ピーチャンとぼくの五十代(04)
 カスガイの巻

「ピーチャン、お父さんだよ」
 覆いを取る間もなく、このようにぶしつけにかごを開けて、主人の手がぼくのくちばしに伸びてくるときがある。それが日曜日の朝で、ばつの悪そうな顔をしていたら、奥様と何かあったのだ。
 主人はかごに向かってかがんだ姿勢。差し入れた右手の指は確かにぼくのくちばしにじゃれているが、ぶっきらぼう。
 奥様は? まだ別の部屋で床の中。起きてくる気配はない。
 
 主人は高血圧、朝寝坊ができない。奥様は低血圧、早起きは不得手だ。加えて夜、主人の晩酌は長い。テレビを見ながら延々と続く。夕食が済んだら勝手に寝床へ直行。
 奥様はそれから後片付けをして、ゆっくり自分の好きな時間を楽しむ。
 当然主人は朝が早い。奥様より遅く起きることはない。
 主人は起きて布団を片付けると、牛乳を沸かしてパンをトーストする。ラジオと新聞で朝食だ。
 食べ終わった頃、好きなテレビ番組が始まる。コーヒーの匂いをぼくの部屋まで漂わせてテレビに見入る。
 と、ここまではいつもの日曜日。
 
 ときどき食パンがないときがある。牛乳がないときがある……。
「お母さん!」
 かん高い声が響く。
「牛乳ないよ!」
 奥様の返事がない。奥様は別室でまだ安眠中なのだ。
 主人の足音は奥様の部屋へ向かう。そして何かぶつぶつ。たぶん奥様は寝ぼけ(まなこ)に抑揚のない声で「すみません」とか、適当に答えているに違いない。
「どうすりゃいいんだ」
 主人はきっとそうなじっている。
「だって……」
 奥様はまだ眠そうな目で言葉を返す。
「どうすればいいんだと聞いているんだよ」
 主人の声はさらに高くなる。
「だって……」
「いつもこれなんだから。朝めしの準備くらいちゃんとしといてくれよ」
「すみません。今度からそうします」
「この前もそう言ったよ」
「…………」
 きりがない。折角の日曜日が悲劇のスタートだ。
 
 ぼくも日曜日を待っている。いつもなら奥様が起きてくるまで主人は機嫌がいい。
 まず、
「ピーチャン、おはよう。お父さんですよ」
 と言いながら、かごの覆いを取ってくれる。
 水を新しいのに取り替える。えさを補充する。いそいそとである。
 そして目が近づいて、右手がかごに入ってくる。
「ピーチャン、大好きだよ。お父さんだよ。ピーチャン、いい子だね!」
 人差し指はぼくの首筋をなでる。心地いい。もうパコチャンに羽づくろいしてもらえないから、これが何よりだ。奥様のほうが上手だが、主人は丁寧だ。
「ピーチャン、イイコダヨ。ピーチャン、ダイスキ。オトーサン、ダイスキ!」
 主人の顔がパッと輝いて頬がほころぶ。
 …………
 それが喧嘩のあとだとそうでなくなる。だからぼくとしても決してよそ事ではない。
 
 しばらくして奥様の気配。主人の部屋に向って、
「おはようございます」
 返事のない朝のあいさつをして、ぼくの部屋に来る。
「ピーチャン、おはよう。お母さんですよ」
「オカーサン、ダイスキ。ピーチャン、イイコダヨ!」
「ピーチャン、いい朝ですね。さあ、頑張らなくっちゃ」
 と言いながら、今朝は奥様がえさも水も取り替える。主人は(ふく)れっ面でテレビに見入っているようだ。
 
 今朝は奥様の人差し指がぼくの首筋をなでる。さきほどのごたごたで、ぼくも気分が優れないから、気持ちよくない。奥様も心なしおざなりで、いつもの真綿のやさしさがない。目もあっちを向いたり、こっちを向いたりしている。

「あら! ピーチャン、これ白髪じゃない? 羽根も枝毛が増えてきたわね」
「ピーチャン、ダイスキ。オカーサン、ダイスキ。オトーサン、ダイスキ。パコチャン、ダイスキ!」
「お父さん! ピーチャン、かわいいですよ。パコチャンを忘れられないんですね。なんとかわいい」
 主人が仏頂面でやって来る。
「本当だね。ピーチャン、かわいいね」
 二人ともしんみりとしてぼくを見つめる。
「ピーチャン、イイコダヨ。オトーサン、ダイスキ。オカーサン、ダイスキ。パコチャン、ダイスキ」
「ほら、言ったでしょ」
「本当だ! ピーチャンは本当にいい子だね」
 遅ればせながら楽しい日曜日が始まった。
 
