0.タイムスリップ 1.コスタ・アズル 2.マドリード
3.トレドと近郊 4.アンダルシア 5.リスボンと周辺
6.アラカルト
3.トレドと近郊 (Toledo and La Mancha)
トレド Toledo (5月11日)

 マドリードにいる。11日午前中に市内観光したことは前章で述べた。
 午後はトレド見物だ。南へ1時間走って、夕暮れ時までイスラム文化の色濃い古都を楽しみ、とんぼ返りした(地図では「トリード」となっているが、ここでは「トレド」と呼ぶことにする)。

 ギリシャ出身のエル・グレコが、17世紀の1614年に72歳で亡くなるまで、後半生を過ごしたというトレドだ。丘から見下ろすタホ川(Rio Tajo)に囲まれた町の景色は、その頃の面影を残しているという。

カテドラル アルカサル

 その面影はイスラム文化が占めている。古く8世紀から400年にわたって支配し、その後も15世紀末のレコンキスタ完了まで長く勢力を維持したというイスラム教徒の栄華の名残だ。
 アルカサル(要塞)が正面向こうにでんとし、その左にひときわ高くカテドラルの鐘楼(イスラムのミナレット)が見える。
 後のカトリック社会はこれを破壊することなく今日まで伝えている。最近の戦争・内乱による歴史遺産のむごたらしい破壊行為と対照的で、ありがたい。

 町全体の景観を頭に入れて、川に囲まれて密集した往時の都を散策した。カテドラル→街並み→アルカサルの順序で。

カテドラル Catedral

 フランス・ゴシック様式のこの大聖堂は、250年以上の歳月をかけて1493年に完成したという。
 現地ガイドのトーレス氏によれば、「その後も増改築が繰り返されましたので、中世から近代にかけての各時代の芸術が交じった貴重な歴史遺産です。スペイン・カトリックの総本山として、風格があるでしょう」。
 残念ながら本堂には入らず、誇らしげな偉容を眺めるだけで終わった。

 アルカサルまで、狭い入りくんだ路地を選んで歩いた。といっても、どの街並みもさほど広くはないそうだ。途中、彫金細工の現場に立ち会った。

アルカサル Alcázar

 この要塞には入り、さっきの丘からの眺めとは大いに異なる景観に目を見張った。一方にはコンパクトにまとまった中世さながらの町があり、もう一方には荒涼とした平原の村がある。
 トレドのアルカサルは、11世紀に築かれたのが最初で、「その後何世紀にもわたって破壊と修復が繰り返されて現在に至っています。1936年の市民戦争ではフランコ軍がここに72日間籠城しました。いまはご覧のとおり、軍事博物館として使用されています」とは、トーレス氏の話。

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ラ・マンチャ La Mancha (5月12日)

 ラ・マンチャ地方は、12日、マドリードをあとにして、コルドバからグラナダへの途中、立ち寄った。

 カンポ・デ・クリプターナ(Campo de Criptana)という小さな村だ。ドン・キホーテにゆかりのある風車群がある。
 10基の風車と城址が、丘の尾根に沿って並んでいた。風車は現在使われてないらしい。この村をはじめ、ラ・マンチャ地方に風車が造られたのは16世紀中頃からという。
 この風車の丘から、町全体も隣の町も一望できた。風があまりなくてよかった。

 のどかな陽気に助けられて周辺を散策し、Infanteと名付けられた風車内部にも入った。

 …………
 ちょっとそれる。
 還暦を目の前にした2000年4月に書いたエッセイがある。
 その中にこんなキザっぽい文章が見つかる(本紀行文執筆中の2013年より13年前の話)。

