0.タイムスリップ 1.コスタ・アズル 2.マドリード
3.トレドと近郊 4.アンダルシア 5.リスボンと周辺
6.アラカルト
1.コスタ・アズル (Costa Azul)
バルセロナ Barcelona (5月9日)
 イベリア半島に位置するスペインの北部・東端で、地中海に面し、北はフランスとの国境が近い。というとぼくの故郷新宮市が浮かぶ。和歌山県南部・東端で、太平洋は熊野灘に面し、東は三重県との県境だからだ。温暖な気候も似ている。
 バルセロナ(Barcelona)といえば、すぐ浮かぶのがアントニ・ガウディのサグラダ・ファミリアだ。人によっては1992年に行われた夏季オリンピックも連想されよう。
 カタルーニャ地方最大の都市で、人口約160万人。スペインからの独立運動が盛んと聞く。
 この町について、旅行の前の予備知識はこれくらいだった。

 シッチェスのホテルから大型バスで、地中海の沿岸コスタ・アズル(Costa Azul、フランス語でコート・ダジュールCōte d'Azur)を30分ほど東へ走り、バルセロナ市街に入る。五月晴れは保証ずみ。
 バルセロナは半日だけの観光になっている。それも10時から正午まで。グエル公園とサグラダ・ファミリアの見物だけに終わった。
 ガウディの傑作だけを巡っても、他にグエル邸、コロニア・グエル教会とその地下聖堂、カサ・ミラ、カサ・ビセンス……、丸一日、いや二日間はたっぷり楽しめそうだ。そこは先を急ぐツアーの悲しさ、それを承知で参加している。悔しければ自分で旅を計画しなければならないが、もはやその気も経済的ゆとりもない。
 2時間で垣間(かいま)見たガウディ・ワールドの断片を記す。

グエル公園 Parc Güell

 1900年から1914年の間に、グエル伯爵とアントニ・ガウディ(Antoni Gaudí)が作った分譲住宅地で、広場や道路などのインフラを整え、60軒が計画されていた。が、結局売れたのは2軒だけ。それも買い手はガウディ本人とグエル伯爵だったというオチがつく。二人の芸術センスと夢は、人々のあこがれとそんなにかけ離れていたのだろうか。
 グエル伯爵の没後に市の公園として寄付され、現在はガウディの一時住んだ家が、ガウディ記念館として公開されている。

 見晴らしがよい。タイルのベンチに腰かけて、ガウディの傑作と眼下に広がる町並みのアンバランスなマッチングを楽しむ。
 ギリシャ劇場と名付けられたテラスへの階段横のトカゲの噴水が大人気だ。いかにもガウディ。大人も子供も見入っている。妻もぼくも。
 なんと奇妙なおとぎの国。知らず心が和んでいた。

サグラダ・ファミリア聖堂
 Temple Expiatori de la Sagrada Familia

 本ツアー目玉の一つであることは疑いの余地がない。
 1882年というと130年近く前になるが(2005年現在)、その年3月にこの聖堂が着工され、初代建築家が意見の対立で辞任したため、翌年2代目として任命されたのがアントニ・ガウディ(Antoni Gaudí)だそうだ。彼は設計を一から練り直す。
 以降40数年、ライフワークとして精力を傾けるが、1926年に路面電車にひかれるという不慮の事故で急死する。享年73歳。
 その時サグラダ・ファミリアはどんな状態だったか。Wikipediaの叙述を借りる。

 北ファサード、イエスの誕生を表す東ファサード、イエスの受難を表す西ファサードや、内陣、身廊などはほぼ完成していたが、イエスの栄光を表すメインファサードと18本建てられるうちの10本の塔が未完成だった。(中略)
 かつては完成まで300年はかかると予想されていたが、……公式発表では、ガウディ没後100周年目の2026年に完成するとされている。(2013年現在)

 ……1984年にユネスコの世界遺産として登録されており、2005年、ぼくたちの旅の間に完成したキリスト生誕の東ファサードの部分も、アントニ・ガウディの作品群として追加登録された。
 聖堂内部は工事中で、まだまだ礼拝が行われるたたずまいではない。隅っこの狭い通路を歩いて、ひと渡り様子をこの目で見た。

 アントニ・ガウディとは? ここもWikipediaの叙述を参考に、メモっておく。

 1852年にバルセロナ南西の町に銅板機具職の子として生まれ、73歳の1926年、不慮の事故でなくなったことは前述のとおり。
 16歳でバルセロナ県立建築専門学校予科に入学、苦学して卒業。
 内装・装飾の仕事に携わっている間に、バルセロナを代表する資本家アウゼビ・グエルと出会う。
 以降、グエル伯爵の斬新な計画を次々と実現していく。 グエル邸、グエル公園、コロニア・グエル教会……。
 1883年、サグラダ・ファミリア聖堂(聖家族教会)の主任建築家に任命されたことも上で述べた。以来この工事に40年以上を費やし、1917年からは他のいっさいの仕事を断ってこれに専念したという。

