0.タイムスリップ 1.コスタ・アズル 2.マドリード
3.トレドと近郊 4.アンダルシア 5.リスボンと周辺
6.アラカルト
5.リスボンと周辺 (Lisboa and Suburbs)
 スペインの西南セビリアから半島西端ポルトガルの首都リスボンに行き着くまで、5時間は走らねばならない。
 5月14日朝早くからセビリア市内の観光をすませ(前章)、11時には西へポルトガルを目指す。
 国境はややこしい手続きの必要がない。通関してすぐのところのレストランで昼食とした。
 しばらく走って、歴史の町エヴォラに立ち寄る。1時半。といっても国境で時差1時間を与えられているから、実質4時間は経過している。

エヴォラ Évora (5月14日)

 ポルトガル内陸のエヴォラは城壁に囲まれた古都という。世界遺産に登録されている歴史地区を2時間近く見て回り、カテドラルは内覧した。

町の中心ジラルド広場

 16世紀というと日本では安土桃山時代。その1584年9月に、日本からの天正遣欧少年使節4人がこの町を訪れ、大司教の歓待を受けたことをご存じだろうか。(もちろん、ぼくは存じませんでした。)
 4人が7日間滞在したというイエズス会のエスピリト・サント学院の建物は、現在高校として使用されていると聞いた。
 Wikipediaの記事を少しメモする。

 この少年使節は、九州の大友宗麟ら三大名の名代で、天正10年(1582)2月、長崎を出港した。
1584年
8月
リスボン港着。サン・ロッケ教会が宿舎。シントラの王宮に招かれる。
9月 エヴォラの大司教に招かれる。
11月 マドリードで国王の歓待を受ける。
1585年 フィレンチェ・メディチ家による舞踏会。
ローマでローマ教皇に謁見。
1586年 サスポン出港。
1590年 長崎に帰航。

 使節の自国への貢献度は、活版印刷や西洋楽器、海図をもたらしただけではない。日本文化をヨーロッパに知らしめ、当時としては最大の友好を果たしたといえる。
 が、何事も労苦が報いられるとは限らない。彼らが帰国する直前に豊臣秀吉の手でキリシタン・バテレン追放令が発布された。帰国時は一応国を挙げて祝福されたようだが、その後の彼らの運命はそれぞれにやるせない。

 高山右近を思い出した。キリシタン大名だったからちょうどその頃ではなかったか。調べるとやはり。
 信長たちの戦国時代から家康の江戸時代初期にかけて生き抜いた孤高の大名だった。洗礼名をジュストといい、千利休の七高弟で号は南坊(みなみのぼう)等伯。
 ポルトガル語で読み書きができたとあり、ローマ法王へ書簡を送ったとの記録もあるよし。
 秀吉のキリシタン追放令でフィリピン・マニラに追放され、慶長20年(1615)同地で死去した。享年64歳。

 エヴォラ大聖堂・カテドラル(Sé de Évora)は、12-13世紀のロマネスクからゴシックへの過渡期に建てられたという。
 八角形のドームと荘重な彩りの祭壇には目を奪われた。
 「地球の歩き方」によれば、「エヴォラを訪れた天正遣欧少年使節の伊東マンショと千々石ミゲルは、このカテドラルでパイプオルガンの腕前を披露したといわれている」。下の写真がそれだ。

 2世紀にローマ人によって造られたコリント様式のディアナ神殿(Temple of Diana)の遺跡を見た。この町も古代と中世が混じりあっている。

…………………………
リスボン Lisboa …1 (5月14,15日) 

 3時を過ぎて、歴史の町エヴォラを出発。大西洋に面するリスボンまで125㌔を2時間かけた。
 ホテルの部屋に荷物を置いて、そそくさと『哀愁のファド・ディナーショー』へ。ショーは9時頃開始して、たっぷり2時間。
 照明を暗くした舞台で、伝統の舞台衣装という黒いドレスの女性がもの悲しさを含んだアルトで会場を包む。フラメンコギターとギターラという見なれない楽器の伴奏、それに男女2人の民族舞踊が色を添え、哀愁の色濃いショーで楽しませてくれた。
 ギターラは胴が円形で、ファドには欠かせない楽器のようだ。マンドラやヴィオラ同様、フラメンコギターより低音の部分を受け持っているのだろうか。
 ファドの余韻に浸りながら、午前0時にベッドに潜り込む。長い長い一日がやっと終わった。

