第三章 山のエピソード

五、 錯覚 (三題)

 1. 白馬三山、鑓ヶ岳を下りながら 一九九九年八月

 鑓(やり)ヶ岳を極めてから下山の道中、後ろを見やり見やりすると、白馬の秀峰。昨日三六〇度の眺望をガスに隠した頂上は、いま惜しげもなく全貌をさらけ出している。まったき山。なんと神々しい!
《待てよ?いつか見たどこかの山》
 この神々しさ。容姿から色彩に至るまで、いつかの山にそっくりではないか。
《そうだ、ザイアン、Zionだ!》

 三〇年前の一九六九年に遡る。ペンステート大学 (Pennsylvania State University) に居た頃。おんぼろムスタングにテントを積んで『二六日間三人旅』、友人とアメリカ横断を楽しんだ。その年、八月末から九月下旬にかけてだった。
 途中、グランドキャニオン、ジョシャツリーで一晩ずつテントを張って、九月一〇日、太平洋岸に到達。翌日ラスベガスで一泊。フーバーダムを経由して、その夜、ユタ州のザイアン国立公園入口でテント。当日の日記はこう書いてある。
『夜中、猛烈な雨でテントはびしょ濡れ。寝袋も濡れて、パンツまで貫通した。慌てて起き出し、車に避難。中でウトウト。
 翌日快晴。濡れたものを干して、ザイアン見物。神々しい!』
近くのブライスキャニオン、グランドキャニオンに比べて地味だが、妙に印象深かったこの山の姿。Zionの名のとおり「神の山」。その名はヨーロッパからの移住民が付けたそうだが、先住民もきっと長く崇拝してきたのだろう。それ以外のイメージは湧きようがなかったはずである。

 白馬岳が、そのザイアンにそっくりなのだ。サングラスを外して目をこすった。
《やっぱり》
 面白いほど似ている。
《帰ったら見比べてみよう》
 振り返り振り返り、早足でみんなに追いつくことにした。

 2. 奥日光・切込湖、湖面 一九九九年一〇月

 日光といえば「けばけばしさ」とか「豪華絢爛」を連想していた。奥日光、とくにここは対照的に物静かである。茶の湯か琴の音が似合いそうな落ち着きがある。ほどほどの紅葉もその雰囲気を醸している。そんなことを思いながら切込湖に向かっていた。
 
 と、右前方が開けて、濃く青い空色、そう、コバルトブルーが下一面に広がった。まるでキャンバスに向かって巨大な絵筆で原色を殴りつけたよう。
《なんだ、これ!?》、しばらく唖然として見入った。
 ややあって、その濃い青絵の具の向こうに目をやると、今度は一面まだらの緑。黄ばんでいたり、赤や白い斑点もある。
《こんな景色、初めてだ!》
「切込湖だよ!」、仲間の感嘆詞。
《そうだ、切込湖!》
 錯覚から目が覚めた。コバルトブルーはまさに空。そして湖水向こうの斑(まだら)は紅葉の山。湖面の逆景だった。湖水の絵模様は、見渡す本物の景色よりも、湖岸の額縁を与えた分、よりきれいであった。

 3. 飯盛山、頂上近く 二〇〇〇年六月

 東に向ってなだらかなガレ場の坂道になっており、行きつくところは飯盛山。さえぎるものなしだから全景が見える。形からして『飯盛(めしもり)山』とはよく言ったもので、最初はなるほどと思った。次に思わず声を出してしまった。
「ロスアラモスだ!」
 唐突だが、眼前の景色に淡い記憶がダブった。よくある話だが。それにしても。
 
 三〇年も前のことだから、きっと錯覚であろう。しかしこの山の姿かたちといい、道形(みちなり)といい、高い山々に囲まれた丘陵状といい・・・。
《思い違いだろうな!》
 そう自分を納得させながらも、ロスアラモスが急に懐(なつ)かしくなった。

