第一章 吾輩はピーチャンである
九、カスガイの巻
「ピーチャン、お父さんですよ。いい子だね」
このようにかごを開けて、ぶしつけに主人の手がぼくのくちばしに伸びてくるときがある。それが日曜日の朝で、ばつの悪そうな顔をしていたら、奥様と何かあったのだ。
主人はかごに向かってかがんだ姿勢。差し入れた右手の指は確かにぼくのくちばしにじゃれているが、目は所在なげである。
奥様は?まだ別の部屋で床の中。起きてくる様子はない。
主人は高血圧、朝寝坊ができない。奥様は低血圧、早起きは不得手だ。加えて夜、主人の晩酌は長い。テレビを見ながら延々と続く。夕食が済んだら寝床へ直行。
奥様はそれから後片付けをして、ゆっくり自分の好きな番組を見始める。
当然主人は朝が早い。奥様より遅く起きることはない。
主人は起きて布団を片付けると、牛乳を沸かしてトーストを焼く。ラジオと新聞で朝食だ。
食べ終わった頃、好きなテレビ番組が始まる。コーヒーの匂いをぼくのところまで漂わせてテレビに見入る。
と、ここまではいつもの日曜日。
ときどき冷凍庫に食パンが入っていないときがある。牛乳がないときがある・・・。
「お母さん!」
かん高くて友好的でない声が響く。
「牛乳ないよ!」
同じトーンでとげのある声が聞こえる。
奥様の返事がない。奥様は別室でまだ平和に安眠中なのだ。
主人の足音は奥様の部屋へ向かう。そして何かぶつぶつ。たぶん奥様は寝ぼけ眼(まなこ)に抑揚のない声で「すみません」とか、適当に答えているに違いない。
「どうすりゃいいんだ」
主人はきっとそう詰問している。
「だって仕方ないじゃないですか・・・」
奥様はまだ眠そうな目で言葉を返す。
「どうすればいいんだと聞いているんだよ」
主人の声は高くなる。
「だって・・・。悪いけどコーヒーでも沸かしてくれない?」
「いつもこれなんだから。朝めしの準備くらいちゃんとしといてくれよ。大したこと頼んでるわけじゃないんだからサ」
「すみません。今度からそうします」
「この前もそう言ったよ」
「なら、なんと言ったらいいんですか?」
きりがない。折角の日曜日が悲劇のスタートだ。
ぼくも日曜日を待っている。いつもなら奥様が起きてくるまで主人は機嫌がいい。
まず、
「ピーチャン、おはよう。お父さんですよ」
と言いながら、かごの覆いを取ってくれる。
水を新しいのに取り替える。えさを補充する。いそいそとである。
そして目が近づいて、右手がかごに入ってくる。
「ピーチャン、大好きだよ。お父さんだよ。ピーチャン、いい子だね!」
人差し指はぼくの首筋をなでる。心地いい。もうパコチャンに羽づくろいしてもらえないから、これが何よりだ。奥様のほうが上手だが、主人は丁寧だ。
「ピーチャン、イイコダヨ。ピーチャン、ダイスキ。オトーサン、ダイスキ!」
主人の顔がパッと輝いて頬がほころぶ。
・・・
それが喧嘩のあとだとそうでなくなる。だからぼくとしても決して他人事ではない。
しばらくして奥様が主人の部屋に向って、「おはようございます」
返事のない朝のあいさつをして、ぼくの部屋に来る。
「ピーチャン、おはよう。お母さんですよ」
「ピーチャン、ダイスキ。ピーチャン、イイコダヨ!」
「ピーチャン、いい朝ですね。さあ、頑張らなくっちゃ」
と言いながら、今朝は奥様がえさも水も取り替える。主人は膨(ふく)れっ面でテレビに見入っている振りをしているようだ。
今朝は奥様の人差し指がぼくの首筋をなでる。さきほどのごたごたで、ぼくも気分が優れないから、気持ちよくない。奥様も心なしおざなりで、いつもの真綿のやさしさがない。目もあっちを向いたり、こっちを向いたりしている。
「あら!ピーチャン、これ白髪じゃない?羽根も枝毛が増えてきたわね」
「ピーチャン、ダイスキ。オカーサン、ダイスキ。ピーチャン、イイコダヨ。オトーサン、パコチャン、ダイスキ。パコチャン、ダイスキ!」
「お父さん!ピーチャン、かわいいですよ。パコチャンを忘れられないんですね。なんとかわいい」
主人が仏頂面でやって来る。
「そう、本当だね。ピーチャン、かわいいね」
二人でじっとぼくを見つめる。二人ともしんみりとしてぼくを見つめる。
「ピーチャン、イイコダヨ。オトーサン、ダイスキ。オカーサン、ダイスキ。パコチャン、ダイスキ」
「ほら、言ったでしょ」
「本当だ!ピーチャンは本当にいい子だね」
遅ればせながら楽しい日曜日が始まった。
奥様がいないとき、主人はそっとつぶやく。
「ピーチャン、いつもありがとう」
主人がいないとき、奥様はぼくを見つめて、
「ピーチャン、ありがとうね。ピーチャンは夫婦のカスガイですね」
夫婦喧嘩はいつも同じように始まって、終わりも同じパターンである。
喧嘩はしてほしくない。ぼくとパコチャンがそうであったように、いつも仲良くしてほしい。カスガイと言ってもらうのもうれしいけれど、仲良くしていただいたほうがもっともっとうれしい。
ときどき主人が内緒でぼくにこう話しかける。大好きなあいさつだ。
「ピーチャン、お父さんはね。お母さん大好きなんだよ」
いつまでも仲良くしてほしい。
一〇、さ・よ・な・ら の巻
おや、ヘンだぞ?