 …………
 15日午前中は、市の中心部からテージョ川沿いに6kmほど西へ下がったベレン地区の記念碑と世界遺産を見物する。16世紀にエンリケ王子の率いるこの国が、勇躍未知の海へ乗り出して、大航海時代の幕開けとしたモニュメントと、当時の名残がここにある。
 市内観光は翌16日の「フリータイムを活用してご自由にどうぞ」、ということになっている。

 ベレン地区(Belém)に着いて、ベレンの塔→発見のモニュメント→ジェロニモス修道院の順序で見て歩きした。

ベレンの塔 (Torre de Belém)

 この石造りの塔、大西洋とテージョ川の境に臨む世界遺産だ。16世紀初めに船の出入りを監視する要塞として建てられたそうで、3階は王族の居室、2階は砲台、1階は水牢とか。
 立ち入り許可ではあったが、果たさず。3階のテラスから大西洋の眺めを逸した。
 のどかな日和にも恵まれて、塔を取りまく岸辺は釣り人たちで賑わっていた。写真集をご覧あれ。

発見のモニュメント (Padrão dos Descobrimentos)


 高さ52mのコンクリート製だ。

1940年、ポルトガルで開催された国際博覧会の象徴として造ったのを、1960年に再度制作し直したもの。
 人物はエンリケ王子のほか、同時代の探検家、芸術家・科学者・地図制作者・宣教師ら約30名のポルトガル人とか。
 「大航海時代へのロマン思想を表している」とは、Wikipediaのコメント。 

ジェロニモス修道院 (Mosteiro dos Jerónimos)

 二つの棟があり、16世紀に建てられた東棟と、19世紀に付け加えられた西棟だ。世界遺産のこの修道院、ぼくたちは東棟を内覧した。

 エンリケ航海王子の偉業(15世紀)と、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航海開拓(15世紀末)を記念して建造されたという。
 サンタ・マリア教会を一巡した。ヤシの木を模したといわれる柱は、なるほど大航海時代の名残がある。
 壮麗・荘厳は同じでも、これまでのスペインの聖堂よりもっと豪華で明るい見栄えだった。イスラム文化を引きずっていないからだろうか。

 中庭に出て振り向くと、回廊のなんと見事なこと。2階建てのアーチで、全長55m。彫刻の精密さに見とれてしまったが、もっと後ろへ行って全体を眺めたら別の感動があったのかもしれない。

…………………………

ロカ岬 Cabo de Roca (5月15日)

 リスボン・ベレン地区で海景色を眺めながら昼食後、45km西へ約1時間。途中シントラ付近で峠越えをすると、そこはロカ岬。
 ユーラシア大陸の最先端であるイベリア半島西端に孤高然よろしく立ち、荒波打ち寄せる大西洋を見下ろしている。

 イベリア半島の風土とは。ぼやっとして変な思いが空回りした。
 イスラム、カトリック、ローマ帝国、アラブ、フランス・ドイツ・オーストリア……北欧のバイキングにいたるまで、イベリア半島は様々な影響下で今日まで来た。その過程で人種間の争いや混血を繰り返しながら。
 ヨーロッパ大陸から握りこぶしの形で地中海と大西洋に突き出して、南はアフリカ大陸と接しているこの半島が、なぜにこれほど周辺民族や文化を引きつけ、ひいては侵略の対象になる風土なのだろうか。
 イベリア半島東端にあたるバルセロナを起点に、西端のリスボンまで巡って脳裏を去らず、それなりの印象を受けて納得もし、未だ消化不良をぬぐえない旅でもある。

