第四章 もうすぐシニア

一、桜? カタクリ!

 1. 節目

 二〇〇〇年は還暦の年、シニアの仲間入りである。会社も創業一二年目。小規模ながら、様(さま)になってきた。
 狭い自宅を改装することにした。健康で文化的なシニアライフを旗印に、妻と時間をかけて練った。もうすぐ工事に入って、四月中に完了の予定である。
 春秋に富んだ半生で還暦を迎えるわけでもなく、今後も大したことはないだろう・・・。と言いたいところだが、内心、この年、《面白かったよな》の節目であり、《もっと面白くなるよ》の二巡目スタート台だと信じている。

 「君はロマンチストだね」
 良きにつけ悪しきにつけ、言われてきた。その都度いやな気分がした。
 いま、この言葉が己(おのれ)の人生のキーワードではないか、と思うに到っている。もう他人(ひと)を気にする年でもない。
 そう、ロマンだ。前の会社で、アメリカにカエル(鉄道クロッシング)輸出を成功させたときだって、いまの会社創業だって、ぼくなりのロマンがあったではないか。年が増えた分、自分なりの生き方がしやすくなってきている。うれしいことだ。
 
 ロマンチストは逆境に強いぞ。だって、逆境に気づかないか、それに鈍感なのだから。歯を食いしばったり、挫折したりする暇はない。そのとき思いは次へ行っている。満足や達成感も一瞬の通過点だ。そのときはもう次の夢を追っているのだ。
 こういうドン・キホーテ的ロマンチスト、うらやましいね。憧れるね。柄でもないが、理想像だ。これ、三巡目の人生に期待するとして、いまはぼくの地で行こう。ピーチャンがくれた元気だ。掛け声だけは威勢よく、
 「なんとかなるさ。なんでもね」

 2. 山の空気

 前日(三月三一日)は会社創業一一周年の年度末だった。
 夕方五時、通常の仕事を終わらせて業務会議に入った。といっても狭いオフィスだ。まん中の机をラウンドテーブルにして、五人の会議。
 幸い今期もかろうじて黒字決算にもっていける。正直自分の貢献度は問いたくないほど低いのにこの成績。思わず潤んだ声でみんなに感謝し、翌週から始まる新年度の健闘を誓い合って会議を終えた。
 
 そんなこんなで、山の空気が吸いたくなっていた。月が変わったら、と思っていた。日曜日(四月二日)はあいにく用が入っている。
「今度の土曜日、どこか山歩きないですか?」
 一週間ほど前、旅行のK社に問い合わせたが、かんぱしくなかった。期待の仏果山は中止だし、他の山行は満員。やむなく申し込んだのが

太平山(おおひらさん)・桜吹雪ハイクと
三毳山(みかもやま)・可憐なカタクリ

 《山は山だけど・・・》
 桜吹雪に興ずるつもりはなく、カタクリの花を愛でる気持もない。チェンジ・オブ・エア、澄んだ空気を吸いたかったのだ。だから太平山も三毳(みかも)山も下調べなし。栃木県であることすら不明のまま、申し込みだけ済ませた。

 四月一日、八時。秋葉原でツアーバスに乗る。参加者は四四人で満員、ぼくは最後の申込者だった。山行きのときよりも車中は賑やか。老若男女、夫婦、アベック、家族連れ、どの席もかしましく話が弾んでいた。
 途中皇室御用達のタマリ漬屋に立ち寄ったこともあり、散策の起点栃木市太平山麓(ふもと)の大曲駐車場へは一〇時二〇分着。陽は中天に昇っていた。
 
 なるほど大平山は桜の名所だけある。見渡す限り桜並木。が、花はすべてつぼみ、一輪も咲いていなかった。
有名なあじさい坂も、こちらは二ヶ月ほど時期はずれ。アジサイの片鱗もなかった。
代わりに梅は満開、見頃であった。いい空気を吸いながら、ゆっくりゆっくり散策して、それなりにリラックスできた。道々、要所の案内板に面白いことが書いてあった。置いてけぼりにならない程度にメモした。