いつの間にかお腹がふくれてきた。小梅大に赤黒く出っ張ってきた。出っ張りは日増しに大きくなる。
奥様はそれと気づいて、すぐに病院へ連れて行ってくれた。芳(かんぱ)しくない話が聞こえる。
「寿命が近づくと、こうなるんですよ。手術してもいいのですが」
先生は無慈悲にそんなことを言っている。奥様の目から涙が落ちた。ぼくは《そういうことなのか》と受け入れた。
そういえば、最近かごから出て飛ぼうと思っても、なかなかうまくいかなくなっていた。お腹が重過ぎる。フロアからテーブルの上へはおろか、高さ五〇センチのかごの上にさえ飛び上がることができない。自分でかごの外に出られないから、主人が抱っこして出してくれるほどになっていた。
かごの中でも止まり木に上がることができない。たとえ上がったとしてもバランスがとれず、落ちてしまうだけだ。寝心地のよくない下の桟(さん)が、いつの間にか寝床になっていた。
前は止まり木から出口の桟へひょいと降りてひと呼吸、そしてステレオアンプへホップしていつもの定位置へ。さらに壁に掛かった「海とヨットの絵」の上へひとっ飛びだったのに。
「そうら飛んだ。ピーチャン元気だよ!」
主人が見上げながら顔を崩して、ぼくのセリフを叫んでいたのに。
そして、数日後。
今日はやけに寒気がする。一一月だけど、季節の寒さではない。
主人が帰って来た。もう夜だ。
奥様は食卓でくつろぐ主人にこう話しかけている。
「お父さん、ピーチャン、出たがってますよ」
きっと疲れた主人を気遣って、ぼくと遊ばせようとしているのだ。
「ピーチャン、毛羽立ってるよ。えらそうだよ。出していいのかな?」
疑心暗鬼な顔をしながらも、主人はぼくを抱っこしてかごから出した。
悪いけど今日は本当にうれしくない。一歩も動けない。シヌホドしんどいのだ。
「ピーチャン、どうしたの?」、と奥様。
「ピーチャン、毛が膨(ふく)れてるね。目もうつろだよ。苦しそうだね。ごめんね」
主人はすまなそうな顔でかごの中へ入れてくれた。
・・・
いよいよそのときが来たようだ。
生まれてまもなく、この家に連れてこられた。しばらくの間、ヨシコさんが流動食で育ててくれた。左足はカキフライの鍋に消え、右足はイスの下敷きで萎えたままである。洗面所で水洗いされて息が止まったときもある。大空を飛んで一〇日間ほど迷子にもなった。パコチャンと幸せな生活もできた。毎日毎晩、ぼくを見ると主人の顔がほころんだ。奥様のご機嫌もすぐに直った。
「ピーチャンは夫婦のカスガイですね」、奥様のつぶやきはもう口癖になっている。
覚えたヒトの言葉を大声で叫んであげたい。残念だがもう声が出そうにない。
《ピーチャン、オハヨー》
《ピーチャン、イッテキマース》
《ピーチャン、タダイマ》
《ピーチャン、ゲンキ》
《ピーチャン、イイコダヨ》
《ピーチャン、オイシイ》
《ピーチャン、ダイスキ》
《パコチャン、ダイスキダヨ》
《オトーサン、ダイスキ》
《オカーサン、ダイスキ》
いろんなことがあった。いい鳥生だった。この上何か望むことがあるのだろうか?わが鳥生の幕はいま静かに閉じるのだ。
奥様はもちろんだが、主人はきっと泣く。ボロボロ涙を流すだろう。奥様よりももっともっと泣くだろう。ぼくにとってつらいことだが、それが一番うれしい。ぼくだって立場が違っていれば同じように泣くだろう。思いっきり泣いてほしい。
だから今夜は、
《ピーチャン、イッテキマース。オトーサン、オカーサン、サ・ヨ・ナ・ラ…………》
朗読: 15' 38"
第2章「子持山だよ」へ続く
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