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5.白根神社 (2月27日) |
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白根神社は、湯畑のすぐ近くにある。北側へ歩いて5分程度のところが入口だ。参拝するためには、百段以上の石段を上らなければならない。
見上げると、途中いくつか踊り場になっていて、その先が見えない。神社はさらにその上のようである。 |
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目当ては神社付近にあると称されている三つの「文学碑」だが、いつもの癖で、案内図を確かめずに来た。石段はかなり急で、休み休み上る。幸い神社は、上りつめたところの奥にあった。
静か! 下の湯畑とは対照的で、一面に雪が残っている。下りるまでに地の人らしいお年寄りを二人見かけただけだった。 |
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芭蕉句碑 |
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夏の夜や谺(こだま)にあくる下駄の音 |
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横の立て札に英語でこのように記されていた。
Lively Echo of Wooden Sandals
in the Summer Night. |
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神社の左すぐ奥に建っていた。芭蕉はこの句を草津で詠んでいない。説明文を少し噛みくだくと、 |
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芭蕉は、元禄4年(1691)に、京都嵯峨の門人去来を訪ね、その落柿舎で作ったもの。芭蕉「嵯峨日記」に収められている。
150年ほど後に、草津の俳人一夏庵坂上(いっかあんさかうえ)竹烟(ちくえん)が、この句を地元草津温泉街そのものを詠んだといってもいいとして、ここに建てたという。 |
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十返舎一九碑 |
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神社の後ろの雪道をぐるっと右へ曲がってきょろきょろすると、それらしきものがあり、やはり「十返舎一九碑」だった。
行きつくまでに、案じたとおり、妻はすべって仰向けに転んだ。怪我しなくてよかった。ぼくは何度もすべりかけたが、転ばずにすんだ。 |
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横の説明文をそのまま引用する。 |
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一九(1765-1831)は、駿河の国の人で、元は武士だった。
江戸時代、文化・文政の町人文化爛熟期の代表的な戯作者。弥次郎兵衛・北八コンビの活躍する『東海道中膝栗毛』など、道中ものを二十二年間にわたって書き、全国の有名な観光ルートを挿絵入りで面白おかしく紹介した絶妙の珍道中記はあまりにも有名。
草津へは文政年間(1818-1830)に二度も訪れ、『上州草津温泉道中続膝栗毛十編』『方言修業善光寺草津温泉道中金草鞋』『上州草津温泉往来』などに書き残した。 |
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高村光太郎碑 |
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さらに右奥で「光太郎碑」を見つけた。笹の小藪に埋もれていた。 |
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時間湯のラッパが午前六時を吹くよ。
朝霧ははれても湯けむりははなれない。
湯ばたけの硫気がさっとなびけば、
草津の町はただ一心に脱衣する。 |
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ここも、横の説明文をそのまま引用する。 |
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東京に生まれる(1883-1956)。彫刻家高村光雲の子で彫刻家。渡欧してロダンに学ぶ。詩人としても優れた業績を残した。
彫刻の代表作に、十和田湖畔の『女子像』や『手』などがある。また、詩集『道程』、晩年の『智恵子抄』は特に有名である。
草津へは、何回か訪れているが、昭和二年七月には十数日滞在した。
このとき『草津』という詩を作った。昭和八年五月には夫人智恵子とともに入湯し、「智恵子には草津の湯がいいようだ」と手紙の中に書き残している。 |
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神社を下りて、再び湯畑で遊ぶ。すぐそこの喫茶「イタリアントマト」で一服したが、コーヒー(200円)が意外とうまかった。窓からの眺めもよかった。 |
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朗読(6:25) on |
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