 「ロマンチストだね」、よく人にいわれる。
 (中略) そう、ロマンだ。アメリカにカエル(鉄道クロッシング)輸出を成功させたときだって、いまの会社創業だって、ぼくなりのロマンがあったではないか。歳を重ねた分、自分なりの生き方がしやすくなってきている。
 〝ロマンチスト〟は逆境に強いぞ。逆境自体に気づかないか、それに鈍感なのだから。歯を食いしばったり、挫折したりする暇はない。そのとき思いは次へ行っている。満足や達成感も一瞬の通過点だ。そのときはもうその向こうの夢を追っている。
 こういうドン・キホーテ的ロマンチスト、憧れるね。 (後略)
雑記帳第9話「もうすぐシニア」

 17世紀に書かれたというセルバンテスの小説主人公「ドン・キホーテ」(Don Quixote)について、原作は読んでいないし、ミュージカル「ラ・マンチャの男」も見ていない。それでいて自らの個性の引き合いに出してしまった。
 自分を伝説の騎士なのだとの妄想に陥ったドン・キホーテという郷士が、従者サンチョ・パンサを引きつれ、痩せた馬にまたがって、遍歴の旅に出かける話。
 (やり)を構えて風車に突進する場面はどなたも想像できるはずだ。
 ぼくの頭にあるドン・キホーテは、老いてなお、夢と正義に満ちて、旅を重ねる姿だ。

 73歳がすぐそこのいま、あの頃より多少は身の丈がわかってきたつもりだが、ぼくの想像するドン・キホーテならずとも、「夢見男」の心情は失せていないと自覚する。毛嫌いしても、個性の一部なのだから。 

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トレド、その他の写真
ラ・マンチャ、その他の写真

スペインの作曲家、演奏家
Spanish Composers and Players

 美術家については、「2.マドリード」の末尾に私見を書いた。
 絵は小学生の時から劣等感にさいなまれてきた。それは描くことのほうで、見るほうの絵画鑑賞は別問題だ。だからマドリードの美術館めぐりは安らぎの一日だった。
 聴く、音楽鑑賞は、暇さえあればクラシック音楽に浸っている。コンサートに出かけることはめったにないが、書斎ではステレオの重低音で、外ではiPodを携えて、ヘッドホンで聴いている。

 そんなぼくだから、この旅を前にしてスペイン出身の作曲家、演奏家に重心を移して楽しみ、気分を高揚させた。
 最初に浮かんだのが「セビリアの理髪師・序曲」だったから、その地名に因んで次章とも考えたが、一筆ここに記す。
 作曲者のロッシーニがイタリア人であることはご存じのとおり。
 参考までにこの曲は、40数年前、米国ペンステート大学(Pennsylvania State Univ.)に留学していたとき、寮近くのウールワースで買ったLPの中にある。アルバムの表紙を読むと、「Bernstein Conducts Favorite Rossini Overtures, New York Philharmonic --- Il Barbiere di Siviglia」。

 さて、スペインの作曲家。
 マヌエル・デ・ファリャ(Manuel de Falla)は、バレー音楽「三角帽子」「恋は魔術師」も好きだが、「スペインの庭の夜」をよく聴く。ピアノの音が澄んでいて管弦楽器との協奏に情緒があり、心を高ぶらせ和ませる。表題通りの情景が浮かぶ。
 この曲、iPodに収めたのだけでも幾つかの演奏があるが、やはりピアノはラローチャ(Alicia de Larrocha)でありたい。ぼくのCD原盤(DECCA)は、コミッショーナ指揮スイスロマンド管弦楽団との競演で、1970年に録音されている。

 イサーク・アルベニス(Isaac Albéniz)の「アストゥリアス」は大好きな曲の一つだ。ピアノ曲だそうだが、ぼくは数十年前、米国ワシントンDCに1泊したとき、アンドレ・セゴビアのギター・コンサートでこの曲に出あった。目がうるんで、胸がキュン。これがきっかけで、演奏のセゴビアは当然のこと、アルベニスが身近になった。
 写真は、あの時日本に帰ってから購入したLP2枚組「アンドレ・セゴビア大全集」(ビクター音楽産業)のアルバム表紙だ。
 収録された曲の中で、スペインの作曲家のをあげると、アルベニス(セゴビア編曲)の「アストゥリアス」「グラナダ」の他に、タレガの「アルハンブラの想い出」「アラビア風奇想曲」「アデリータ」、グラナドスの「スペイン舞曲」、ソルの「魔笛の変奏曲」「月光」「メヌエット」といったところだ。
 数年前、友人が岡田博美(ピアニスト)のコンサートに招待してくれた。その時買ったCD「アルベニス:イベリア全曲、岡田博美」(カメラータトウキョウ」をいまもときどき聴く。