* あじさい坂(五〇〇b以上の石段)

 六角堂から随神門に至る太平山神社表参道一千段の石畳の両側に二千株の西洋アジサイを始め、額アジサイ、山アジサイが淡い紫色に咲き揃う。見頃は六月下旬から七月上旬。
 
* 日本の音風景百選の地(あじさい坂の中腹)
太平山あじさい坂の雨蛙

 標識の俳句にはたいした感慨もないが、向こう下の洞穴に至る木道の音がよかった。
 
* 銘木百選(太山寺の岩枝垂桜)

木が あんなに光っているではないか
花が あんなに匂っているではないか
けんめいに生きているから
 光るのだ 匂うのだ

 三毳山のカタクリ群生地は圧巻だった。昨年五月、奥多摩御前山で見かけたときはほんのちらほら。こんなものだと得心していた。少し遅かったのだ。
 そのときはそのときで、数少ない一輪一輪に天眼鏡を当てるようにして鑑賞したものだ。
 
 三毳山のカタクリはマスゲームだ。狭い坂道の両側に一面咲き乱れている。そのはず、「約百万坪のカタクリ群生地」だそうだ。
 そして道はカメラマンの列。シャッターチャンスの場所には必ず先客がいて、その周囲もカタクリが驚くほど大勢が所狭しと群がっていた。
 
 大平山、三毳山の丘陵散策は、山の空気とまではいかなかったが、気分転換にはなった。そよ風のいい天気だった。
 そういえば、行きの途中でバスは皇室御用達のタマリ漬屋に立ち寄った。種類が多くて迷っていると、
「雅子様お気に入りのこれになさったら!」
 店員のアドバイスに従って太平漬を一袋買ったのだった。いま、帰りのバスでそのことを思い出した。
《そうだ、帰ったらお茶漬けが食べたいなあ》
 温かいご飯に海苔をきざんでまぶし、お茶をぶっかけてわさび味を効かす。そして雅子様もお買い求めの太平漬で、『お茶漬けの味』をゆっくり味わうことにしよう。

二、宴(うたげ)

 1. 結婚披露宴

 翌日(四月二日)は忙しかった。
 大安吉日の日曜日、桜も見頃。午後一番で社員の結婚披露宴に出て、その後JFNの「お花見会」に出席することにしていた。
 
 まずは結婚披露宴。新婦側の代表挨拶を引き受けている。東中野の日本閣で定刻一時に開始。
 新郎新婦の紹介、「なれそめのエピソード」の披露、お二人のケーキカットならぬ酒樽の鏡割り、続いて新郎側代表挨拶。そして・・・。
 ぼくのことだからそんなにうまくいくはずがない。危ない橋を渡りながら、なんとか新婦側の挨拶を終えた。顔を紅潮させ、冷汗しながら、「幸多かれ」が十分に伝わったか、と心配した。席に戻るや、ビールでカラカラののどを潤した。

 食事はフランス料理を頼んでいた。高級な味をたしなむ舌の持ち合わせはないが、先日チョイスを訊かれたとき、ふと一五年前のニューヨークを思い出して、フランス料理にしたのだった。

 2. カエルの話、第二幕

 四一歳に遡(さかのぼ)る。その頃、ニューヨークのDSAに出向して一年経過していた。
 グリニッチ(コネチカット州)に居を構え、マンハッタンのグラセン(Grand Central Station)までニューヘイブン・ラインに乗って電車通勤。家族は、子供三人とも勉学、サークル活動、友達づきあいと、もうぼくをあまり頼りにしなくなっていた。妻は子供の送り迎えに加えて、近所の奥様連中とテニスや手芸に忙しい。
 
 そんな五月のある日。客先の要人、担当者がシンシナティ(オハイオ州)からやって来た。社長は予め夕食の予約をしてくれていた。社長夫人と妻は夕方オフィスへ来ることになっている。
 