 1926年6月7日夕刻、バルセロナ市内で路面電車にはねられる。学生時代はダンディで有名だった彼も、まるで浮浪者のような格好だったために病院に収容されるのが遅れたという。そして10日午後5時、市内サンタ・クルース病院で死去。 遺体はサグラダ・ファミリア聖堂に埋葬された。(Wikipedia)

 聖堂を出て広場に立つと、歪んだ塔の群れがそびえている。あお向けの首がしんどくなるのを忘れて、いつまでも眺める。よく見ると各塔の彫刻たるや、圧巻!
 偉大なる建築家の遺志を受け継いで、100年近くに及ぶ大作業だ。それがまだ完成への途上とは。
 〝ガウディが感心するような聖堂を〟、建築家・芸術家それぞれのそんな息吹が圧倒感を持って伝わった。

 あと1日か2日許されれば、ということで一つメモしておく。
 スペインが生んだ20世紀の美術家3人ゆかりの地がバルセロナだ。ピカソ、ミロ、ダリ。それぞれの美術館があり、傑作が展示されているよし。
 3館回ると半日、いや一日仕事になりそうだ。しかしなんと豪華で心豊かな一日であろう。

…………………………
バレンシア Valencia (5月9日)
 バレンシアは、バルセロナから400キロ近く南へ行ったところにある。人口約75万人は、マドリードとバルセロナに次いでスペイン第3位の都市だ。
 昼食終えると、大型バスは一路バレンシアへ。地中海のバレンシア湾(Galfo de Valencia)に臨む沿岸コスタ・アズル(Costa Azul)をひた走る。
 はるか向こうに見える島々はバレアレス諸島だ。その中心のマヨルカ島(Mallorca)はどれか。テニス選手ナダルの出身地という。
 がぼくには、ショパンが病気療養のため、恋人のジョルジュ・サンドとともに滞在し、ここで「雨だれのプレリュード」(前奏曲第15番)を作曲したとの話が頭にある。「現在はヨーロッパ人のビーチ・リゾートで有名」とは、Y添乗員のアナウンス。

 市内のレストランで夕食。パエリア発祥の地ということで出された折角の料理も、いささか旅の疲れ、味わうとまではいかず。デザートにバレンシア・オレンジが出たような……。

 

 と言いたいところだが、バレンシア・オレンジについてひと言。
 このジューシーなオレンジの原産地について、米国カリフォルニア州のサンタアナだとか諸説あり、この地バレンシアが原産地でないことは確かなようだ。

 9時半、トリップ・アザファータ(Tryp Azafata)というホテルに到着するや、各自あいさつもそこそこに部屋に消えた。

 明くる10日は朝早く、8時過ぎからバレンシア市内観光へ。そのあと、午前中に内陸に向かって200kmは先のクエンカまで行き、ひと渡りその町も観光して、さらにそこから150km以上離れたマドリードへ走り、夕食はそちらでになっている。
 強行軍はこの種のツアーにつきもの。由緒ある2ヶ所を急ぎ足で見て回った。

カテドラル Catedral

 (おおむ)ねゴシック様式のこの大聖堂。13世紀、モスクのあとに着工し、15世紀前半に完成、およそ150年の歳月をかけたという。こんな事例はスペインではよくあることか。

 その後の増改築で、バロックや新古典様式も見ることができる、と案内誌はいう。
 3つの入口があり、ぼくたちは正面バロック様式のファサードを持つプエルタ・デ・ロス・イエロスという門から入った。
 内部は16枚のステンドグラス窓から差し込む光で引き立っている。壁の絵画は、ゴヤ、ジャネス、リャノスといった有名画家によるものとか。ここにはイエス・キリストが最後の晩餐で使ったといわれる聖杯もおさめられている。

 隣の鐘楼は、ミゲレテの塔(Torre del Miguelete)だ。ゴシック様式で八角形。高さは70mで、207段の階段を上がれば、バレンシアの町を一望できるという。上らず。

ラ・ロンハ La Lonja de la Seda

 「絹の商品取引所」の意。15世紀後半に建てられたゴシック様式の建造物で、当時のバレンシアの経済力の大きさを偲ばせるという。1996年、ユネスコの世界遺産に登録された。
 駆け足見物ということもあるか、なぜか印象は薄い。無理ムリ何か書きたい気持ちをいさめることにする。
 外壁に彫刻がちりばめられている。天使や鳥獣だ。執筆中の小説「怪獣の棲む講堂物語」を思い出させた。こちら、兼松講堂の壁を飾っているのは怪鳥と怪獣。わが国近代建築の巨人・伊東忠太博士の手になるもので、もっと形相がすごい。

