萩の旅 中国地方の旅
Part11 萩博物館、松下村塾
Part12 野山獄跡、東光寺、
大照院、萩城跡、
城下町、藍場川
Part21 津和野、萩、秋吉台、
秋芳洞
Part22 錦帯橋、安芸の宮島、
広島平和記念公園
 2012年の春、山口県萩市を二度訪れた。
 4月初めに、トラピックスの企画で萩グランドホテル天空に3連泊した。それが一度目で、気ままな自由行動を楽しんだ。
 二度目は5月中旬、クラブツーリズムのツアーで山陰・山陽の点景を巡る3日間の旅。萩がその中に入っていて1泊した。

 最初の旅はその頃国内のどこか温泉地に連泊したくて、妻とあれこれあさった結果だった。温泉地とはいえないが、なんとなく引きよせられた。
 羽田から経由地の宇部まで空路、ホテルの大型バスが出迎えていた。3泊・朝夕食付。くつろぎ目的で、萩のなんたるかは二の次だった。結果的には自分で感心するほどよく歩いた。それほど魅力に満ちた町だった。景色、歴史、海の幸、山の幸、夏みかん……。
 1ヶ月半後の再訪はPart2「中国地方の旅」に譲ることにして、4月1日から、本来は無計画・気休めに訪れた萩市内の4日間をここに書き記す。

萩の旅 Part 1

 4月1日(日)~4日(水)の4日間、いまの山口県、長州萩市で過ごした。
 この時期この地を訪れる確たる動機は夫婦そろってなかった。
 強いていえば、妻は俳句の材料がほしいことと、萩焼、日本海。出雲大社や鳥取砂丘をもっと望んだようだったが。
 ぼくはまさにチェンジ・オブ・エア。昨年秋から3月まで何かとせからしかった。バルト三国&ポーランド12日間の旅が11月。直後に旅行のあらましの報告会を引き受けていた手前、出発前は慣れない予習に追われた。
 おかげで、その半年近く前から原稿を(したた)めていた20代から60代にかけての「書き残しの記」は、しばらく中断の憂き目にあった。
 報告会終えて、朗読総時間が4時間を超える長編の紀行文を完成したのが1月下旬。ほうったらかしにしていた「書き残しておきたいこと」の原稿を読み返す。それらの半分を数話に分けて仕上げたのが3月下旬。あとの半分に取りかかる前に一息入れたい、が正直なところだった。

 山口宇部空港から送迎バスで、萩グランドホテル天空に着いたのは昼前、11時過ぎだったか。ホテルあつらえの簡便な地図を頼りに昼食を兼ねて、近場をそぞろ歩きすることにした。快晴陽気、風なし。
 松本川の雁島橋(がんじまばし)が架かっているところに出る。川沿いを左へしばらく歩くと海が見えた。内湾状で、田舎の漁港といった趣である。が、日本海に面していることは間違いない。穏やかな海を見ながら1㌔ほど歩いて、その間に食事処を気にするが見当たらない。二人ともさほど空腹感のないまま、いったんホテルに戻ることにした。時刻は1時に近い。

 意外にも、ホテル近くに格好の海鮮料理店が見つかった。「萩心海」、入るとすぐに大きな生けすが見える。そのかぶりつきの席に案内される。
 店主の勧めのままに、萩地魚活き作りの豪華昼食となった。

店主はた魚博士や河豚掴む  えみ子

 真ふぐ、あまだいをはじめ萩の地魚で心身ともに満たされて、さらにぶらぶら歩き、「萩博物館」では1時間ほど当地の風土と歴史を一夜漬け的に頭に入れる。
 さらにさらに歩いて、気がついてみればそろそろ夕刻。かなり南の市役所を往復していた。
 昼食を挟んで長のぶらり散策が実質的に当地滞在を豊かなものにしてくれた。
 比較的コンパクトにまとまった町、江戸時代の地図がいまも使える情緒豊かな町、明治維新の志士の町、……、翌日からの2日間が盛りだくさんで忙しくなった。

