第一章 吾輩はピーチャンである
一、朝の巻
吾輩はピーチャンである。ヒトの年令では八歳くらいだが、ぼくたちインコでは中高年だ。
一一月、ある日曜日の朝。小春日和のぽかぽか陽気だ。さっきまで隣の部屋でラジオの音がしていたが、いまなにやらごそごそ。七時半、主人は好きなテレビの番組に合わせて起きたようだ。
ややあってぼくの部屋へ。かごの被いをとる。明るくなった。案の定、空は晴れ渡っている。ここはマンション一一階の南向き和室。ぼくはかごの鳥だ。
「ピーチャン、おはよう」、と主人。
「オトーサン、オハヨー」、とぼく。さらに、
「オトーサン、ダイスキ。ピーチャンイイコダヨ」
主人の顔が崩れる。いつもの日曜日の始まりである。
八年ほど前、晩秋の昼下がり、ある園芸学校の大広間で三羽のひながかえった。緑のセキセイインコだ。
職員さんがそのうちの一羽を、小さな鳥かごである家庭に運んだ。それがぼくなのだそうだ。
家庭は主人と奥様、それに三人の子供の五人家族。一二階建てマンションの一一階に住んでいる。主人は五〇歳、小さな会社をやっている。一つ年下の奥様は主人を手伝っている、ということだった。
で、ぼくはヨシコさんの部屋に入れられた。
ヨシコさんは長女で大学二年生だ。彼女がこれからしばらくの間、流動食で育ててくれることになった。
なにせぼくはまだ赤ちゃん。目が見えないから、ヨシコさんの差し出すスプーンにくちばしをくっつけて食べ物を貪ったようである。
年を越した頃、やっとピーチャンとして、六番目の家族になった。すでに食事は粟粒のえさを食べることができるようになっていた。一人で止まり木から降りては食事だ。水もときどき飲む。
主人は居間でずっとテレビだ。インスタント・コーヒーの匂いがぼくのところまで漂(ただよ)ってくる。
下の中庭が賑わいだした。一二階建てマンション六棟が丸く囲んでいる大きな広場である。
子供たちはもう遊びまわっている。スズメやハト、その他知らない仲間たちのさえずりや叫び声が飛び交っている。ぼくも外に向かって大きく叫んでみた。
「ピーチャン、イイコダヨー」
いま、朝の輝きを丸ごと受けて、あんなことこんなことを思い出した。
二、左足の巻
冬が始まっていた。ある夕暮れどき。
いつもは主人が帰ってからなのに、奥様は今日に限って早々とかごから出してくれた。薄暮れの外界は怖そうだけど、電気で明るい八畳と六畳の続き部屋は安心して飛べる。まず、中庭に面した六畳の洋室から居間のステレオ・アンプまでウォーミングアップ。そして壁に掛けた絵の上にひょいと乗っかる。いつものルートである。
この絵。
一五年ほど前(もちろんぼくはまだこの世にいない)、家族五人全員でニューヨークの近くに住んでいたときのことだそうだ。休日、家族そろってニューヨーク、ダウンタウンのグリニッチビレッジを見物していたそうな。秋、日曜日のこととて、昼下がりの往来は賑わっていた。
露天街花盛り。その中に老けたイタリア紳士が絵を売っている。四、五枚広げて、一〇枚くらい立てかけている。
主人はその紳士に話しかけたという。
"Your works?"(アナタが描いたのですか?)
"Sure! You see? Florence is my name. Buy one. How about this! "(もちろんですよ。ワタシはフローレンスといいます。一枚いかがですか。この絵、いいでしょう!)
そんな会話だったそうだ。
イタリア人は陽気である。主人も陽気だ。主人は、気が合えば衝動買いするという悪い癖がある。奥様の渋面を尻目に一枚買ってしまった。 二九五ドルとタックス。
お陰でニューヨークからお住まいのコネチカット州グリニッチまでの道、中古オールズモービル・カトラスの車内では運転の主人を除いて、みんなの頭上はフローレンスさんの『海とヨットの絵』で占領されたそうな。
面白いのは、いまこの絵を一番気に入っているのは奥様だ。三年間お住まいになったグリニッチの海岸の景色にそっくりだから。奥様はグリニッチが大好きなのだ。
アコーデオンカーテンで仕切った台所では、奥様が「ジョニーへの伝言」を歌いながら夕食の支度にかかったところだ。今夜の料理は何だろう。だって主人はいつもおいしそうなところを少しずつ(といってもぼくには腹一杯)食べさせてくれるんだから、ほおってはおけない。
カーテン越しにまな板の音が聞こえる。
「トン、トン、トン、・・・、トントントン」
そして油の煮立ってくる音。
「ボチ、ボチ、・・・、ジュル、ジュル」
カキフライだ!
二、三日前から主人が奥様に懇願していた。カキフライは主人の大好物だ。年中ほしがっている。カキを二つ一緒にころもに包み、ふんわりとサラダ油でキツネ色に仕上げる。これにたっぷりとカラシを利かせたトンカツソースをつけて口一杯ほうばる。そのときの主人の顔。カラシで鼻の穴を大きくしながら、満足を絵に描いたようである。
「ジュル、ジュル・・・、サー・・・、ジュル、ジュル・・・、サー」
カキフライと玉ねぎの揚がる音。それに香ばしいにおい。たまらない、早く主人が帰ってこないかな!