 ラ・ロンハのまん前に中央市場という建物があった。歴史的建造物と思い込んだが、中に入ると結構大きな本物の食料品市場で、賑わっていた。バレンシア・オレンジジュースでスカッとした。原産地云々にこだわることはない。

 …………
 20世紀フランスの作曲家イベールの交響組曲「寄港地」の第3曲が「バレンシア」だ。前2曲の静かな雰囲気に対して、騒がしくなる。カスタネット、打楽器、管楽器がスペイン舞曲を賑やかしくする。港はいまもそんな具合なのかも知れない。
 第一次世界大戦中、若かりしイベールは海軍士官として地中海を航海した。その時の印象を描いたのがこの組曲。ほんの数分だが、フラメンコを想像しながら楽しめる。
 夜も更けてこの地に着いたからやむを得ないが、港町としてのバレンシアを見ることができなかったのは少し心残りだった。

…………………………
クエンカ Cuenca (5月10日)

 バレンシアから内陸を西へ220㌔。昼前にクエンカという標高1000mにある要塞の町に着く。人口約4万2千人。
 その昔大地を河川が浸食してできた、巨大な断崖の上に集落がある。それも絶壁の上の要塞都市だ。
 地の利は、中世に難攻不落の防御力をもたらしたという。

 急な坂を登り切ると、その中世の家々が絶壁からはみ出して連なっている。いわゆる「宙づりの家」(Casas Colgadas)だ。

宙づりの家

 14世紀の建物で、18世紀末までは市庁舎として使われていたとか。現在は抽象芸術美術館に模様替えされていて、入る。
 ミロ、タピエスといった現代美術家の絵画を展示。ぜいたくな気がしつつも、やはりスペインならばこそ。

 同館の洞窟状レストランで昼食。ポークとロシアン・サラダ、ワイン付き。この不便そうな環境では申し訳ない気分のひとときだった。

 急坂を下るとカテドラルが見える。

 13世紀のゴシック建築だそうで、装飾はルネッサンス様式という。
 ファサードも見応えがある。カテドラルと同時期に造られたそうだが、目の前に輝いているのは20世紀に再建されたもの。

 …………
 スケジュールどおりに推移して、現在午後3時過ぎ。天候に恵まれるのはこの地方では普段のことだろうが、風のないのが何よりだ。
 クエンカからさらに西へ165㌔、大型バスはマドリードに向かって快適に走る。それでもスペインの首都に着いたのは夜7時前だった。
 市内のレストランで中華料理の夕食。宿泊のフィエスタ・グランホテル・コロン着、9時半。長い一日だった。

…………………………
バルセロナ、その他の写真
バレンシア、その他の写真
クエンカ、その他の写真

雑感「イベリア半島に立つ」
 Looking around the Globe from Iberia Peninsula

 ヨーロッパ大陸から大西洋に向かって左手握りこぶしを突き出した形のイベリア半島。
 北から南へ、大都市のバルセロナ、マドリード、リスボンと同様の緯度圏に焦点を合わせて、地球儀を回しながら世界一周すればどうなるだろう。
 西に向かって回転すると、大西洋の対岸がボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアあたり。そこから米国大陸を横断していくと、その果ての西海岸はサンフランシスコの少し北になる。
 再び海上で、広い北太平洋を勇躍渡り終えると、そこは日本で、東京から北日本にかけての地域が迎える。
 日本海をひとまたぎして朝鮮半島に上陸し、そこからアジア大陸に入ると、中国北部の長路シルクロードが続く。さらにキルギスタン、ウズベキスタン、そしてカスピ海をまたぐとトルコに到っている。上は黒海だ。
 あとは地中海に乗り出したギリシャとイタリア半島南部を残すだけ。そこを過ぎるとスペインはバルセロナ、バレンシアあたりにゴールインということになる。
 経度をたどってみると、ジブラルタル海峡で南に接しているのがアフリカ大陸最北端のモロッコとアルジェリアだ。その下にマリ、モーリタニア、ギニア、コート・ジボアール、ガーナといった新興国が国境を接している。
 半島東北部がさしずめくるぶしで、腕の付け根がフランスだ。西北部では、海を隔てた北がイギリス、アイルランドだ。その上は北極海で、東にスカンジナビア半島が見える。

 イベリア半島の85%をスペインが占め、残りのほとんどがポルトガルで西部にあり、南北に長細い。
 地球儀を緯度に添ってもう一度回してみると、スペイン・ポルトガル両国あわせて、日本の東京以北から北海道南部までと重なる。バルセロナ界隈は青森から函館のあたりだ。
 が気候としては、温暖な地中海のおかげで、ぼくの故郷の南紀熊野(和歌山県南)よりも暖かそうだ。5月の今ごろでも、昼間は海に飛びこむ若者たちがいるのかもしれない。

Part1前半 朗読(11:13) on
Part1後半 朗読(14:48) on
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