 この町、観光に便利な交通機関がある。「萩循環 まぁーるバス」だ。東回りコースの「松陰先生号」と西回りコースの「晋作くん号」のミニバスで、それぞれ30分間隔で市中を循環している。萩のほぼすべての名所に立ち寄れる。どこまで乗っても一回100円だが、お徳用の「2日乗車券」(700円)を購入し、大いに乗りまくった。以下、訪れた萩の名所・名勝・旧跡……。

 萩市の成り立ちについて、幾つかの〝案内しおり〟をつぎあわせて紹介しておく。
 
 萩市は日本海に臨み、中国山地にその源を発する阿武川(あぶがわ)の下流松本川と橋本川に包まれた三角州を中心に構成された小都市です。
 慶長5年(1600)、毛利氏は関ヶ原の戦に敗れた結果、中国地方8ヶ国の領地を削られ、周防と長門(現在の山口県)の2ヶ国、36万9千余石の領主に移封されました。
 そこで毛利輝元は居城として防府、山口、萩の3ヶ所を候補地として徳川幕府の意向を伺い、萩指月山麓に築城することになりました。
 慶長9年(1604)竣工。これより文久3年(1863)、敬親が幕府を山口に移転するまでの260年間、城下町として栄えました。城は明治7年に解体されましたが、その後目覚ましい日本の発展にもかかわらず、静かで落ち着いた城下町のたたずまいをよく残しています。
 市街に散在する武家屋敷の土塀と夏みかんの織りなす情緒は山紫水明、風光明媚な景色と相まってさらに魅力づけています。
…………………………
萩博物館

 門構えの荘重さに惹かれたこともあり、躊躇(ちゅうちょ)なく入る。受け取ったリーフレットの表紙曰く、「ここが『まちじゅう』への出発点」。
 そのはず、長州藩主毛利氏の居住を萩城本丸・二の丸とすれば、藩の重臣・武家たちが居を構えたのが三の丸。その武家屋敷を参考に、その場所に設計されたそうだ。たしかに言い得ている。
 学芸員H氏の親切丁寧なご案内に感謝。
 吉田松陰、高杉晋作……、江戸幕末とこの地が切り離せないところまではわかったつもりでいた。
 「歴史展示室」は、毛利元就の孫にあたる輝元が萩城を築いた慶長9年(1604)から明治維新までの260年を紹介している。そう、萩は由緒ある城下町なのだ。
 「萩の人物コーナー」には、幕末から現代にいたる萩ゆかりの著名人100人の写真が掲げられていた。
 志士・政治家では松陰・晋作に次いでなじみの名も現れる。……田中義一(金融恐慌鎮静化にあたった首相)、木戸孝允(桂小五郎、西郷・大久保と並ぶ「維新の三傑」)、久坂玄瑞(尊攘派を牽引した村塾の双璧)、 長井雅楽(独自の開国論を説いた先駆者)、伊藤博文(立憲政治を確立した初代総理大臣)、大村益次郎(軍事面で討幕に尽力した洋学者)、井上 馨(鹿鳴館時代を現出した初代外務大臣)、志賀義雄 (共産主義運動の活動家)、野坂参三(革命家・政治家)、乃木希典 (明治天皇に殉死した陸軍大将)、 桂 太郎 (日露戦争前後の難局を担った首相)、 山県有朋 (日本近代軍制の確立者)。

 日本の近代産業を育てた多くの先駆者がこの地で輩出されたとは知らなかった。
 特筆されるのが藤田伝三郎(藤田組を興した関西財界のリーダー)。藤田財閥を築き、多くの人材を育てたとある。 義兄の鮎川義介(日産コンツェルンの創始者)、(おい)の久原房之助(日立鉱山を創業した財政界の重鎮)、中上川彦次郎(三井財閥の大番頭)、本山彦一(現毎日新聞の創業者)……。
 他に政治・軍事の著名人は多い。数名あげると、井上勝(生涯を鉄道に捧げた「鉄道の父」)、飯田俊徳(日本の鉄道草創期の技術者)、渡辺蒿蔵(こうぞう)(日本近代造船界のパイオニア)、田村市郎(現日本水産の創業者)、天野清三郎(日本近代造船界のパイオニア)、笠井順八(日本初のセメント会社・現太平洋セメント創業者)、杉道助(戦後の関西財界のリーダー)。