ふと見ると、アコーデオンカーテンが少し開いている。奥様はどうしたのだろう。チャンス、この一瞬!
『海とヨットの絵』からテーブルを通過、アコーデオンのすき間をうまくかいくぐって台所へ一目散。天井近くの棚(たな)に止まる。
予想どおりだ。油鍋は静かな池の感じ、中のカキフライはちょうど食べごろ。奥様は何か別のことに気を取られている。ぼくに気づいた風はない。ひとつまみ失敬しよう。
鍋をめがけて羽根を広げ、緩やかに降下する。そして鍋の池にタッチダウン…………
『左足に指がない。くるぶしだけ』なのは、この恥ずかしくも恐ろしい失敗の結果なのだ。鳥の唐揚げなんて殺生なことを言わないでほしい。
左四本の指は油の中に消えた。顔を真っ青にした奥様がすぐ医者に運んでくれたが、事件はすでに終わっていた。ぼくは気が動転して、死ぬほど痛いことを忘れていた。寒くてぶるぶる震えていた。
三、右足の巻
暑い夏だ。のどが渇くから水をいつもより多く飲む。ぼくだって生ぬるい水よりも冷たいビールを飲みたい。それと察して、主人はぼくをかごから出してくれる。ぼくの気持ちがよくわかるのだ。
今夜も奥さまの目を盗んでグラスのビールを飲ませてくれる。おいしい!何回もくれる。少しテーブルの下を散歩する。左足事件以来の千鳥足がさらに千鳥足になる。
今夜の主人はご機嫌だ。ヤクルトが勝っている。巨人が弱くなるとソワソワするくせに、今年はどうやらヤクルト応援のアンチ巨人派。ぼくの好きなカワハギをつまみにヤクルトへの声援勇ましく、泡立つビールをのどに濾してはグラスを充たしている。
そんな主人を見るとぼくまで楽しくなる。別にヤクルトファンでもないし、巨人が嫌いでもないけれど、主人の破顔と嬌声がうれしい。
ヨチヨチヨチ、・・・、ヨチヨチヨチ。
主人はテレビに目を奪われてすこぶるご機嫌。
「ヨシッ、それいけ!」
ビールの泡といっしょにカワハギの細切れがボロボロ床に落ちる。
主人は格好よしだから、人前では几帳面を装っていても、本当はこうなのだ。だからぼくはいまゆっくりとおいしいカワハギを好きなだけ食べられるのだ。
なんと程よい大きさで散らばっていること。そこらじゅう、とくにイスの下にたくさん散らばっている。
ヨチヨチヨチ、・・・、ヨチヨチヨチ。
「石井イー、いいぞ。もういっちょう三振お願いー」
ぼくはテーブルの下で、
「オトーサン、ダイスキ。オトーサン、ダイスキ」
主人も負けずに、
「清原アー、あんまり頑張らなくていいんだよオ」
一瞬、主人は興奮して後ろへイスをずらした。
前の片脚がぼくの右足を捕らえた。ぼくは悲鳴をあげると同時に真っ暗になった。。。
目が覚めると近くの病院らしい。イタイ!それよりもまた真っ暗になりそうである。
お医者さんの声がしている。
「このまま生かしておくのはかわいそうですよね。左足はくるぶしだけだし、今度は右足がぜんぜんダメになってしまいましたから」
「・・・」
「痛み止めの注射と塗り薬はつけておきますが、ご本人は生きること自体、苦しいと思いますよ」
「・・・」
「よろしければ、苦しまずに終わるようにしますが・・・」
「待ってください!」
奥様だ。声がかすれている。震えている。ぼくはお医者さんの言うように、《ラクニシテホシイ》
しかし声を出すどころではない。幾分痛みは和らいできたが、本当に《ラクニナッテキタ》感じもする…………
もう何日経ったのだろう?
主人と奥様が見つめている。主人のつらそうな顔。奥様の悲しそうな顔。
「あれ、ピーチャン、目が開いたよ」
「ほんとですね!」
「だけど、どんなにして生きてくれるのかな」
「ほんとですね・・」
二度と再び止まり木には止まれない。そう思ったに違いない。普通ならそうだ。
ぼくの考えは少し違う。あきらめるのはどうしてもできないことがわかったときでよい。両足とも指は全部ダメだが、左足のくるぶしはいいではないか。右足もそのうち何とかなる!
それからまた何日経ったか。
止まり木へひょいと乗っかる練習をはじめてみた。まず飛び上がる訓練。何とか足腰と羽根がうまく合うようになった。今度は止まり木で体をバランスさせること。落ちては飛び上がる。飛び上がっては落ちてしまう。何回も何回も、何回も。
・・・
左足のくるぶしで止まり木を掴むことを覚えた。親指のような爪が一本いつの間にか生えてきていたからである。
右足はダメだ。使えない。しかし止まり木に乗っけてバランスをとればいい。
毎日が練習の明け暮れだ。飛び上がる。左くるぶしの爪で止まり木を掴む。右足をバランスさせる・・・。何日も何日も繰り返した。
その甲斐があった。何とか止まり木をものにすることができるようになった。
「ピーチャン、えらいんだね」
「ほんとですよ!」
うれしい。主人も奥様もびっくりして誉めてくれている。
夜中、バランスを崩してよく落ちる。落ちても必ずまた飛び上がって戻る。止まり木の上がいいのだ。止まり木はぼくの寝床なのだから。
朗読: 19' 44"
4.「大空の巻(その1)」へ続く
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