 一九六九年、勤め先の社命で米国の大学に留学していた頃だ。
 短い留学期間の長い夏休みを無為に終わらせたくなかった。Iさん、Hさんと意気投合して、二六日間の米国横断三人旅となった。
 東部ペンシルバニア州を起点に、オクラホマ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ等の南部諸州を巡って、カリフォルニア州に至り、西の太平洋岸を往復するという算段である。
 友人二人とも原子工学専攻とあって、途中ロスアラモス(ニューメキシコ州)に立ち寄ることを主張した。
  
「そこ、なんですか」
「マンハッタン計画の拠点ですよ」
「なんか聞いたような名前だけど、それ、なんですか?」
 Hさんのご高説が始まる。
 
「広島と長崎に原爆落ちたでしょう。リトルボーイ(広島)とファットマン(長崎)です。たしか飛行機はB―29だったよね。その原爆を造ったところですよ」
「感心しないですね。日本をコテンパンにしたところへなんぞ、行きたくないですよ」
「そう、原爆の記念館ということだけならね。たしかに原爆は日本だけでなく、アメリカにとっても悪夢だったし、その悪夢の根源を誇らしく名所にしているわけではないのですよ。ぼくたちも科学者のはしくれです。原子工学は原爆やらのおぞましいものを造る学問ではありません。人類の幸せと発展にいかに貢献できるか、その研究一筋ですよ」
「お説ごもっともですが・・・。でロスアラモスは?」
「そこなんです。原爆製造過程の悪夢を再現していることは事実のようですが、圧巻はマンハッタン計画ですよ。当時の将軍グローブスが米国の名立たる化学者を人里離れた山奥に集めて、まだ想像上のものでしかない物体を、超短期間で完成させるという空前絶後の離れ業をやり遂げてしまったのです。その一大プロジェクトがコード名『マンハッタン計画』なんですよ。化学者の中心人物がオッペンハイマー博士、ご存知ですよね。ロスアラモスは原爆製造地の名残ではなくて、『不可能への挑戦』というマンハッタン計画の名所なんですよ」
「マンハッタン計画は和訳の本も出てますから・・・、必読ですよ」
 Iさんが追い討ちをかける。
「なるほど・・ネ。まあ、もろ手を上げるわけにはいきませんが、面白そうですね」
「行ってみようよ!」
 ロスアラモスを行程に加えることにした。

 いま、飯盛(めしもり)山に導く尾根道は、ロスアラモスが近づいたあの狭い車道を彷彿させるのだった。

六、友人 (三題)

 1.不老山、下り 二〇〇〇年二月

「サクサク、サク・・・サクサク、サク」
 妻を前に見やる安心感もあり、自然、団体で歩いていることが忘却の彼方。前方は虚空。
 そうだ、今日の山行ホームページのBGMは「アルルの女のメヌエット」にしよう。YさんもMIDIの出来栄えに満足していた。いまはそのように静かな風景なのだ。

 昨年九月下旬か一〇月初めのある日。日曜日の朝刊にYさんの記事があった。
 自称、ベッドルーム・ミュージシャン。寝室で音楽作り、という意味である。MIDI音楽にいそしんでいるYさんの姿を紹介していた。
 アドレスを頼りにメールを入れた。
「MIDI音楽、興味あります。会いたし」
 間をおかず返事があった。「いらっしゃい」
 
 JR総武線津田沼駅から徒歩一五分。メールの道順案内に沿って、方向おんちを心配することはなかった。
「実は今朝、女房を入院させたんですよ」
 玄関にぼくを招じ入れたとき、彼は何気なく言った。
 その日は二時間ほどお邪魔した。彼の作品を聴いたり、生演奏を楽しんだりした。電子クラリネット、ギター、フルート、電子ピアノ、彼は何でも出来る。

 八畳ほどの二階の寝室はベッドと古いパソコン二台に、オーディオと楽器で、足の踏み場もないほどだった。
 一階のリビングはくつろぎのオーディオ空間だ。応接セットの前はどっしりしたプリメインアンプにLP、CD、MD、LD、ビデオ、カセットデッキ。両サイドに四本のスピーカー。真横に三二インチテレビ。

 MDのケースを前にして、Yさんは訊く。
「タンゴ、お好きですか?」
 一呼吸おいて流れてきたラ・クンパルシータは、たちまちぼくを魅了した。メロディではない。生々しい音色だ。五味康祐を崇拝し、音にはうるさいぼくをうならせた。美味しいコーヒーがさらに香りを増した。