 ロカ岬に立って、不思議とこれまでと違う雰囲気を感じる。宗教、王朝、帝国の飽くなきせめぎ合いがウソのような、さわやかそのものの風景ではないか。
 ここは間違いなく、神の恵みである大自然の風土が、人類の醜い押しくらまんじゅうなど、なに知らぬげである。
 イベリア半島を舞台とした古代・中世の歴史を争い・諍い・侵略と、こうまで無定見に決めつけてはならないが、ここロカ岬は、そんなせめぎあいの世界とは無縁に思える。

 「ONDE A TERRA SE ACABA E O MAR COMEÇA」とは、〝ここに地終わり、海はじまる〟。ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの詩の一節だそうだ。
 ヨーロッパ人には強い感慨を与えた大地の突端だろうし、大航海を目指す象徴でもあったのだろう。
 ぼくの故郷は和歌山県南の南紀熊野で、近くに本州南端の潮岬がある。規模において比ぶべきもないが、ぼくの頭にその海景色がダブった。

2000年4月 父、50歳(1950年)

 その昔、父は真珠・真珠貝採取船団の一員として、この辺から100㌧の船で南洋アラフラ海へ旅立ったのだった。16歳。それから17年後の33歳で帰った港も潮岬への根っこにあたる串本港だった。父の一生は、お坊ちゃん育ちのぼくとは違う。
 写真は5年前(2000年)に訪れたときのもの。父の写真も参考まで。

…………………………

シントラ Sintra (5月15日)

  ロカ岬から15㌔ほどリスボンに向って戻る途中で、山間の町シントラに着いた。バイロンが〝エデンの園〟と称えたという景勝地で、世界遺産に登録されている。

王宮 (Palácio Nacional de Sintra)

 正式にはシントラ国立宮殿 という。15世紀から19世紀後半にかけてポルトガル王家の中世の王宮であり、夏の離宮としても使われたそうだ。
 エヴォラで述べた天正遣欧使節がこの王宮を訪れている。Wikipediaによれば、「1584年8月、ポルトガル統治をまかされているアウストリア枢機卿に拝謁しています」。
 他の2つの名勝「ムーアの城跡」「ペーナ宮殿」とあわせて世界遺産に登録されている。
 ぼくたちは、王宮のみ、上の写真のファサードから入ってしばらく内覧した。 

…………………………

リスボン Lisboa …2 (5月16日)

 観光最終日は、リスボンでフリータイムが与えられている。夕刻(4時半)まで「お好きなように」と。
 地下鉄を利用して、バイシャ地区の3つの広場と周辺の街並みを楽しんだ。

 昨夜から連泊のシェラトン(Sheraton Lisboa)は市の中心部にあり、五つ星。プールやジムやらで施設充実・雰囲気最高らしい。素泊まりだけとは本当にもったいない。
 ホテルのすぐそこに地下鉄のピコアス駅(Picoas)があり、旧市街のロシオ駅(Estação Ferroviária do Rossio)まで、往復とも利用した。これがフリータイムならではのいい経験。
 2回乗り換えをして、無事行き帰りした。つまり、ジラッソル線(Girassol)のピコアスから隣のマルケス・デ・ポンバル(Marques de Pombal)でガイヴォタ線(Gaivota)に乗り換え、3つ目のバイシャ(Baixa)でカラヴェラ線(Caravela)に乗り換え、次の駅がロシオだ。40分ほどかかった。

 ロシオ駅から外に出るとロシオ広場で、リスボン市民の重要な待ち合わせ場所だそうだ。この辺から南がバイシャ地区(Baixa)といってリスボンきっての繁華街という。地図では碁盤目になっているから、迷子になることはなかろう。
 ということで、30分ほど南へ歩いて、テージョ川に沿うコメルシオ広場(Praça do Comércio)からぶらり散策をはじめる。
 五月晴れとはいかないが雨の心配はなし。気温も東京付近と同じで、さわやか快適。しばらくあちらこちらを撮りまくる。広場中央の騎馬像はジョゼ1世とかだったが、調べていませんので。

 コメルシオ広場を出て、幅広いプラタ通り(Ruo da Prata)をずっと北へ歩くとフィゲイラ広場(Praça da Figueira)に突きあたる。そして左となりが散策終点のロシオ広場(Praça de Rossio)だ。