 客人を社長室に招じ入れての午後の会議は、ぼくにとって晴れがましい舞台だった。数日前、すでに注文は内定していた。大型、しかも年間契約だ。製品は一三%マンガンの鋳鋼品、鉄道クロッシングの交叉部、通称フロッグ(カエル)。
 D鋼鋳鋼事業部のプロジェクトとして八人の侍が手塩にかけて数年。その結果、みんなが満を持してぼくをニューヨークのDSAに出向させた。そして一年後の本日、一応の答えが出たのだ。

 【年間契約】
 D鋼はLBFにLBFが指定する各種フロッグを月平均一百トン、年間にして一千二百トン、継続的に供給するものとする。

 実はこの量、わがプロジェクトの調査では北米需要量の数%に過ぎなかった。一方、LBFの思惑、『全米需要量の一〇%をD鋼(日本)のカエルで占めるようにしたい』、その量、月平均にすれば三〇〇トン。両社合意の年間契約量は北米需要量に比べれば慎(つつ)ましいものであった。
 
 当時この需要量は米国内メーカーの供給では賄(まかな)いきれず、(現地メーカーが次々と工場閉鎖したこともあり、)イギリス、フランス、スペイン、および中米諸国よりの輸入に頼っていた。カエルは鉄道の重要保安用品。にもかかわらず、どの鉄道会社も品質問題を抱え、現状の製品に満足していなかったのだ。
 このニーズを踏まえて、ぼくたちD鋼カエル・プロジェクトは、英文カタログ、技術資料の準備はもとより、北米の名立たる鉄道各社にサンプル投入、北米鉄道用材展(REMSA)への製品展示、先方エンジニアの製造現場受入れ、・・・マーケティングで行うチェックリストのほとんどの項目は実施してきた。

 ぼくのニューヨーク駐在が決定したとき、カエルの件についてはいわば数年かけたシミュレーションを実行に移すだけだった。丹念に調べ上げた漁場にいよいよ餌もろとも網を仕掛けるに似た行為であった。
 むしろ仕事は、供給責任に関すること、つまり

1. 多品種少量への対応
2. 全米という広い市場への対処
3. 現地での加工、組立、修理
4. トラブル対策
5. 工場のキャパを需要にどう合わせるか
6. その他必要とされる現地との連携プレイ

 これらの解決策として、米国に於ける協業候補の各社と調査・解析・対応の適不適と能力検討を繰り返した。結果、北米市場のペアとしてシンシナティ(オハイオ州)の分岐器専門メーカー、LBFに目星をつけたのだった。
 出向直後から、ニューヨーク・シンシナティ間を何度も何度も往復した。LBFの担当者たちと前述六つのQそれぞれにA(できうるベストの対応)を練り上げ、想定問答で一つ一つ確認していった。

 午後二時からの会議はこんな風だった。
 当方、DSA社長の歓迎挨拶。先方、LBF役員からぼくたち担当者へのねぎらいと感謝の言葉。アメリカ人の誉め上手は先刻承知だが、うれしかった。
 LBFが用意した年間契約書に両首脳がサイン。公式会議はこれで終了した。

 3. タバン・オン・ザ・グリーン

 まさにメイフラワー(May Flower、花の五月)。百花繚乱のセントラルパークは夜もライトアップで優雅な雰囲気を醸(かも)していた。タバン・オン・ザ・グリーン(Tavern on the Green)は南北に細長い公園のやや南よりにあった。
 言うまでもなく高級、それでいてカジュアルな感じ。シャンデリア輝く華やかなホールにジャズのBGMが流れている。大統領がスポーツウエアでというか、プロ野球選手がネクタイをしてというか、そんな出で立ちが似合いそうな明るいレストランだった。
 
 英語がほとんどわからない妻はあんに相違して女王だった。硬直した彼女をみんなかいがいしくしてくれた。料理はなにが出たのか、妻もぼくも覚えていない。フレンチ・レストランだから、フランス料理だった。それだけは確かである。
 ビジネスは終幕不明のドラマだ。八人の侍の一員として北米フィールドサーベイの展開が第一幕とすれば、ここまでが第二幕。つまり、タバン・オン・ザ・グリーンのフランス料理は、いわばぼくと家族にとってかなりややこしい次幕までの短いインターミッションだったようだ。脳梗塞、家族ともども米国より撤退、失意の数年、退社。起伏を秘めた次の舞台は、いずれ機会を見つけることにする。
 ・・・
  