 二週間に一度ほどお邪魔することになった。図々しさとベトベトは本来苦手だがYさんの気さくと淡白が幾分ぼくにそうさせた。六八歳。数年前に現役を退いたそうだが、颯爽としている。
 伺う毎にリビングのオーディオが楽しみになった。彼はあらゆるジャンルを聴かせてくれる。とりわけジャズ、タンゴ。民謡や歌謡曲もここでは悪くない。ぼくはクラシックを所望する。彼の解説はプロの評論だ。簡にして明。曲の成り立ちから作曲家、ミュージシャンのバックグラウンド、それに時代考証まで。楽しませていただいて勉強になる。
 
「このMIDI音楽ですが、ホームページのBGMに使わせていただけないでしょうか?」
 「中高年の元気!」について話した。ぼくのは読み物的色彩が強いから、インターネットには不向きだと思っていたし、《BGMがあれば幾分救われるかも》との淡い期待もあった。
「こんなのでよろしければ」
 以来わが「中高年の元気!」は、YさんのBGMでずいぶん引き立つようになった。

 お邪魔するたびに入院中の奥様の様態を尋ねた。その都度さりげなく、
「検査入院ですから、すぐ退院ですよ。横っ腹が少し痛いようなんです。本人はあまり気にしてませんがね」
「家でぶらぶらしていてもなんですから、この際病院で気のすむまで診てもらうことにしたんですよ」
「あまりよくないんですよ。なんか腸に疑わしいところがあるとかで」
「患部を動脈が通っていて、手術できないようなんですよ」
「四、五日家に居らせたんですが、病院のほうがいいようなんです」
「娘と代わる代わる看病です。ついているだけなんですけどね」
 だんだん悪くなっている様子が、彼の片言隻語でも十分ぼくには伝わった。

 クリスマスの翌日メールで問い合わせたら、
「年末年始は妻と水入らずです。松が取れたらいらっしゃい」
 うすうす事情は察したが。
 正月九日、筑波山登山のあと、「会いたいのですが」。それとなくメールで打診した。
「スタンドバイミーです。いつでもお越しください」
 事情は十分にわかった。翌日を待ちかねて焼香に伺った。四日に他界されたとのことであった。三ヶ月間、奥様にはとうとうご挨拶出来ずに終わってしまった。
「まだそこに居るような気がするんですよ。普段はそんなこと考えもしないのにね。・・・空気みたいなものですね、夫婦は」
 とりとめもなく、淡々と話した。
「四九日が終わるまで、ステレオは自粛です。三月に入ったらね、いつでも」
「つれないこと言われますね。あなたと話をするのが楽しみなのですから」
 一瞬彼は潤(うる)んだ目をそらせた。

 初対面からなんとなく溶け込めた。
 気風(きっぷ)のいい啖呵の江戸っ子ではない。雄々しい益荒男(ますらお)でもない。親分肌でもなく、押し付けがましいところもない。ただ、感情をもろに表さないが、情にもろそうである。そよ風のような淡白さ。
 しばらくしてこんなことがあった。
「BGMサルーン」というページを作ってみたんですよ。折角の労作が散逸してしまっては、と思いまして」
「それはちょっとね。ぼくの趣味ではないですよ。だけど、あなたも優しいんだね」
 彼はぼくの気持ちが全部わかっていた。考えよりも心を受けてくれた。
「四九日が過ぎたら、少し追加してみようかな」、とも言ってくれた。
 最近のメールに彼らしくないことが書いてあった。
『BGMサルーンを印刷して、妻の仏前に置いてあります』
 思わず、胸の熱くなるのをこらえて合掌した。

 2. 日立・高鈴山、車中のうたた寝 二〇〇〇年二月

 七時半、バスは二八人を乗せて秋葉原の大駐車場を出発。
 車中、初対面のA氏と同席した。チョコとバナナをいただき、しばらく雑談。「救心」の効用を教わった。
 バスは高速道に入って快調に走る。瞼が重くなる。欠伸(あくび)を数回。背もたれを幾分倒す。そしてうつらうつら・・・。
 日立、D製鋼、トラックリンク・・・。走馬灯はバスの揺れに同調してコマ送りを始めた。

