萩の旅 中国地方の旅
Part11 萩博物館、松下村塾
Part12 野山獄跡、東光寺、
大照院、萩城跡、
城下町、藍場川
Part21 津和野、萩、秋吉台、
秋芳洞
Part22 錦帯橋、安芸の宮島、
広島平和記念公園
中国地方の旅 Part 2

 旅の二日目、5月18日(金)午後。
 秋吉台、秋芳洞のあと、バスは南に走って錦帯橋(きんたいきょう)に着く。山口県岩国市の錦川に架かる木造のアーチ橋である。

錦帯橋

 日本三名橋(他は長崎市の「眼鏡橋」と東京「日本橋」)とか日本三大奇橋(他は大月市「甲斐の猿橋」と徳島県三好市の「粗谷の(かずら)橋」)に数えられている。
 岩国市ホームページの助けを借りる。

 「五連のアーチ橋として初めて完成したのが1673年(延宝元年)。全長1933メートル、幅員50メートルで、継手や仕口といった組木の技術によって造られている。
 しかし、美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現した。中国杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋がヒントになっている。
 (8月末、この地を訪れる予定だ。自分の目で確かめられよう……筆者)。
 が翌年、洪水によって流失してしまった。直後に橋台の敷石を強化して再建したところ、昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われ、その姿を保っている。
 『錦帯橋』と呼ばれるようになったのは、安永年間(1772~1780)頃で、公式名称に認定されたのは、明治維新後のこと。それまでは『大橋』または『岩国大橋』と呼ばれ、他にも『凌雲橋(りょううんばし)』、『五竜橋(ごりゅうばし)』、『帯雲橋(たいうんばし)』、『算盤橋(そろばんばし)』などの呼び名もあった。」

 錦帯橋の向こう正面が横山で、その(いただき)に小さく岩国城が見える。ケーブルカーで上れるようだったが……。
 5つのアーチをわたり終えると、対岸左の河原が佐々木小次郎ゆかりの名所になっている。
 周辺の景色もすぐれ、時間さえ許せばのんびりしたい、妻ともどもそんな気持ちになった。

錦帯橋
錦帯橋からの眺め
小次郎、燕返しの地

 巌流佐々木小次郎という人物、出自は不明で、その生涯も吉川英治の小説『宮本武蔵』に負うところ大のようだ。
 三国志や三銃士、シャーロック・ホームズとともに、中高時代にのめり込んだ『宮本武蔵』。この小説では、小次郎は周防国(すおうのくに)岩国の出身とされている。
例の燕返しを編み出したところが、見事な一本松のこの場所という。これも吉川英治の創作であろうが、今は間違いなく錦帯橋の見せ所の一つになっていた。

錦帯橋、その他の写真

…………………………

 さらに南へ。瀬戸内海西部で、広島湾の北西部に位置する広島県・安芸の宮島に着く。第二夜は「宮島シーサイドホテル」に泊まり、夕食後はライトアップされた厳島神社を遊覧船で〝幻想体験〟した。

…………………………

 最終の第三日、8月19日(土)。
 午前中かけて安芸の宮島をたっぷり見物。昼食後、バスは山口県から広島県に入り、広島平和記念公園を訪れた。

安芸の宮島

 「安芸の宮島」は通称で、厳密には厳島(いつくしま)という。「松島」・「天橋立」とならび、日本三景のひとつとして知られる。行政区分は広島県廿日市市宮島町となっている。

 古代から島そのものが自然崇拝の対象だったとされ、平安時代末期以降は厳島神社の影響力の強さや海上交通の拠点としての重要性から、たびたび歴史の表舞台に登場した。
 江戸時代中期からは、日本屈指の観光地として栄えてきた。現在では人口1800人余りの島に国内外から、年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れている、とか。
 前日夕刻から当日昼食終えてしばらくするまで丸一日近く滞在したが、過疎の感じは全くないどころか、どこも大賑わいだった。さすが名高い世界遺産の島である。

厳島神社

 厳島の中心は、いうまでもなく厳島神社だ

 海上に浮かぶ大鳥居と社殿で知られる厳島神社は推古元年(593)に創建されたそうで、平安時代末期に平清盛が厚く庇護したことで大きく発展したという。
 現在、本殿・幣殿・拝殿・廻廊(いずれも国宝)などのほか、主要な建造物はすべて国宝または国の重要文化財に指定されている。それらが御本社を中心に回廊で結ばれている。

