0.タイムスリップ 1.コスタ・アズル 2.マドリード
3.トレドと近郊 4.アンダルシア 5.リスボンと周辺
6.アラカルト
4.アンダルシア (Andalucía)
 5月12日午後から14日まで、アンダルシア地方を巡った。
 コルドバ、グラナダ、セビリアといった有名な観光地は山間・大平原に点在しており、移動中もバス車窓に広がるこの地方ならではの風景を楽しんだ。
 地中海に臨むミハスでは、白い家並みに際立って違った雰囲気を感じた。
 アンダルシア固有の風土とイスラム文化が残した歴史遺産を、叙情をまじえて味わった3日間だった。
コルドバ Córdoba (5月12日)

 マドリードのホテルを朝8時に発って、南へ150㌔近く、ラ・マンチャ地方のカンポ・デ・クリプターナで白い風車を見学したあと(前章)、さらに南へ南へ。
 300㌔ほど走って、1時頃にコルドバに着いた。
 季節野菜のスープで遅い昼食をとり、早速コルドバの歴史地区を観光。正味1時間半弱で切り上げざるを得ず。もう1時間はほしかった。
 下の写真は、唯一内覧を含めて見学したイスラム教寺院メスキータ(Mezquita)だ。

 8世紀から11世紀にかけてイスラム王朝の都として栄えた象徴であり、世界最大級のモスクという。
 くどいが、カトリック文化はよくぞ原型のまま残してくれた。モザイクの唐草模様やアラビア文字で飾られた壁のくぼみ(ミフラブ)を見るだけで得をした気分になる。
 現地のガイドさんも時間を気にしてか、かなり説明を控えたようだ。わからぬままに内覧したのが惜しまれた。
 …………
 メスキータ周辺に住まう旧ユダヤ人街の入り組んだ路地も、ほんの素通りではもったいない。花壇に彩られたパティオ(中庭)を垣間見ながら、ゆっくり歩きたかった。

 今宵の宿はさらに150㌔以上南のグラナダで、もうすでに4時。ゆとりある日程ならこの地に宿るであろうことは言うまでもない。それを承知でこのツアーに参加したつらさかな。
 徐々に暮れゆく車窓はるかに目をやりながら、ウオークマンに仕込んだファリャの「スペインの庭の夜」を聴くことにした。ラローチャのピアノで、前章で触れたとおり、コミショーナがスイス・ロマンド管弦楽団を指揮している。リピートに設定したから、これで繰り返し3度目が流れている。ピアノのリズムが夕陽に染まる平原の景色に同化して、ロマンチックと感傷をない交ぜにした気分になった。

 ファリャは、「三角帽子」「恋は魔術師」のバレー音楽が示すとおり、アンダルシアの民族舞踊フラメンコに思い入れがあったはずだ。
 このピアノ協奏曲も同列だが、静かな情緒と抑えた情熱は他の曲とおもむきを(こと)にする。
 1楽章「ヘネラリーフェにて」の序奏で静かにアンダルシアの王宮庭園に導き、2楽章「はるかな舞踊」から切れ目なく3楽章「コルドバの山の庭」に続くに従って高揚していく。演奏時間24分24秒。
 1楽章の「ヘネラリーフェにて」は今宵から明日にかけてグラナダ・アルハンブラ宮殿で曲の余韻を楽しめるとして、3楽章の主題が「コルドバの山の庭」なのだ。
 それに気づいたからといって、イスラム文化をいまに伝えるこの古都に、もっと深い印象を受けたかどうかは半信半疑ながら、ここにも1泊の気持ちは頭を去らなかった。

 …………
 あかね色ほのかな夕空に原野が広がる中をバスはひた走る。
 なんとなく小声で武満徹の「小さな空」を口ずさんでいる。最初はけげんな顔を向けた妻もぼくにあわせている。
 メロディといい歌詞といい、目に写るもの悲しいような甘酸っぱいような景色が、われしらず口ずさませ、ハミングさせている。ここはやはりギターの伴奏でなければ……、などと独りよがりしながら。
 2楽章の歌詞が、先ほどのコルドバの余韻と車窓の眺めに、いかにもあう。

