山歩きはピーチャンの死と前後してはじめたのだった。歩きながらピーチャンのせりふをよく思い出したものだ。「ピーチャン、イイコダヨ」「オトーサン、ダイスキ」・・・。
山歩きはこれからも続くだろう。おかげで概ね心身ともに健康だ。さわやかな元気をもらっているようで心地いい。
歩いていると想像力もひとり歩きして、連想を掻き立てる。感動を増幅させる。
いろんな山のあちこちで頭が飛躍した。下界なら一笑に伏されてしまうのがほとんどだが、ピーチャンはなんと言うだろうか。三年前からいままで、山歩きアラカルトである。
一、 賛歌 (四題)
1. 伊豆ヶ岳、山頂にて 一九九九年四月
頂上は広くない。それでもお誂え向きに、一四人が坐れる岩場が空いていた。まずは場所を確保して、四方を見渡す。なるほど噂に違わず、三六〇度見渡せる。
「こっちからサ、高尾、大山、塔ノ岳、わかる?それに蛭ヶ岳。そしてこっちは棒ノ折岳、大岳山、川乗山、・・・。まだたくさん登るところがあるよネ」
リーダーのように山座同定できないが、興味は尽きない。
そういえばこの全方位の眺望、今年初めの高川山以来だ。あのとき、富士山が丸見えだった。いかにものどかな光景だった。木下恵介監督の映画「惜春鳥」を思い出したものだ。
♪♪嗚呼青春の花咲けば、どこかで鳥が鳴いている♪♪
伊豆ヶ岳の眺めは重厚だ。連山のパノラマは鬱蒼として迫りくるものがある。不遜かもしれないが、まるきりの晴天よりもいまのような空、欲を言えば曇天のほうが似合いそうである。
黒澤明監督の戦国絵巻、平家物語の巻頭文・・・。
諸行無常、盛者必衰、春の夜の夢の如し
2. 白馬三山、栂池ヒュッテの夜 一九九九年八月
栂池自然園散策を終えて、夕方五時ヒュッテ着。待ちかねたように雲上の妖怪が大きなバケツを丸ごとひっくり返した。大粒の雨が怒濤のごとく横殴りにワッと来た。ヒュッテの食堂から眺める自然園は暴風雨、映画「蜘蛛の巣城」の戦国絵巻と化した。
と見るや、向こうの小高い山から押し寄せて来る重厚なガス。瞬きを二つ三つする間に自然園を飲み込んでヒュッテめがけて来る。見る見るガラス窓の五b先はガスに包まれてしまった。時を移さずガスはビュンと東へ飛ぶ。一瞬明るくなってすぐ、さらに重厚なガスが五里霧中にする。
豪雨は情け容赦なく可憐な草花にも低い木々にも叩き続けた。土砂降り! この情景にこの表現、弱い。
ベートーベンの『田園』、第四楽章【雷雨、嵐】
同時代のベルリオーズ(1803-69)によれば、『・・・それはもはや単なる暴風雨ではない。恐るべき天変地異だ。宇宙的な豪雨だ。世界の終わりだ。まったくこの楽章は人にめまいを起こさせる。この嵐を聴く多くの人たちは、彼らが経験する情感が喜びであるのか、苦痛であるのかがわからない。』 (三浦淳史「SOCL1002,CBS-SONY」)
このオーバーな表現にいまの状況は近い。ただこの楽章、当時はそのように聴衆の耳をつんざいたのであろうが・・・。いま聴くと、都会の喧噪にも及ばない。楽章への期待に失望すべきか、いまの騒々しさを悲しむべきか。
そうだ。マーラーの『巨人』、第四楽章。
スカッとしたいとき、よくこの部分を聴く。マーラー二八才。その青春の激情を叩きつけたこの楽章。騒音に汚染されたぼくたちにはこれでも物足りないかもしれないが、いまの状況に近い、と感じた。
深夜一時過ぎ、トイレに起きる。もうすっかり静かだ。
《明日の天気はどうやら》
安堵して、二階の雑魚寝布団に戻り、窓の外を見やる。