 日立に山?考えたこともない。日立といえばH製作所のトラックリンク。それしかないし、その歴史はぼくの脳裏に古くて長い。出会いは三五年も前に遡(さかのぼ)る。
 
 D製鋼築地工場(名古屋)で菜っ葉服を着て生産工程を担当していた。トラックリンクは主として鉱山機械の足回り、キャタピラー、その一枚一枚である。
 築地工場は、トラックリンクを特殊鋼の鋳鋼品として生産していた。クロム・モリブデン鋼(クロモリ)である。当時は、土建・鉱山機械の大手何社にも納入していたが、いま思い出せる客先は三社だ。製品名は客先指定の名称を用いて、こうだった。

トラックリンク  ・・・ H製作所(日立)
トラックシュー  ・・・ S重機(新居浜)
クローラーシュー ・・・ Aアロイ(アメリカ)

 重量の割りに金額はいまいちだが、数の多さと形状は工場が力を入れ始めた造型機に格好の製品群で、手離れもよかった。数百トンが間断なく造型・鋳込・仕上・熱処理の各工程を流れていた。
 
 足掛け三年、現場を追っかけまわした。ハーマン造型機のヨッさんたち、仕上の善さん、熱処理のたっチャン、機械の象さん、・・・度々の口論も居酒屋での一杯もはるか遠い。
 本社や他の部門を一〇年近く回ったあと、東京の鋳鋼販売部に赴任した。再びトラックリンクに出会った。
 
 トラックリンクの値上げ交渉は毎年難航し、成果のないまま販売部の悩みの種だった。何しろ客先はマンモスだ。担当者では端(はな)から相手にされるはずはないので、本件だけは幹部の職掌であった。その幹部からして土俵に上がる前に腰が砕けた。立会い、待ったなしの後は四十五日だ。一突き半であえなく俵の外。このときばかりは日ごろ旗振りに威勢のいい上司も冴えなかった。
 
「先方サ、資材課長のUさんだけどね。実は君と同じ学校なんだよ」
「・・・」
「今回は君が行ってくれないかな」
 いやな役目を引き受けた。同窓名簿を調べたら同期だった。が、一面識もなかった。
 どのようにアポイントをとったか、Uさんは気安く会ってくれた。
 仕事の話はさせてくれなかった。夜、二時過ぎまで居酒屋とバーをハシゴした。彼の家に泊まった。翌朝、二日酔いの頭を抱えて東京へ帰った。
 出社早々、上司から、申し入れどおりの値上げ回答があった旨、聞いた。
 
 会う前からそうなる予感がしていた。仕事とはいえ、だからものすごく気が進まなかったのだ。悪い後味だった。Uさんの爽やかな笑顔と彼に対する申し訳なさがいつまでも残った。「ありがとう」、ぼくのすまなそうな声に電話の向こうで彼の快活な声が応えた。「また飲みに来なさいよ」。
 直後、ぼくが課長に昇格したのはそのせいではない。そして昇格以上にうれしかったのは職務分担が変わったことだった。輸出が主務になって、トラックリンクは他へ移った。Uさんに電話で祝電の礼を言って、以来音信不通のままである。

 3.大岳山、下り尾根道にて 二〇〇〇年一二月

 涼風の杉林と白い雑木林の連鎖。身も心も和んでわれを忘れる。尾根道は連想の舞台になる。頭の中は大海原に変わる。現在と過去、現実と架空、夢うつつが自在に大海を遊泳する。
 ぼくのいま、風はバイオリンの音色、交互に現れる左右の景色はまだ見ぬ北欧だった。二〇年前、ニューヨーク駐在当時の先輩Mさんがそこにいた。

