第三章 山のエピソード

三、 本当 (三題)

 1. 奥多摩・御前山、山頂にて 一九九九年五月

 山頂の空は霞んでいた。
「こちらのほうサ。ホントウは鷹ノ巣だとか、六ツ石だとか・・・。ホントウはドワーッとすごいんだよ!」
 無念のやり場なげに仲間はぼやく。

 山から「ホントウは」を取ってしまったら会話は味気なくなる。とくに山では優れて便利な言葉だ。ただ、これを繰り返すと白けてくるという、やや困った言葉でもある。
 「ホントウ」でない現実の景色はいったい?たぶんにホントウの眺望は現実の「イマ」より格段に優れたものであり、イマはいかに不運な状況か、その悔しい気持ちの発露であるようだ。
 ぼくはあまのじゃくかもしれない。「ホントウは」を聞くとイマの景色が妙に映えてくる。
《ヨカッタ。シメタ!》
 今日も霞(かすみ)がありがたい。どうしてどうして、霞んだ空の向こうに山並みと遠くの連山が薄くぼやけて見える。山々の名を特定できないから、かえって景色を全体で捉えているような気がする。ホントウによかった!
 悔しい方の景色は、ゆっくり山の本で楽しむとしよう。

 2. 奥日光、切込湖・刈込湖、涸沼近く 一九九九年一〇月

 「ホントウは」の対極をなす表現はひとつではない。
 「一番」「最高」「絶好」「初めて」、その他ボキャブラリーに応じて、大仰なジェスチャーを交えて発せられる。その状況は間違いなく過去にない絶景であり、自分がいまいかにラッキーであるか、優越感を味わうべき立場にいるか、こみ上げる感情をすぐ仲間に伝えたい、仲間と共有したい、その現れであろう。
 こんなとき、「そうですか?」と語尾を上げて言葉を返してはならない。絶対的な相づち以外を求めているはずはないのだから。ただ、「スゴイ!」「ホントー!」「・・・!」。高く、強い声で応える。たとえ「一番」と思わなくても。
 
 今回の奥日光は、「一番!」、と叫ぶチャンスを逸した。すべてのシーンで一拍遅れた。どの場所でもみんながわれ先にあらゆる感嘆詞を発してしまったからである。まさに何年に一度あるかなし、名勝奥日光の秋景色だった。

 3. 白馬岳、山頂にて 一九九九年八月

 山行を前に仲間は興奮を隠せなかった。
「白馬からの眺めサ。まさに三六〇度だよ。あっちもこっちもドワーッと! 高川山も川苔もいいけどサ。まるっきり違うんだよ!」
「そりゃあ、一〇〇〇b級と三〇〇〇b級の違いでしょう」
 わかりきった相づちを打つと、
「そこなんだよ。想像できる?想像がサ、実際とはまた違うんだよナ。行ってのお楽しみ!」

 八月八日(日)、一五時、白馬岳 (二九三二b)。お楽しみはガスの中に消えた。
 白馬山頂の標識と写真に収まりながら、残念節しきりである。
「まあ、観光写真でも百名山のビデオででも見られるからいいじゃないですか」
「そうじゃないんだよ!」、と仲間は憮然として、
「・・・こっち側、南だよナ。すぐそこが杓子と白馬鑓(やり)。向こうが浅間、八ヶ岳。槍ヶ岳も富士山だって見える!」
 その方向を恨めしげに見つめる。
「そうだよ、そうなんだよ!」
 別の仲間が同調して、話を継ぐ。
「西はサ、日本海。手前が雪倉、朝日。その向こうが剣と立山・・・。本当、ビデオや写真じゃダメなんだよな!」
 仲間たちの興奮は留まるところを知らない。悔しい気持ちがよくわかるだけに、慰めようがなかった。
「そうですか、へえー」
 その方角を見つめながら、ぼくも一緒に大きな声で叫んでいた。

四、 幻想 (三題)

 1. 景信山・陣馬山、下り 一九九八年一二月

 山上のパノラマを味わうこと小一時間、陣馬山を後にする。栃谷尾根をつたって一時間半の下り坂。半年前に山歩きを初めて以来一番険しい下りだ。加えて昨日までの激しい雨。乾ききった山道には慈雨であったが、反面「スベル!」という無言のプレッシャーを与える。
 それでもほどよく湿った大量の落ち葉が絨毯の感触を味わわせてくれる。町のアスファルトと比べるのは野暮だ。
 なぜ自然はこうもヒトにやさしいのか?
ヒトはこのような無償の恵みにどう応えているのか?