「アーッ、ナナント!」
星、星、星。満天の星。窓に鼻をこすりつけて夜空を見上げると、
「こんなに星があったのか!」
それも豆粒大のものばかりではない。ピンポン玉にも見紛うような星がごろごろ、宙に浮いている。すい星が弧を描く。夢か。
夕方からの豪雨が地上と空間の障害物をきれいに掃除してしまった。まさに夜空はスペースファンタジー、沈黙のシンフォニーだ。
さらに見渡すと、満天の星の様々なこと。輝きも大きさも遠近も間隔もバラバラである。静寂のマスゲームだ。きっとこの大宇宙も、ぼくたちには悠久の夜空だが、実態は、熾烈なパワーゲームやスターウオーズが繰り広げられているのだろう。
3.白馬三山、白馬の夜明け 一九九九年八月
台地状の丸山(二七六七b)へ来たとき、夜が白んできた。
厚ぼったい雲海にオレンジ色の円弧がゆっくり浮かんでくる。
鮮やかなピンクの帯がこちらに向かって雲海を走る。後ろ遙か彼方、アルプス連山の稜線が徐々に徐々に際だつ。天空は星の競演が去って淡い水色と朝焼け。
スタンリー・キューブリックの映画「二〇〇一年宇宙の旅」、その冒頭。類人猿から人類へ。四つ足から両手が独立した。決定的な進化。人類の誕生。そのシーンを象徴する音楽。リヒャルト・シュトラウスの「ツアラツーストラはかく語りき」、序奏。
オルガンの超低音が地底から湧き上がるように静かに響きはじめる。
トランペットが荘重な調べで加わる。ついで段々大きく太鼓連打・・・
静かに、劇的に、白馬の夜は明けた。 (四時五二分)
4.大菩薩嶺、大菩薩峠の朝 二〇〇〇年六月
目覚めると時計は五時を少し過ぎたところだった。古びた扉を開けて介山荘の外に出る。朝がはじまっている。明るいが、どんよりとした空はいつ泣き出してもおかしくない。いや、すでにそぼ降っている。
が、もやってはなく霧も流れていないから、視界は十分にある。大菩薩峠碑から賽ノ河原への道が向こうの笹薮までくっきりと見渡せる。その左、遠方に向って重畳たる山並みは静かに息づいており、手前の匂うような緑の雑木林と対比的に厳かである。墨絵模様と一口に片付けられない自然の芸術だ。
不思議に湿気を感じない。大気は肌にやさしく、むしろすがすがしい。林からは断続的に小鳥のさえずりがある。そのキュートな音色は小さくて、遠くへは響かない。短いビブレーションのままで雨滴とともに小やぶに吸い込まれていく。
峠の夜明け、山々の息づかい、自然のささやき。いまこの稀有の景色に埋没すると、誘発されるようにあの弦楽の調べが閃(ひらめ)いてきた。それは静かに、遅すぎるほどのテンポで奏ではじめた。そう、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第一五番、その第三楽章だ。
山並みはるか視界の向こうから重い雨雲を縫って心洗われる弦の音(ね)が厳かに響いてくる。響きの在るところ夜のしじまから解放されて次へ次へと緩く胎動をはじめていく。胎動が雑木林に達すると小鳥のさえずりが聞こえはじめる。さえずりはだんだん賑やかになっていく。胎動のうねりが介山荘から賽ノ河原への道まで来ると、大自然はすべて目覚めて、山の一日がはじまる。
梅雨の大菩薩峠、黎明の歌である。
一五年ほど前、脳梗塞から再起したときずいぶん聴きこんだ。いまもよく聴く曲の一つだ。かといってこの楽章を何かに関連付けたことはない。関連付けようがないほどありがたすぎるからだ。