 教育・文化界でも著名人の写真が掲げられていた。井上剣花坊(近代川柳)、片山東熊(とうくま)(迎賓館設計)……。
 剣花坊の川柳。
  米の値の知らぬやからの桜狩り
  活眼をひらくとゴミが眼にはいり

松下村塾

 吉田松陰の墓所である東京世田谷区の松陰神社ははっきりと覚えている。三軒茶屋に近い。
 大学を一浪して合格したとき、三軒茶屋から神社と逆方向の下代田に下宿しており、受験前の祈願と合格の御礼に参拝した。縁起のいい神社だ。
 こちら生誕地萩市の松陰神社は、事実上境内にある松下村塾で有名だ。
 明治40年、松下村塾出身の伊藤博文と野村靖が中心となって神社創建を請願し、萩城内にあった鎮守・宮崎八幡の拝殿を移築して、元の土蔵造りの本殿に付したものという。


松陰神社

 境内には松下村塾の他、松陰幽囚(ゆうしゅう)の旧宅・吉田松陰歴史館と宝物殿『至誠館』がある。この2館はスキップした。
 松陰神社は萩市で学問の神として最も尊敬を集める神社であり、正月には多くの初詣客が訪れるとか。
 松下村塾はあまりにも有名だから、さぞかし立派な学塾のたたずまいと、あらぬ期待をしてしまっていた。こんな東屋が明治維新に欠かせない土壌だったとは。拍子抜けの一方、横の孝行竹から建屋にかけて、みなぎる息吹きを感じさせられた。
 天保十三年(1842)、吉田松陰の叔父である玉木文之進によって開かれた。15年後の安政四年(1857)に松陰が引き継ぎ、2年あまり指導にあたる。そう、ここで松陰が学び、講義をしたのだ。
 別の案内書にはこうある。
 「(とらわれの身になったあと)安政二年(1855)12月、実家杉家に幽閉され、翌年3月から近隣の子弟に講義を開始し、松下村塾を事実上主宰。安政四年、杉家宅地内の小舎を修理して松下村塾の塾舎とし、まもなく十畳半の部屋を増築する。2年2ヶ月の短期間に、全人格をぶつける指導で久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文らを育てた。」
 直門下の久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作……。末弟子の伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、山田顕義、野村靖……。
 松陰を産み、多くの志士・政治家を輩出した萩という町、弱冠30歳で世を去った吉田松陰の偉大さが第一であるとしても、彼らを(はぐく)んだ長州のこの風土に、失礼ながら、近代ロマンを感じてしまう。 

親思ふ心にまさる親心
今日の音づれ 何ときくらん 松陰

 たまたま「歴史に学ぶライバルの研究」を読んだところだった。PHP文庫で、会田雄次氏と谷沢永一氏との対談集だ。
 中に「ネアカの伊藤博文vsネクラの山県有朋」の一話。長州人にして、松下村塾で松陰の薫陶を受けたまさに同年代の二人(山県が三歳上)。そのすぐあと、木戸孝允にしたがって尊皇攘夷運動に参加した伊藤と、高杉晋作の率いる騎兵隊軍監をつとめた山県。後年いずれも内閣総理大臣になった二人について、その個性・行動の違いを、短絡を承知しつつ、会田・谷沢両氏の対談の進行にしたがって比べてみた。

伊藤博文 山県有朋
 好色、金銭に淡白、潔癖  正反対
 先輩の勧めで入塾  自ら飛びこむ
 出世意欲乏しい  出世意欲旺盛
 直感で行動、勘が鋭い、先見性、発展性、デモクラート  体験の裏付け、実直、理解力、粘着力、執着力
 企画立案者  実行者
 明治天皇に好かれる  明治天皇に嫌われる
 政党をつくる  派閥をつくる
 明治42年(1909)、渡満の際、ハルピン駅頭で暗殺される。(68歳)  大正11年(1922)、皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)の妃選定問題で右翼から攻撃を受け、失意のうちに死す。(83歳)

松陰の孝行竹や風薫る えみ子

Part1-1 朗読(22:39) on
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