 通り沿いに豚を丸ごと蒸し焼きしたのを見る。目を背けた妻を励ましたついでに、その店隣のレストランで昼食とした。
 旅の記念にと少しはずむ。メニューを丹念に見る振りをしながら、絵柄を指さして注文する。「Carpaccioという白身魚の刺身のマリネとAçorda de Mariscoというポルトガルならではのスープ」だそうだ。
 味? おこがましくも、やはりわが家の料理にしくはなし、……とはおくびにも出さず、「エ・ムイト・ゴストーゾ(E muito gostoso.)」(とてもおいしいです)。通じたのかどうか自信はない。

 路面電車が頻繁に通る。カラフルで異国情緒たっぷりだ。

 フィゲイラ、ロシオ両広場で夕方まで遊ぶ。
 観光客にまじって、市民と思える人たちがベンチに座って語らっている。一昨日までのスペイン各地のどこをとっても感じなかった何かがある。両国とも中世までイスラム文化圏にあったとはいえ、レコンキスタ以降、未だイスラム文化が色濃く根付いているスペインと、思いっきりカトリック文化に塗り替えられたポルトガル。
 その違いかなと短絡しかけたが、もう一つ、地中海に面したスペインと大西洋に面したポルトガル。
 思い浮かぶぼくのありったけはそんなところだが、それだけでもなさそうだ。
 気ままなこんにゃく問答を頭で繰り返しながら、ぼくはスナップ写真を撮りまくり、妻は強制的にモデル役をさせられた。

 ツアー仲間との最後の晩餐はシェラトン・ホテル内のレストランにて。豪華料理やリスボンの地酒であるマスカットのワイン「シュカテル・デ・セトゥーパル」……、これ見よがしげな話はこのくらいでよそう。
 10日間の旅はこれで終わった。

…………………………
 それではポルトガルよ、オブリガード、チャウ(Obrigado, Tchau)。スペインよ、グラシアス、アディオス(Gracias, Adios)。……ありがとう、さようなら。

…………………………
エヴォラ、その他の写真
リスボン、その他の写真
ロカ岬・シントラ、その他の写真

メモ 《ポルトガル》
国名 ポルトガル共和国
República Portuguesa
政体 共和制、EUに加盟
面積 約9万2千平方km(日本の約4分の1)
人口 約1千32万人(日本の約10分の1)
首都 リスボン(人口約56万人)
宗教 カトリックが97%
時差 日本より9時間遅い
…………………………

雑感「O氏ご夫妻に感謝」

 O氏ご夫妻について少々書き残す。
 旅をとおして、ぼくはO氏に、妻は奥様に、ずいぶん親しくしていただいた。
 マドリードでプラド美術館を出たときだったろうか、4人とも興奮して歩きながら話がはずんだ。名乗りあったのはその時だ。O氏はぼくより6つ年上で、社会活動を楽しんでいるとか。その夜から食事のテーブルをご一緒することになる。

 お二人とも陽気で、何事もよくご存じだ。そろって英語はおろかスペイン語もこなされる。Y添乗員がお忙しいときは、O氏が通訳の任を引き受けてくれた。

 無事10日間の旅を終え、成田空港で別れるとき、O氏がぼくを手招きして、自著の書籍2冊を進呈してくれた。

 書籍末尾のプロフィールを見て、納得しながら敬服した。
 政府関係の輝かしい経歴に加えて、つい数年前まで国家と情報関係の大企業に経営者としてつくされている。そして奥様の内助の功。現在も社会貢献に余念がないようだ。
 今回は、周囲に全くの内緒で、ぼくたち同様のエコノミカルな旅を大いに楽しまれたご様子だった。
 ありがとうございました。

O氏と書籍、その他の写真
Part5前半 朗読(17:35) on
Part5後半 朗読(11:01) on
<4.アンダルシア 6アラカルト>
0.タイムスリップ 1.コスタ・アズル 2.マドリード
3.トレドと近郊 4.アンダルシア 5.リスボンと周辺
6.アラカルト
Close  閉じる