大菩薩峠、介山荘の前で味わっているこの状景。ぼくの目にはいまをおいてないこの自然が、天地花鳥草木を四つの弦にゆだねてぼくを見守ってくれているように見え、感謝の気持ちでいっぱいになった。
二、 食欲 (三題)
1. 扇山、山頂にて 一九九八年一〇月
中高年はなぜ山を目指すのか。当初の思いは人それぞれだろう。
二回目以降は必ず一つの共通点を持つ。山頂の昼食だ。その至福が忘れられない。昼食はおにぎり。これ以上のものがあろうか。
先輩曰く、「山頂のおにぎりは梅に限る!」
異論なし。本能が証明した。おかかよりも鮭よりもタラコよりも、断然梅であった。
そよ風の頂上、西南に雪化粧の富士がこれ見よがしげに艶姿(あですがた)を見せる。眼下は八王子の集落。雲一つない空。
近くで車座のパーティは牛ロース鉄板焼きの豪華版。食後はカリタ濾しのコーヒー付き。マックをほうばるパーティあり、カップラーメンは常識の範囲か。
ぼくたちは極め付きの「豚汁」。こういう心遣い、アイデアはぼくには無理だ。だから余計に先輩を尊敬し、余計にいただく。みそ味がほどよく利いた汁、豊富な豚肉とネギと、・・・。
「だから山なのだ!」
わけのわからない理屈を豚汁とおにぎりにくるんで胃袋に入れた。
2.石老山、山頂にて 一九九九年一月
眺望を味わう暇(いとま)もなく、五目みそうどんだ。
みんな手際がいい。
* 持ち寄った食材をベンチに並べる
(豚肉、こんにゃく、ネギ、タマネギ、里芋、人参、ゴボウ、大根、北海道の細うどん、味噌、つゆの素)
* ガソリンコンロに点火
* 鍋に顕鏡寺の水をなみなみと注ぎ、順序よく具を入れる
* 煮立ってきたことを確かめてみそ味をつける
* 特製豪華みそうどんのできあがり
それだけのことである。それがプロの手に掛かるとどういうことになるか。
大盛り三杯のおかわり、二個目のおにぎり持ち帰り。ぼくだけではない。全員がである。
もったいない話だが、全員景色を忘れてひたすらうどんをすすり、五目を胃袋に運んだ。食後もしばし沈黙が漂うほど、みんなが満足感に浸った。鍋料理の鉄人に全員が起立敬礼した。
3.奥多摩・御前山、下り 一九九九年五月
前が開けたらせせらぎが左側から聞こえた。いつの間にか流れは右の山裾から左のごく浅い谷間(あい)に移っている。水かさも川幅もかなり増してきている。
そして脇にワサビ田が現れた。三畳程度の小さな田圃に渓流から水を引いている。ワサビの苗が青々と一段の輝きを放っている。
《目の保養》、と思いきや、ここにも、あそこにも。歩を進めるにつれて、六畳、八畳大のものから段々畑様のものまで、ワサビ田オンパレードになった。一様に渓流の新鮮な水がパイプや灌漑で引き込まれ、田圃はすべて、見るからに豊富端麗な清流を得て、ワサビの青緑が目に痛いほどである。
山葵(わさび)利いたか目に涙 (圓生の落語より)
この田園風景にマグロの刺身は唐突である。
しかしぼくの頭は、景色を愛でる歓声をよそに、あらぬ妄想にふけった。《ワサビ、刺身、マグロ・・・》。中トロの刺身をほうばった瞬間舌にとろける美味。これに和して鼻にツーンと突き上げるワサビの刺激。アー、なんとも言えないー。
《酒は澗(かん)だよな!》
われを忘れて叫んでいた。
酒は澗、肴は刺身、酌はタボ (圓生の落語より)
酌はしていただかなくて良い。但し、肴はワサビの利いた中トロ、酒は断じて澗(かん)なのだ。
朗読: 21' 07"
3.「本当(三題)」へ続く
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