 Wikipediaによれば、
 「皇族・貴族や武将、商人たちが奉納した美術工芸品・武具類にも貴重なものが多く、中でも清盛が奉納した「平家納経」は、平家の栄華を天下に示すものとして豪華絢爛たる装飾が施されており、日本美術史上特筆すべき作品の一つとされる。
 厳島神社および弥山(みせん)原始林は、1996年にユネスコの世界遺産に登録された。」

 厳島神社が本年(2012)4月3日の暴風雨によって損傷し、とくに大鳥居は朱色の姿を拝しえないこと、ぼくたちも先刻承知である。
 宮島到着の日、夕食後に遊覧船でその具合を確認した。そして翌日昼間、今度は明るい日射しの中でとっくりと再確認。
 ……6月下旬には修復された状態でお目見えとか。

 さて厳島神社。午前中をかけて神社内外を見て回った。

 「世界遺産だから(たっと)いのではない。歴史の重みに裏付けられたこれほどの神々しさと豪華絢爛を見せつけられれば世界遺産のほうからお願いせざるをえないだろう」などと、感嘆・妄想が頭を駆けめぐりながらの見物だった。
 海に浮かぶ本殿・幣殿・拝殿・能舞台、これらをみごとな廻廊がつなぎ合わせている。向こうには大鳥居が、五重塔が見える。
 キザっぽい表現をお許しいただけるなら、平安朝のロマンが、高貴なきらびやかさをともなって身に迫る社殿の内覧だった。

 NHKテレビの大河ドラマ「平清盛」を見ていない。それ以上に情けないのは、吉川英治の「新平家物語」を数巻だけ読んだままでそれきりになっていることだ。帰ったらもう一度初めから読み直したい。
 とはいえ、近く中国へ旅することになっているから、あちらの勉強もしなくてはならないし。「ローマ人の物語」(塩野七生著)も途中挫折しているし。その他読みたい本、やりたいこと、いろいろ思い浮かぶ。優先順位がコロコロ変わって、われながら悩ましい。

…………………………

大願寺

 五重塔へ行く道すがら、何気なしに立ち寄ったのだった。
 高野山真言宗のお寺で、山号は亀居山(ききょざん)、院号は放光院。本尊は薬師如来という。
 明治初頭の神仏分離令で損失した「護摩堂」を2006年4月2日、約140年ぶりに再建したそうだ。
 本堂には神仏分離令によって厳島神社から遷された弁才天像など、多くの仏像を安置しているそうだ
。道理で、この旗がはためいていた(右写真)。
 「宮島現存の仏像中、最古とされる木造薬師如来像、千畳閣の本尊だった木造釈迦如来坐像、脇侍(きょうじ)の阿難尊者像と迦葉(かしょう)尊者像、五重塔の本尊だった釈迦如来坐像・脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩の三尊像、多宝塔の本尊だった薬師如来像、などを安置する」といわれるから、五重塔への途中で立ち寄ったのは何らかの御利益だったのかもしれない。
 外観のみ見物し、合掌して南無阿弥陀仏。

五重塔

 大願寺から10分ほどで着いた。
 応永十四年(1407)に建立。高さ : 27.6m、桧皮葺で和様・唐様を融合した建造という。

 特徴の一つに2層目で止まっている心柱があり、風に対して強い構造となっている、よし。
 上述のとおり、本尊の釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩は、明治の神仏分離で大願寺へ移された。

千畳閣(せんじょうかく)

 五重塔の真ん前にある。ここは靴を脱いで入り、ゆっくり見て回った。

 桁行(けたゆき)41m、梁間(はりま)22m、単層本瓦葺入母屋、木造の大経堂。
 厳島神社から少し足をのばした甲斐があった。堂々の造りで、華やぎはないが落ちつきがある。しばらく見とれながらくつろぐことができた。
 本来は豊国神社だが、857畳の畳を敷くことができたということでこの名がある。
 豊臣秀吉公が戦没者のために、千部経の転読供養をするため天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊(えけい)に建立を命じたが、秀吉の死により未完成のまま現在にいたっているということ。
 ここも前述のとおり、本尊の釈迦如来阿難尊者(あなんそんじゃ)迦葉尊者(かしょうそんじゃ)が、明治維新の神仏分離令のときに大願寺に移されたという。

…………………………

 宮島のグルメは? 生ガキといいたいところだが、あいにく季節外れ。焼いたのを2つ立ち食いし(うまい!)、昼食も焼きカキ定食とした。
 妻はレストラン売店で自家製もみじまんじゅうをいく箱か買っていた。