夕空見たら 教会の窓の
ステンドグラスが 真赤に燃えてた
いたずらが過ぎて 叱られて泣いた
こどもの頃を 憶いだした
…………………………
グラナダ Granada (5月12-13日)

 5月12日、大型バスはマドリードからコルドバを経て、グラナダまで600㌔を走り抜き、20時前にホテル「アリサレス・デル・ヘネラリーフェ」(Alixares del Generalife)に到着した。
 アルハンブラ宮殿に近いようだ。ホテル名は、宮殿のヘネラリーフェ庭園に面しているから、そう名付けられたという。のんびりとした雰囲気だ。
 すぐにホテル内レストランで、バイキングの夕食。この日がぼくの65歳の誕生日ということで、トラピックスから「España」のTシャツをプレゼントされた。

 写真手前のお二人はO氏ご夫妻。旅を通してずいぶん親しくなった。17日、成田空港で別れ際にO氏が自著の書籍2冊を進呈してくれた。第5章の「リスボンと周辺」末尾に記す。

 グラナダは、王国が建設された1238年から1492年のレコンキスタ完了にいたるまで250年余り、イベリア半島におけるイスラム最後の王朝として栄えたという。アルハンブラ宮殿は、いうまでもなく〝イスラム文明〟の象徴だ。その頃の古都の香り豊かな面影を、翌13日、一日かけて味わうことになる。「España」のTシャツにジャンパー姿で。

アルハンブラ宮殿 Palacio dela Alhambra

 宮殿の広さは、一日で見きれるようなものではない。ぼくたちはその中の要所といえるナスル朝宮殿と、城外のヘネラリーフェ庭園を見て回った。

 ナスル朝宮殿(Palacios Nazaries)は、外観からすでにぼくたちを幻想の世界に導いた。
 アラヤネスの中庭(Patio de los Arrayanes)いっぱいに広がる池、水面に映る宮殿に目を見張る。

 続いてライオンの中庭(Patio de los Leones)。噴水はライオンの形をしている。ここから見える宮殿のバルコニーに群れなす柱がまたみごとだ。「これがイスラム芸術」としかいいようがない。

 諸王の間(Sala del Rey)、二姉妹の間(Sala de las Dos Hermanas)……、天井の絵画が何種類ものきらびやかな模様で、見上げ続けて首が痛くなる。

 アルハンブラ宮殿は、見晴らしもよい。
 写真はここから見下ろしたアルバイシン地区Albaicín)の眺めだ。イスラム時代の街並みの面影が残る一帯といわれている。

 そしてヘネラリーフェの庭園(Generalife)。

 宮殿の北、「太陽の丘」にある別荘の一角だ。アセキアの中庭(Patio de la Acequia)はアンダルシア地方のイスラム建築で保存状態の良さが尊ばれているよし。細長い池と周囲の花壇にまた見とれた。
 ここでファリャがあのピアノ曲の1楽章をイメージしたに違いない。

 タレガの「アルハンブラの思い出」(Recuerdos de la Alhambra)はわずか数分の小品だが、ぼく自身には宮殿の思い出に寄り添っている。ギタリストのみならすべてがレパートリーにしているだろう。ぼくはどなたの演奏でもよいが、やはりナルシソ・イエペス。

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 《閑話休題》 グラナドス
 19世紀から20世紀にかけて活躍した作曲家だ。そのEnrique Granadosはグラナドスの本名なのだろうか。彼、カタルーニャのバルセロナに近いリェイダ(Lleida) で生まれている。だからアンダルシアのグラナダ(Granada)の地名との関係は、今のところわからない。「やはり!」というような何らかのつながりがあると信じているのだが。
 前章で取り上げた「スペインの作曲家・演奏家」で、セゴビアのLPアルバムに、彼の「スペイン舞曲第5番」があることを書いた。
 帰国後、図書館で「ピアノ三重奏曲、作品50」(演奏:ボザールトリオ)を見つけた。
 アルベニスほどアンダルシア的(〝ロマンチックで感傷的〟と前述)でないが、どの曲も品がある。
 Wikipediaはこうコメントしている。
 「スペイン民俗音楽に根ざしたピアノ作品が多く、それらを近代的な作曲スタイルのうちに昇華させており、マヌエル・デ・ファリャに連なる近代スペイン音楽の開拓者といえる」。