 スペインといえばやはりギター曲。アルベニスの他に思い浮かぶのが、フェルナンド・ソル、「アルハンブラの想い出」のフランシスコ・タレガ、エンリケ・グラナドス、ホアキン・ロドリーゴ。出生順に並べた。
 気分を休めたいとき、よく彼らの曲を流す。演奏? その一人がナルシソ・イエペス(Narciso Yepes)だ。
 イエペスといえば、映画「禁じられた遊び」を思い出す。ルネ・クレマン監督の作品で、音楽担当はイエペスだった。古いスペイン民謡「愛のロマンス」を彼自身のギター演奏で有名にした。
 この曲に触発されて大学に入学した頃、ギターに挑戦したのだが、腕の骨折が重なって挫折で終わった。

 ロドリーゴ(Joaquin Rodrigo)を避けて通れない。生まれが1901年で、亡くなったのが1999年。まさに20世紀を生きた。幼児期からずっと盲目だったにもかかわらず、偉大なる作曲家であり続けた。自身はピアニストでギターは演奏しなかったそうだが、クラシックギターの普及に功績大である。
 なにより「アランフェス協奏曲」。いつ聴いても何度聴いても、しみじみうっとりとした気持ちにしてくれる。ベートーヴェンとは全く違った次元で、ぼくには同じ〝明日への希望〟を与えてくれる。
 ぼくが持っているCBS-SONYのLPは、A面がこの曲だ。演奏は、ギターがジョン・ウィリアムスで、ユージン・オーマンディ指揮・フィラデルフィア管弦楽団と競演している。
 ロドリーゴ40歳の頃の作曲という。全盲の彼がなぜマドリード近郊の地アランフェスを曲名に取り上げたのだろうか。深追いしたくなる。
 B面はロドリーゴのもう一つのギター協奏曲「ある貴紳のための幻想曲」だ。54歳の時、セゴビアの依頼で作曲したとか。
 ギターはジョン・ウィリアムスで変わらないが、こちらの競演はチャールス・グローヴス指揮・イギリス室内管弦楽団。バロック音楽を彷彿とさせ、レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」を連想したがどうだろう。

 フラメンコ・ギターに触れざるをえない。パコ・デ・ルシアの名は知っていたが、東京のどこかのホールで彼の歯切れのよい演奏に接したのはいつだったか。以来彼のファンになったのはいうまでもない。
 パコのことは次章「アンダルシア」の後尾で触れる。

 パブロ・カザルス(Pablo Casals)を忘れているわけではない。20世紀最大のチェリストと(あが)められるだけでなく、作曲家であり指揮者でもあった。「カザルスの音楽を聴いたことのない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」とは、フルトベングラーの言葉だそうだ。
 カザルスが愛しよく演奏した曲が「鳥の歌」であることはぼくも知っている。彼の故郷カタルーニャの民謡だそうだ。

 「ツィゴイネルワイゼン」のサラサーテ(Pablo Sarasate)がスペイン人だということを忘れるところだった。この曲の作曲者で、19世紀後半に活躍したバイオリン演奏家だった。ぼくのサラサーテに関する認識はそんなところ。
 Wikipediaの記事を見てびっくりした。半信半疑で要約すると、

 サンサーンスは「序奏とロンド・カプリチオーソ」「ヴァイオリン協奏曲第3番」などをサラサーテに献呈している。
 サラサーテは、ラロの「スペイン交響曲」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第2番」「スコットランド幻想曲」の初演者かつ被献呈者でもある。
 彼の華麗な名人芸は、チャイコフスキーやブラームスなどにも影響を与えた。