 結婚披露宴は、式次第に沿って和やかに進み、花嫁のお色直しの時間に入った。いよいよ食事である。ぼくはフランス料理。まずはオードブルとスープだ。新郎新婦のスナップ写真をスクリーンで眺めながら、五感はもっぱら味覚に集中する。そしてメインディッシュ・・・。
 舌がとろけるようなフィレ・ミニョンのミディアムレアを赤ワインでゆっくり味わって時計を見ると、二時半。食い意地を満足させたからというわけではないが、ここで結婚披露宴を中座することにした。

 4. お花見会

 東中野から中野で電車を乗り換えて、国立(くにたち)着、三時半。外はまだ日差しが眩(まぶ)しい。日曜日の駅前は賑やかだ。ロータリーから大通りにかけての商店街は、三五年前のうろ覚えの記憶とはまるで違った。
 本当に賑やかでカラフル。老いも若きも学生も、アベックも。《変わったなあ》と、感心しながら「お花見会」の会場へ急いだ。
 
 母校の西正門に「JFNお花見会」と大書してあったので、迷わず門をくぐった。
『日の丸掲揚反対!、君が代強要反対!』、いきなり大看板が歓迎してくれた。
 一方、キャンパスは学生の頃を彷彿とさせるほどの静けさと長閑さ。行き交ういまの学生の顔々ものんびりしていた、といっては失礼か。あの頃との違いは女性の多さ。ほのぼのとした春の日曜日のキャンパスである。
 
 会場は奥まった古い建物の一階に設営されていた。どうやら始まったばかりの雰囲気だった。予想通り格式ばったところはない。見渡す限りほとんどが学生。OBは少ない。幹事のHさん始め、OBを一〇数人見受けたが、その他は学生だった。外国の学生も参加していた。(スウェーデン:一二人、ドイツ:三人)
 全体的にも思ったほどワイワイガヤガヤしていなかった。もっぱらビュッフェ・スタイルで盛られた料理が次々と売れて、小グループごとに歓談がなされていた。見渡す限り同期も知人もなさそうで、やや気後れを感じる。
《お呼びじゃなかったかな》
 ビールの勢いを借りてみんなに溶け込むようにした。
 そのうちOHPでサークルごとの活動報告が始まると、若い活気が会場を独占する。こうなると気後れもどこへやら、頼もしい現実の姿に《ぼくの後輩なんだよ》、なんて落語の野次馬めいた感慨に浸った。
 
 余興は、『パッピエスト・パーソン(Happiest Person)ゲーム』。こちらはほうっておいてもどんどん盛り上がった。
《来年は同期の連中を誘わなくっちゃ》
 まじめにそう思った。
 
 翌日、JFNのメーリングリストに所感を送ることにした。むずかしい話は苦手なので、もっぱらパッピエスト・パーソン・ゲームに絞って。
 
 『お花見の会でゲームがありました。集まった五、六〇人が、それぞれ隣の人とペアになり、じゃんけんして勝ち残りを決めます。勝ち残り同士がまたじゃんけん。ということで、最後の勝ち残りがパッピエスト・パーソンというわけです。ひとりずつに百円玉が渡されそのトータルが商品ということでゲームが始まりました。
 私の隣りは議員のSさん。彼の意気込みむなしく、勝負はあっけなくチョキで私の勝ち。彼から百円玉を一枚せしめました。
 あと四回(だったかな?)、次々と強敵を尻目に、終わってみれば、なんと私がパッピエスト・パーソンになっていました。
 南博(ナンパク)先生の「社会心理学」が「良(りゃん)」という優れた成績であった私は、その結果相手の深層心理まで読み取れるようになったとはいささかも思いませんが、私が勝ちを制したのはすべてチョキだった!
 インタビューで「大金をどのように使いますか?」と訊ねられ、即座に「ハサミを買います!」と答えました。(大金はGETに浄財として捧げましたので、念のため。)
 大学では満足に授業も出席せず、母校というのがはばかられる身。だからお花見の会は、いささか敷居が高かったのですが、勇気を鼓舞して出席しました。
 心配した難しい話に巻き込まれることもなく、学生諸君の溌剌(はつらつ)とした姿に接し、大先輩のMさんやネット推進者の方々と直にお話もできたし、最後に記念写真というエビデンスも得、文句なしの一日でした。
 苦手な本筋の話は他の方に譲るとして、帰りに振り返り振り返り眺めた図書館と大講堂。夕暮れに映える母校の殿堂は私には実に感動的でした。大通りの桜も賑やかに咲いていたことを付け加えます。来年はたくさんのOBと会いたいなー』