 因果応報、厳しい言葉である。異常気象、ヒトはいつもヒトの視野での現象と結果から「科学的に」解析したつもりで対策を練る。原因は自明の理と考えているからだ。ヒトが考える原因なんてホームドクターが聴診器をあてたくらいのものかもしれない。
 ヒトの考える原因のもう一つ先にさらなる原因というものがある。自然に対する思い上がりをキーワードにすれば。
 (険しい下りに十分注意を払っているつもりだが。こんな時、頭の世界に埋没してはいけない・・・。)
 たしかにいまそこにある危機、ヒトの滅亡という危機を防ぐためには現状の解析と対策という応急処置が必要である。この点はみんなが目の色を変えているのだからいいとしよう。
 もうひとつ、現在の深刻な事態を招いた源、内科外科解剖学的患部はどこにあるかである。
 どうにもならない状態になっているのか。荒療治を施せば救えるのか。まずは患部を捜し当てなければならない。

1 放射線状のパリ市街型であるならば、凱旋門まで遡(さかのぼ)らなければならない。
2 ボタンの掛け違い型であれば、掛け違ったところまでボタンを外していかねばならない。
3 碁盤模様のニューヨーク・マンハッタン型であるならば、プロットできたところまで碁盤目の近道をたどることになる。

 ぼくも含めて、まぎれもない事実は、ヒトは不遜であるということ、思い上がっているのだ。
 ヒト同士ならば「どうぞお勝手に」。親子、夫婦の諍(いさか)いから戦争に至るまで、自分たちを破壊するだけなのだから。人類の進歩、都市の繁栄、豊かさの追求、・・・これは人類や共同社会にとっていいことのようだから、斜に構える気はない。
 問題は、「何かの犠牲を前提とした、何かの犠牲に支えられた進歩、繁栄、豊かさではないか」だ。
 優勝劣敗、されど盛者必衰。そして因果応報。
 くどく頭の中で藪をつついている間に二度転んだ。(両手首を捻挫、夜湿布を貼ることになる。)

 2. 天城山、万三郎岳に登りながら 一九九九年五月

 平家物語の巻頭に娑羅双樹という言葉が現れる。好きな一節だ。

娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

 娑羅双樹は、辞書によると、
 【釈迦が入滅した場所の四方にこの木が二本ずつ植えられていたという伝説からこの名がある。フタバガキ科の常緑高木で、インド北部原産】

 ヒメシャラは、当山の立て看板にも漢字のフリガナがあり、姫沙羅とある。沙の下に女がない理由はわからない。こちらも辞書を引くと、こうある。
 【ツバキ科の落葉高木。関東以西、四国、九州の山地に生える。高さ一五bに達するものもある。樹皮は淡黄色でなめらか。葉は柄を持ち、・・・(後略)】

 ガレ場をたどたどしく登りながら、左右の木々またその枝に手をかけ、支えにする。白っぽい木々に混じってときどき薄茶色の木が目につきはじめた。ヒメシャラだ。
 触れた手に伝わる感触が他の木々と全然違う。冷たい。本当にヒヤリとする。一瞬ドキッとした。また、その樹皮がもち肌のように滑らかである。再びドキッとした。注意して眺めると、孤高且つ妖艶に見えてくる。高貴なエロチシズムがある。三度(みたび)ドキッとした。
 釈迦入滅に因縁のある木なのか。平家滅亡を象徴する木なのか。
 初夏にはツバキに似た白い五弁の花を咲かせるそうであるが、この木自体、触れて冷たく滑らかで、ツンと澄ました妖艶さ。(娑羅双樹の)花の色よりも木そのものが「奢れる者」を「久しからず」にしてしまった美女のようにも見えるし、「盛者必衰の理をあらはして」いるようにも思えた。