マカロニ・ウェスタン、西部劇

 マカロニ・ウェスタンがはやってもう半世紀近くになるとは。
 映画館まで足を運んだ記憶がないのは申し訳ないが、テレビで「荒野の用心棒」をはじめ、数本見たような気がする。
 いまは偉大な映画監督に列せられるクリント・イーストウッドを俳優として有名にしたのは、この種の映画の主人公だったはずだ。
 エンニオ・モリコーネによるエレキサウンドの音楽が、映画そのものよりはやったようでもあった。奇抜・新鮮なサウンドによるメロディの幾つかはぼくでも口ずさめる。
 イタリアで作られた映画だが、まさしく西部劇だ。メキシコから米国の西部が舞台で、ロケ地のほとんどはスペインだったそうだ。うなずける。

 大本の西部劇はたくさん見ている。ジョン・フォードの「駅馬車」「荒野の決闘」「捜索者」「騎兵隊」「……」、ハワード・ホークスの「リオ・ブラボー」「リオ・ロボ」「エル・ドラド」、その他、「OK牧場の決闘」「シェーン」「真昼の決闘」「ワイルドバンチ」「アラモ」「……」。あげればきりがない。
 それらの舞台は概ね、アリゾナ、ニュー・メキシコ、テキサス、コロラド、オクラホマ、カリフォルニア、はてはノースダコタ、サウスダコタ、ワイオミングまで。西部劇とは言い状、米国一円に広がっている。

 「駅馬車」のころの西部劇は白人のフロンティア本位で、いわゆるインディアン(アメリカ先住民)が悪役にされることが多かった。よく取り上げられた種族がアパッチ、スー、チェロキー、モヒカン……。いずれも上記各州の先住民たちだ。

 ここでぼくが注目したいのは、決戦・決闘の舞台となったところの地名である。なんとスペイン語名の多いことか。
 もっとも16世紀から18世紀にかけて米国南西部一帯がスペインの植民地だったことを思えば当然かも知れない。
 米国の地図をひろげて、それらしき地名をピックアップしてみよう。
 州では、カリフォルニア、コロラド、フロリダ、モンタナ、ネバダはスペイン語名だ。プエルト・リコも。
 有名な都市でもこんなにある。ロサンゼルス、ラスベガス、サンノゼ、サンフランシスコ、サクラメント、サンタクルズ、サンディエゴ、エルパソ、サンタフェ、……オハイオ州にトレド。これくらいでよす。

 ことのついでに、40数年前(1969年)に友と3人で米国横断したときの写真をあげたくなった。スペインの自然とは関係ないが、許していただきたい。
 社費留学で1年間ペンステート大学にいたときのだ。
 エアコンのないおんぼろムスタングにテントを積んで、26日間の旅だった。ミズーリ、オクラホマ、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニア、ネヴァダ、コロラド……。「都会を避け、原風景に接したい」と、3人が綿密に選んだルートは当然西部だった。西海岸までの行きは南を走り、帰りはワイオミング、ユタ、サウスダコタ等の北部を通過した。
 目を見張らせた大自然とカーボーイまがい、この9枚の写真、さてどこでしょう?

 …………
 自身の自慢たらしい思い出話に引きずり込んでしまった。
 ここはスペインの古都トレドであり、近くがラ・マンチャ地方だ。このあたりからコルドバにいたる高速道に沿って、果てしなく広がる黄土色の大平原が行き過ぎるはずだ。
 ぼくにはそれがアメリカの西部劇を連想させようが、米国の南西部を支配していた当時のスペイン人の目には、北米西部の景色とふる里が二重写しになったのではなかろうか。

米国西部ドライブ三人旅1969、その他の写真

Part3前半 朗読(09:17) on
Part3後半 朗読(17:16) on
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