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ミハス Mijas (5月13日)

 スペインがアフリカのモロッコと接するジブラルタル海峡から、東へ300kmにおよぶ地中海沿岸をコスタ・デル・ソル(太陽の海岸、Costa del Sol)と呼ぶ。欧米の観光客で賑わう一大観光地といい、その一つがミハスだ。

 グラナダ市内観光のあと、西へ160㌔。正午ミハスに着き、レストランでローストチキンの昼食を済ませる。
 海抜420mという高台の町から眺める海景色が絶景であることはいうまでもない。それと等しく、白壁の家並みが何ともシックだ。好天にも助けられて、のどか・さわやかに、おもむきのある狭い街路を散策した。

 人気のロバタクシーには乗りそびれたが、ペーニャ広場、闘牛場跡、展望台、……コンパクトに集まっているから、ゆったりとしばし心和む憩いのときだった。
 妻はみやげ物屋で見つけた貝殻のネックレスが気に入ったようだ。ぼくはCosta del Solの麦わら帽を買った。

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セビリア Sevilla (5月13-14日)

 この町の名はぼくの頭の中で、「セビリアの理髪師・序曲」が一人歩きしている。軽快でユーモラスな曲だ。
 オペラそのものは、イタリアのロッシーニが作曲した2幕ものだそうで、原作・戯曲はフランスの作家。
 「理髪師」が活躍する舞台に、なぜスペインのこの町が選ばれ、作曲家ロッシーニがオペラにしようとまで考えるに至ったのか。素朴な疑問が浮かぶ。
 セビリアについて、ぼくにはそれ以外の予備知識はなかった。

 5月13日午後、白壁の町ミハス観光のあと、西へ200㌔、夕刻セビリアに到着。
 ホテル「シルケン・アル・アンダルス・パレス」(Silken al Andalus Palace)にチェックイン。
 翌朝の歴史地区観光に近いから選定されたホテルであるにせよ、四つ星。他のホテルも同様だが、単に一夜の寝泊まりだけではもったいない気がする。翌朝のこの写真ではゴージャスな雰囲気は伝えられないが。

 13日夜は夕食付でフラメンコショー鑑賞のひととき。
 19時から20時半まで、いわゆるタブラオ(フラメンコのライブハウス)のエル・アレナル劇場(El Arenal)にて。200人収容とか。
 オペラ「セビリアの理髪師」ではなく、迫力に満ちた本場のフラメンコ・ディナーショーを楽しんだ。
 フラメンコをジプシーの踊りで片付けてはいけない。バラの髪飾り、フラメンコ・ギター、衣装、とくにショール。「スペイン文化のエキスなのです」、Y添乗員は幾分声をうわずらせながら説明してくれた。「情熱の町セビリア」とも。

 …………
 翌14日、早朝8時にホテルを出発して、歴史地区の2ヶ所に限って観光した。

 セビリアはアンダルシア自治州の州都だそうだ。人口約71万人。
 8世紀から600年近くにわたってイスラム文化をおう歌した古都だ。その13世紀中頃、レコンキスタによってキリスト教徒の文化に取って代わられる。
 腰を据えれば、現存する歴史建造物を巡り歩くだけでも、両文化のせめぎ合いと文化の踏襲を、臨場感を持って味わうことができるのだろう。ぼくたちは急ぎ足だ。次の2ヶ所を撫でただけだが、それなりに得るところはあった。

カテドラルとヒエルダの塔(Catedral / Giralda)

 「正気の沙汰と思えないほどの大きな聖堂を」、そんな思惑でこの大聖堂が建てられたという。100年余りかけて1519年に完成。奥行116m、幅76mは、スペイン最大で、ヨーロッパ全体でもバチカンのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセントポール寺院に次ぐ規模だという。
 〝免罪の門〟をくぐり、オレンジの木が立ち並ぶ〝オレンジの中庭〟を通って大聖堂にいたる。
 写真に収めることができなかったし、下手な説明はかえってぶち壊しだ。そのめくるめく豪華さに恐れ入ったとしかいいようがない。要所の名前のみあげる。「王室礼拝堂」「15世紀の聖歌隊席」「黄金色の木製祭壇」「コロンブスの墓」「ムリーリョ、ゴヤらの絵画」。