三、シニアを前に

 最近よれたハットをかぶって通勤している。キザッぽいかな、と当初は気にしたが、もう慣れた。ぼくなりのおしゃれだ。死んだ父はいつもハットで出かけた。よく似合っていた。ぼくもそのうち似合ってくるだろう。
 少しは人目を気にしなくなってきたのかもしれない。いいことだ。自分の物差しで生きる、当たり前のようで、ぼくにはこれが難しかった。そう、「自分の物差し」をシニアの記念にしよう。

 「引っ込み思案、気が小さい、生真面目」。他方で、「朗らか、前向き、優しい」。そう言われてきた。全部アタリだ。
 肉体的、精神的、ともに強くはない。が、『弱者』と呼ばれるのははばかるし、『強者』に甘えるのも嫌だ。弱いくせに強がりたい、要するに『エエカッコしい』なのだ。
 「お父さんってすごい」とは言われなくとも、いつか子供たちに「お父さんって優しいよね」と言われたいのだ。
 表面(おもてづら)は仕方がないが、見栄えのするバックシャンになりたい。
 大仰なことはできないが、それなりに社会に役立ちたい。他人(ひと)に喜ばれたい。
 
 自宅の改装は、狭いながらもリビングと妻の和室とぼくの作業室兼寝室に主眼を置いた。来週から工事開始だ。
 作業室は縦長の四畳二つを長なりに継ぎ足したようなウナギの寝床だ。そこが仕事部屋になる。ステレオルームになる。書斎になる。夜は寝室だ。
 北側の端っこにステレオを置き、南に向って片側はクロゼット、書棚、作業机が並び、もう片側にシングルベッドを置く。間は少し窮屈なはずだが、「まあいい」とした。
 愛用のステレオは左右スピーカーの間隔がそれほど取れないので、どんな音が出るか。
 いろいろあるが、楽しみな毎日である。

 この改装、「中高年の元気!」(ホームページ)の作業場を念頭に入れていたこと、自明である。新しい部屋は新しいアイデアを生む、妄想気味だが、本人の期待は大きい。
 それやこれやで、シニアになる五月が待ち遠しいのである。

「ピーチャンとぼくの50代」
おわり

朗読: 32' 32"

総朗読時間: 3時間54分50秒

 
まえがき
第一章 吾輩はピーチャンである
Part 1 1. 朝の巻  2. 左足の巻  3. 右足の巻
Part 2 4. 大空の巻 (その1)  5. 大空の巻 (その2)
Part 3 6. 水浴の巻  7. パコちゃんの巻 (その1) 8. パコちゃんの巻 (その2)
Part 4 9. カスガイの巻  10. さ・よ・な・ら の巻
第二章 子持山だよ
Part 5 1. 暗転  2. 赤城へ  3. ひとり歩き 4. 山頂にて  5. 下山
第三章 山のエピソー
Part 6 1. 賛歌 (四題)  2. 食欲 (三題)
Part 7 3. 本当 (三題)  4. 幻想 (三題)
Part 8 5. 錯覚 (三題)  6. 友人 (三題)
第四章 もうすぐシニア
Part 9 1. 桜? カタクリ!  2. 宴(うたげ)3. シニアを前に
 
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