 商店が軒を連ねる門前街を新婚さんを乗せた人力車が通る。ぼくたち観光客はワッと道をあけてシャッターを押した。……「人力車」は英語で? 「rickshaw」、日本語の短縮形。失礼しました。

…………………………
 広島平和記念公園は最終立ち寄り先である。バスが近づくと原爆ドームが見える。もともとは県の産業奨励館として使われていた建物で、全焼したものの、奇跡的に残った一部という。

 平和記念公園はポーランドのアウシュヴィッツ収容所と同様、負の世界遺産である。
 アウシュヴィッツは昨年11月に、そのむごたらしい歴史的事実の痕跡を目の当たりにした。展示された遺品の数々を前にどなたも声をのんだのだった。
 こちらもひどい。原爆ドームに見る惨状、資料館に展示された残酷な光景、ぼくたちはヒロシマを忘れてはならない。
 そう思いつつ、「ぼくはヒロシマをどれだけ覚えているのか」、寂しくなった。
 卑近(ひきん)な例が、昨年3月の東日本大震災にともなう福島原発事故だ。1年が過ぎて、被災者の多くはまだ路頭に迷っている。
 それでこの未曾有の大事故に対する後処理、今までの経緯は? これからの安心安全への道筋は? 何らお役に立てない身を自覚しつつも、傍観者になりたくない。
 あの3.11から5ヶ月たった昨年8月にNew York Timesが、8日付のインターネットと9日付の新聞で「Japan Held Nuclear Data, Leaving Evacuees in Peril」という現地報告記事を載せた。友人からの紹介でそれを読み、われながら慄然として、翻訳を試みた(小話集第46話「New York Timesで読む福島原発事故と日本政府の対応」)。
 この記事、もう風化しているのだろうか? その内容も含めて、あの事故にかかわるすべてのことが、ぼくたちをして傍観者的過去になった頃、その報いが押し寄せてくる気がしてならない。ぼくたちが生きている近いうちかもしれない。日本、いや世界の子々孫々を奈落の底に導きながら。

 「平和の鐘」「原爆の子の像」「平和の灯」を通り過ぎると、向こうに原爆死没者慰霊碑がある。現在判明している26万人以上の原爆死没者名簿が納められているという。

 その向こうが「広島平和記念資料館」だ。
 いうまでもなく、戦争と原爆の悲惨な現実の検証及び平和への訴えかけがここにある。
 本館では被爆資料や遺品が展示されており、東館では被爆前と被爆後の広島が展開されていた。

 資料館入口で手渡されたリーフレットに「広島に投下された原子爆弾について」という簡明な記述がある。借用する。

 原子爆弾は、ウランやプルトニウムが核分裂するときに発生するエネルギーを兵器として利用したもので、通常の爆薬に比べるとはるかに大きな破壊力をもっています。さらに、核分裂の際に発生するガンマ線や中性子線などの放射線は、長い期間にわたり人体に深刻な障害を与えます。
 広島に投下された原爆は、長さ約3㍍、重さ約4㌧、開発当初の設計よりも短くしたためリトル・ボーイと呼ばれていました。約50㎏のウラン235が詰められていたとされていますが、このうちの1㎏にも満たないものが瞬間的に核分裂し、高性能爆薬の1万6千㌧分に相当するエネルギーを放出しました。
 その内訳は、爆風(衝撃波)が50%、熱線が35%、放射線が15%で、これらが複雑に絡み合って大きな被害を引き起こしたのです。
 強烈な熱線と爆風は、爆心地から2km以内にあったほとんどの建物を破壊し、焼きつくし、放射線による急性障害が一応おさまったとされる1945年(昭和20年)12月末までに約14万人の尊い命が失われました。


当時の様子を説明するボランティア

平和記念公園・資料館、その他の写真

…………………………
 広島空港発16時35分の日航機で、羽田空港着17時55分。いずれも〝Same Time Same Station〟。
 エアポートバスで浦安へ。21時には自宅で遅めの夕食となった。
Part2-2 朗読(22:55) on
< 中国地方の旅Part2-1 「萩と中国地方の旅」 おわり
萩の旅 中国地方の旅
Part11 萩博物館、松下村塾
Part12 野山獄跡、東光寺、
大照院、萩城跡、
城下町、藍場川
Part21 津和野、萩、秋吉台、
秋芳洞
Part22 錦帯橋、安芸の宮島、
広島平和記念公園
和文 英文 (萩) 英文 (中国地方)
再朗読(2023.07.28)
「萩と中国地方の旅 2012」
part1 part2 part3 part4 total
21:05 12:40 9:52 23:27 1:07:04
Close  閉じる