 セビリアのシンボルといえる〝ヒエルダの塔〟は高さ97.5mだそうだ。12世紀末にイスラム教徒の手によってモスクのミナレットとして建設された。
 地震によって破壊された部分を16世紀に修復して今の姿になったとか。
 先端部分は高さ4m、重さ1.3㌧で、「風を受けると回転することから「ヒエルダ」(風見)の呼び名がついたのです」と、女性ガイドさんの説明。

アルカサルReal Alcázar de Sevilla

 〝ライオンの門〟を入ってひと渡り見る。このアーチがイスラム文化の名残という。

 スペイン王室の宮殿だ。14世紀、ペドロ1世の命により、イスラム時代の宮殿の跡地建設が始められた。「グラナダのアルハンブラ宮殿を意識した構造ですが、その後の増築でゴシックやルネサンスなどの様式も混じっています」と、ガイドさんは、内覧しないことに恐縮しながら説明した。

 スペイン広場に集合して、セビリア市内観光はこれで終わり。
 時計は11時を指している。さあ、国をまたいでポルトガル・エヴォラへ出発だ。
 その途中、セビリアの〝春祭り〟に遭遇。賑やかな一隊のパレードに出くわした。老若男女。服装もきらびやかで、眺めるぼくたちもしばし興奮した。
 スペイン三大祭だそうなのだ。本当にラッキーだった。

…………………………
コルドバ、その他の写真
グラナダ、その他の写真
ミハス、その他の写真
セビリア、その他の写真
セビリア→エヴォラ、その他の写真

雑感「アンダルシア地方(Andalucía)」

 スペイン南部地方で、イベリア半島最南端部にあたる。中世に約800年間ムーア人の支配を受け、イスラム文化の影響が強く残る。セビリアを中心に、コルドバ、グラナダなどの都市がある。(広辞苑)

 潮の香を含んだそよ風の草原か田園を連想させる「アンダルシア(Andalucía)」。
 この地名、どんな意味なのだろう? その由来について素朴な興味が湧いた。あちこちの情報をあさってみたが、いずれもスカッとした答えを返してくれなかった。諸説あるとかで、こんな具合だ。

アラビア語で「Al-Andalus」(パラダイス)
イベリア半島を追い出された「バンダル族」の国
ビヤスカ語で「Landa-luziak」(広大な土地)
当初居ついた下級階層のゲルマン人を称して、ゲルマン語の「Landolose」(土地なし)

 「アンダルシア」の名に、なぜさほどにこだわるのか? ぼくの興味は変な思いつきによる。
 フラメンコ・ギター奏者として名高いパコ・デ・ルシア(Paco de Lucía)を連想したからだ。
 彼の生演奏に接したのはいつだったろう。多分、大同特殊鋼で東京勤務になった1980年前後だから、30数年ほど前のはずだ。演奏のすさまじさとともに彼の名は忘れようがない。
 この旅でもグラナダでギターとフラメンコ・ギターのCDを数枚買った。そのうちの1枚が「Paco de Lucía」だ。10曲入っている。「Entre dos aguas」「Zorongo gitano」「Malaguena」「Gitanos trianeros」「……」。
 曲芸的な奏法もさりながら、「これがスペインだ」がドスンと胸に迫ってくる。

 本名の「Francisco Sánchez Gomes」はこの際関係ない。1947年、アンダルシアのカディス付近で生まれたとあるから、彼の名「Paco de Lucía」は「アンダルシアのパコ」になってしまう。そう信じよう。
 クラシック・ギターのイエペスやセゴビアとはひと味違った、スペイン・アンダルシアの薫風を、パコ・デ・ルシアは運んでくれると、独りよがりしている。

Part4前半 朗読(14:17) on
Part4後半 朗読(13:22) on
<3.トレドと近郊 5.リスボンと周辺>
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