 Mさんはのどかな人だ。静かな物腰。ほのぼのとした優しさ。スマートといいたいところだが、どこか田舎くさい。その風貌からとても「D社きっての国際人」を想像できない。むかし見た好きな西部劇、「大いなる西部」で、グレゴリー・ペック扮する主役を小柄にした感じ。いまもそう思う。下戸であることも似ている。
 海外での活躍が長かった。工場建設・試運転、技術指導、学術講演等、あらゆることに携(たずさ)わった。トルコ、インド、フィンランド、ルーマニア、ブルガリア、南米、インドネシア・・・、交流した国々も色とりどりだ。なかでも彼に強い印象を与えたのは北欧、とくにフィンランドだったようだ。口数の少ない彼が好んで引き合いに出した。
 彼は冶金屋だ。長年の現場経験で学究に磨きがかかっている。堪能な英語に加えて、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語がこなせる。だからD社が海外志向を加速させるに従い当然彼が一翼を担(にな)っていた。
 
 うれしいことに、Mさんもクラシック・ファンだった。彼とカーネギーホールへ何回も行った。ノイマン+チェコ・フィルや、エマニエル・アックスや、ヘンリック・シェリングに酔った。ときどき会場の下を通る地下鉄の音に酔いが覚めた。
 クラシック以外ではもっぱらゴルフ。同僚Nさんと三人で、近郊のカントリークラブへよく行った。ぼく自身、仕事も充実した頃であったが、私的にも愉快な日々だった。

 そう、バイオリンの音色のことだ。
「この金曜日、カーネギー・ホールへシェリングが来るの知ってますか」
「ああ、知ってるよ。行こうか」
「シベリウスのバイオリン協奏曲をやりますよ」
「いい曲だね。フィンランド、思い出すなあ」
 そんな会話があって、二人でコンサートに行ったのだった。
 白模様の雑木林と杉林のそよ風で、ぼくの海原に聞こえたのはこの曲なのだ。

 ぼくがニューヨークに赴任して三年近く経った頃、Mさんに帰国命令が下った。ちょうどぼくの体の不調が急速に進行している頃だった。つらい思い出だ。
 異常に後頭部が痛む。トイレが近い。ふらつく。手足がよくしびれる。そして無性に苛立つ。すべてが脳梗塞の前兆だった。
 ホームドクターが高血圧を指摘。病院でMRIを受けようとしたが、造影剤アレルギーで断念。英語の問題もあり、医者を日本人医師に変える。頭痛薬のみの支給となる。指示の何倍飲んでも効かず。
 Mさんとの別れの頃は最悪だった。ぼくの苛立ちの矛先がもっぱら彼に向かった。彼は鷹揚に対応してくれたが、当然限界はあったろう。ひところの明るい付き合いは消えた。気まずい別れだった。
 
 彼が日本へ帰って二ヵ月後に脳梗塞がぼくを襲った。たまたまぼくが米国の客を案内して日本へ出張した三日目だった。ぼくは、療養のあと、強制的に国内勤務になり、その後米国は行かず終いである。家族は、妻がどのように切り盛りしたのだろうか。何とかみんなで引き上げてくれた。
 得がたい先輩を失った悔いがいまもぼくの心にある。Mさんは二、三年前に社を引いて、晴耕雨読というか、夫婦和してゴルフとボランティアの日々と聞く。

朗読: 35' 09"

第4章「もうすぐシニア」へ続く

 
まえがき
第一章 吾輩はピーチャンである
Part 1 1. 朝の巻  2. 左足の巻  3. 右足の巻
Part 2 4. 大空の巻 (その1)  5. 大空の巻 (その2)
Part 3 6. 水浴の巻  7. パコちゃんの巻 (その1) 8. パコちゃんの巻 (その2)
Part 4 9. カスガイの巻  10. さ・よ・な・ら の巻
第二章 子持山だよ
Part 5 1. 暗転  2. 赤城へ  3. ひとり歩き 4. 山頂にて  5. 下山
第三章 山のエピソー
Part 6 1. 賛歌 (四題)  2. 食欲 (三題)
Part 7 3. 本当 (三題)  4. 幻想 (三題)
Part 8 5. 錯覚 (三題)  6. 友人 (三題)
第四章 もうすぐシニア
Part 9 1. 桜? カタクリ!  2. 宴(うたげ)3. シニアを前に
 
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