 すべった。転んだ。
 物理的には滑りやすい粘土質とガレ場と「まだ未熟」のせいである。粘土質は靴底の滑り止めを役立たずにしてしまい、ガレ場の小岩はそれ自体がツルンとしている。おまけに砂利状の小石。砂利車と誰かが言っていた。ローラーの上に靴を乗っけた形になり、スッテンコロリと転ぶ。数回滑って、二回転んだ。
 滑って転んだことを無理矢理エロチックなヒメシャラのせいにしたくない。そんなことを言えば恥ずかしいではないか。「年甲斐もなく」と侮蔑の眼差しで見つめられる。
 ぼくが恥ずかしいのは「未熟」そのものだ。美を見てその艶めかしさにドキンとする。女性の魅力を連想する。ぼくは「年甲斐もない」その感性を自慢したいし、そういう意味でなら、侮蔑の眼差しを快く受け入れる。
 ただ、いまヒメシャラで連想した時と場所が良くなかった。右手首に軽い捻挫をした。右肘のところを擦りむいた。未熟は感性の暴走を諫める。だから、逆説的だが、早く未熟を克服したい。きわどいことが頭をよぎってもすべらない程度に。

 3. 燧ケ岳、尾瀬沼にて 一九九九年六月

 三平峠で一服した後、尾瀬沼東岸まではおよそ一五分の距離だ。少し歩くと、鬱蒼(うっそう)たる樹林越しに尾瀬沼が見えた。
「なるほど」
 たいした感慨が浮かばないのは夜行バスの不眠で疲れている証拠か。その尾瀬沼東岸が第一の拠点である。しばらく畔の木道を歩く。
 お目当てのミズバショウだ。が、終わっていた。ちらりほらり、散り遅れているのが、白い、青白い花びらをわずかに見せている。
 それもそのはず、今年のミズバショウは二〇日以上も前、五月第三週が見頃だったそうだ。その旬も二度の霜で長くは続かなかった。

無残やな甲の下のきりぎりす 松尾芭蕉

 それこそ葉うちわまがいの葉っぱが勢いよく伸びて、土筆(つくし)のお化けのような芯が中で屹立している。その脇に花の残骸がどろり、横たわっている。
 
 美ー醜ー汚。
 「汚」は、概ね人間の産物だ。自然の営みに「美」と「醜」はあっても、「汚」は見つけづらい。
 いまここに見る尾瀬のミズバショウ。予想の美景とは大違い。産卵を終えたサケの死骸がそのまま川面にポッカリ浮かんでいたり、カラスや野鳥に臓腑(はらわた)をえぐられていたり、・・・ちょうどそんな景色がダブった。
 こういう景色は「醜」かもしれない。が、美醜を超えた大いなる自然の生態。けっして「汚」ではない。食堂の残飯を犬やカラスが食い散らかしている情景とは次元を異にするものであろう。

朗読: 19' 06"

5.「錯覚(三題)」へ続く

 
まえがき
第一章 吾輩はピーチャンである
Part 1 1. 朝の巻  2. 左足の巻  3. 右足の巻
Part 2 4. 大空の巻 (その1)  5. 大空の巻 (その2)
Part 3 6. 水浴の巻  7. パコちゃんの巻 (その1) 8. パコちゃんの巻 (その2)
Part 4 9. カスガイの巻  10. さ・よ・な・ら の巻
第二章 子持山だよ
Part 5 1. 暗転  2. 赤城へ  3. ひとり歩き 4. 山頂にて  5. 下山
第三章 山のエピソー
Part 6 1. 賛歌 (四題)  2. 食欲 (三題)
Part 7 3. 本当 (三題)  4. 幻想 (三題)
Part 8 5. 錯覚 (三題)  6. 友人 (三題)
第四章 もうすぐシニア
Part 9 1. 桜? カタクリ!  2. 宴(うたげ)3. シニアを前に
 
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