 奥様がいないとき、主人はそっとつぶやく。
「ピーチャン、いつもありがとう」
 主人がいないとき、奥様はぼくを見つめて、
「ピーチャン、ありがとうね。ピーチャンは夫婦のカスガイですね」
 
 夫婦喧嘩はいつも同じように始まって、同じように終わる。
 喧嘩はしてほしくない。ぼくとパコチャンがそうであったように、いつも仲良くしてほしい。カスガイと言ってもらうのはうれしいけれど、仲良くしていただいたほうがもっともっとうれしい。
 ときどき主人が内緒でぼくにこう話しかける。
「ピーチャン、お父さんはね。お母さん大好きなんだよ」
 いつまでも仲良くしてほしい。

 さ・よ・な・ら の巻

 おや、ヘンだぞ?
 いつの間にかお腹がふくれてきた。小梅大に赤黒く出っ張ってきた。出っ張りは日増しに大きくなる。
 奥様はそれと気づいて、すぐに病院へ連れて行ってくれた。(かんば)しくない話が聞こえる。
「寿命が近づくと、こうなるんですよ」
 先生は無慈悲にそう言っている。奥様の目から涙が落ちた。ぼくは素直に受け入れた。
 
 そういえば、最近かごから出て飛ぼうと思っても、なかなかうまくいかなくなっていた。お腹が重過ぎる。フロアからテーブルの上へはおろか、高さ五〇センチのかごの上にさえ飛び上がることができない。自分でかごの外に出られないから、主人が抱っこして出してくれるほどになっていた。
 かごの中でも止まり木に上がることができない。たとえ上がったとしてもバランスがとれず、落ちてしまう。寝心地のよくない下の(さん)が、いつの間にか寝床になっていた。
 前は止まり木から出口の桟へひょいと降りてひと呼吸、そしてステレオアンプへホップしていつもの定位置へ。さらに壁に掛かった「海とヨットの絵」の上へひとっ飛びだったのに。
「そうら飛んだ。ピーチャン元気だよ!」
 主人が見上げながら顔を崩して、ぼくのセリフを叫んでいたのに。
 
 そして、数日たった。
 今日はやけに寒気がする。十一月だけど、季節の寒さではない。
 主人が帰って来た。もう夜だ。
 奥様は食卓でくつろぐ主人にこう話しかけている。
「お父さん、ピーチャン、出たがってますよ」
 きっと疲れた主人を気遣って、ぼくと遊ばせようとしているのだ。
「ピーチャン、毛羽立ってるよ。えらそうだよ。出してやっていいのかな?」
 疑わしげな顔をしながらも、主人はぼくを抱っこしてかごから出した。
 悪いけど今日は本当にうれしくない。一歩も動けない。シヌホドしんどいのだ。
「ピーチャン、どうしたの?」、と奥様。
「ピーチャン、毛が(ふく)れてるね。目もうつろだよ。苦しそうだ。ごめんね」
 主人はすまなそうな顔でかごの中へ入れてくれた。
 …………
 いよいよそのときが来たようだ。
  
 生まれてまもなく、この家に連れてこられた。しばらくの間、ヨシコさんが流動食で育ててくれた。左足はカキフライの鍋に消え、右足はイスの下敷きで萎えたままである。洗面所で水洗いされて息が止まったときもある。大空を飛んで十日間ほど迷子にもなった。パコチャンと幸せな生活もできた。毎日毎晩、ぼくを見ると主人の顔がほころんだ。奥様のご機嫌もすぐに直った。
 「ピーチャンは夫婦のカスガイですね」、奥様のつぶやきはもう口癖になっている。
 
 覚えたヒトの言葉を大声で叫びたい。残念だがもう声が出そうにない。

《ピーチャン、オハヨー》
《ピーチャン、イッテキマース》
《ピーチャン、イイコダヨ》
《ピーチャン、オイシイ》
《ピーチャン、ダイスキ》
《パコチャン、ダイスキダヨ》
《オトーサン、ダイスキ》
《オカーサン、ダイスキ》

 いい鳥生だった。この上何か望むことがあるのだろうか?
 奥様はもちろんだが、主人もきっと泣く。ボロボロ涙を流すだろう。ぼくにとってつらいことだがうれしい。思いっきり泣いてほしい。
 だから今夜は、
《ピーチャン、イッテキマース。オトーサン、オカーサン、サ・ヨ・ナ・ラ…………》

< 水浴の巻 第2章 子持山だよ >
「ピーチャンとぼくの五十代」 表紙
まえがき
第1章 ピーチャンだよ
第2章 子持山だよ
第3章 第二の人生、垣間見
第4章 もうすぐシニア
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