしいくらいに可愛がってくれる。ぼくがお世話になってから、二人とも早く帰ってくるようだ。
「えらく早いわねー」
 お二人に奥さんは皮肉っぽく言う。
「今日は遅くてもいいわよー」
 お二人を送り出すとき奥さんはこう言っている。
  
 何日経ったろう。
 玄関で話し声。
《アレッ?》
 お客様の声、ひょっとしたら!
 
「どうもありがとうございます。かごの窓を閉め忘れてしまったんですよ。この十日間ほど、主人も私も途方に暮れて……」
「スマイル(タウン誌)の『探しもの』に、ピーチャンとよく似たインコが出てるでしょ。両足とも悪いし、よくしゃべるし……」
「本当にありがとうございます」
「早速電話しましたのよ。かわいいわね。あなたきっと泣いていたんでしょ」
「そうなんですよ。とくに主人が……」
「やっぱりね。実をいいますと、連絡したくなかったのですよ」
「よくわかります。本当に何と言っていいやら」
 
 ぼくも最初は寂しくて泣いていた。自分も寂しいけど、主人や奥様はどうしているだろう。主人は奥様をなじっているんじゃないか。悪いことをしてしまった。しかしいまとなっては……。
 後ろ暗い気持ちながら、こちらのご家庭のおもてなし、ご家族三人がぼくを奪い合うほどなのだ。ぼくはついている。正直、天に向かって感謝したのだった。
 
 これも人生、いや鳥生だ。前のご家庭にはお許しを願うことにした。
 後悔しながら思い出にどれだけ浸ってもなにもよくならない。前は前と区切りをつけたつもりでいた。それにしてもここ、もったいないほどの居心地!
 
 だから、連れて帰ってもらうのはうれしいが、なんだかもっと寂しい気分だ。
「ピーチャン、お家へ帰るんですよ。よかったですね!」
 こちらの奥さんはそれだけ言って鼻を詰まらせた。
 ぼくもつらくなった。
「ピーチャン、ダイスキ! オカーサン、ダイスキ! ピーチャン、イッテキマース!」
 奥さんに向かって、思いっきり大きく声を上げた。

< 第1章 ピーチャンだよ(1) 水浴の巻 >
「ピーチャンとぼくの五十代」 表紙
まえがき
第1章 ピーチャンだよ
第2章 子持山だよ
第3章 第二の人生、垣間見
第4章 もうすぐシニア
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