1. 前置き、初日 3. 3日目(松本城)
2. 2日目(周辺散策) 4. 4日目(周辺散策)
3.3日目

 蝉時雨にも似た渓流のせせらぎに目が覚める。5時。暗闇の沈黙の世界で耳に鮮やか、少しうるさいくらい。目を閉じて、しばらくせせらぎが奏でる自然の世界に身を置く。

 7時半、朝食会場へ。従業員が妻を気遣ってくれる。おかゆ膳に妻もほころぶ。ジュース、コーヒー、食パン、ヨーグルトを常としているぼくも文句なし。正直身も心もほっとする。

 部屋に戻り、窓辺の椅子で渓流を見やりながら、今日一日の過ごし方を巡らせている。心の片隅ではまだ松本城行きを断念していない。降っているのかどうか、雨模様に変わりなし。と思っていたらまさしく本降りになってきた。天気予報も空模様も今日は一日中雨だ。
 9時過ぎて、妻の様子を見ながら、「雨だし、今日は昨日見なかったこのぐるりを歩く。昼はもう一軒で蕎麦だ」と、決心した。そのすぐ後、今度は妻が意を決したごとく、「まだバスがあるなら、松本城へ行きましょうよ」。

 白骨温泉から松本駅へはアルピコ交通がつないでいて、途中の新島々(しんしましま)まではバス、そこで電車に乗り継ぐことになっている。ただし、バスの便は1日4本で、午前中は10時21分の1本だけ。松本からの帰りはというと、新島々発最終のバス便は15時30分。今年は明日まで運行とか。行き帰りとも、これが日帰りの命綱だ。

 バス停までゆっくり歩いても10分はかからないから、余裕の準備で間に合った。
 アルピコ交通バスは、予定では白骨バス停を10時21分に発って、乗鞍岳の山腹を新島々へ。そこで同じアルピコ交通の電車に乗り換えて松本駅へという段取りになっている。

 のっけから急の下り坂で崖っぷちを左右に曲がりくねる。雨は本格的になってきた。今回妻は酔い止め薬を飲んでいるから心配ないとしても、ありがたくないスリルだ。

 が、その沢渡(さわんど)までの10数分に見る車窓の景色。音を響かせて流れる急流の周囲はまさに素朴な樹林の連鎖。紅葉終わり、枯木群の下は落葉のじゅうたん。絵に描いたような山中の秘境。

 この辺から人家が見え始め、川幅も増し、渓流もなだらかになってきた。
 沢渡バスターミナル。見る限り大きな集落のようだ。やっと人心地つく。
 ここで上高地行きは乗り換えとか。ぼくたち乗客4人ともこのバスに残る。

 ここから先、次々とトンネルをくぐる。
 左に滝が見えた。滝壺は目に鮮やかな藍色。そしてその下の奈川渡(なかわど)ダム付近の眺めも悪くない。この辺りから下はまだ紅葉が残っている。

 鵬雲﨑(ほううんざき)付近で、野麦峠スキー場が自動アナウンスされた。そして、「女工哀史の野麦峠はこの近く」とか。少年時代に見た映画の題名が「あゝ野麦峠」。内容はもはや記憶にないが、切ない映画だったとの思いは残っている。
 この峠越しの山道。現在にして曲がりくねった険しい坂道。明治から大正時代にかけてのあの頃、想像するに余りある。当時この界隈の少女たちが、生糸工業で発展していた諏訪地方へ女工として出稼ぎのためにこの峠を越えたのだ。
 1968年、山本茂実がその史実をノンフィクション「あゝ野麦峠」として書き上げ、後に映画化されたのだ。それをぼくも見た。

白骨から新島々まで、その他の写真

 新島々ターミナル着、11時15分。

 電車に乗り換えて松本へ。11時30分発。

 約30分の車中、29才の青年と話に花が咲いた。白骨温泉バス停で一緒に乗車した彼だ。ここで初めてあいさつを交わし、長話となる。
 2年前に白骨に来て働いているそうだ。なぜ? どこで? どんな仕事? ……?
 詮索趣味はさておいて、お互い自己紹介だけとする。ワントピックが終わると、どちらからともなく次のトピック。内容は置くとして、終点松本までの30分間、会話は途切れなかった。
 松本駅着、12時。

 構内案内所で松本城への道とその間のお薦めそば屋を訊く。
 スタッフが地図を見せて、「この道をこう行きますと、15分でお城に着きます。個人的にはこの〝みよ田〟をお薦めします」。

 「信州そばきり〝みよ田〟」は行列ができていた。結局30分ほど待ってやっと席へ。ぼくはざるそば、妻はとろろそば。
 予定が狂って、松本城着が13時10分。それでもお城の見学50分は可能。妻は一度上ったとかで庭園散策とし、ぼくだけ城内へ。

 6階天守閣まで、正直これほど苦労して上った記憶はない。階段の急勾配と大きな段差、しかも4階から階段の幅が極端に狭くなって、危険も増す。
 左下半身のハンデはさておくとしても、上り終えたときはへとへとだった。一応心当たりを写真に収めたが、〝疲れることのみ多かりき〟。他の皆さんはどうなのだろう。

松本城内

外観

 配布資料にはこうある。

創始
 松本城は戦国時代の永正年代(1504-20)初めに造られた深志城が始まりです。
 戦国時代になり世の中が乱れてくると、信濃府中といわれた松本平中心の井川に館を構えていた信濃の守護小笠原氏が、館を東の山麓の林地区に移し、その家臣らは、林城を取り囲むように支城を構えて守りを固めました。深志城もこの頃林城の前面を固めるために造られました。
 その後、甲斐の武田信玄が小笠原長時を追い、この地を占領し信濃支配の拠点としました。その後天正10年(1582)に小笠原貞慶が、本能寺の変による動乱の虚に乗じて深志城を回復し、名を松本城と改めました。
天守築造
 豊臣秀吉は、天正18年(1590)に小田原城に北条氏直を下し天下を統一すると、徳川家康を関東に移封しました。
 この時松本城の小笠原氏が家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に封じました。
 数正・康長父子は、城と城下町の経営に力を尽くし、康長の代には天守三棟(天守・乾小天守・渡櫓)はじめ、御殿・太鼓門・黒門・櫓・塀などを造り、本丸・二の丸を固め、三の丸に武士を集め、また城下町の整備をすすめ、近世城郭としての松本城の基礎を固めました。
 天守の築造年代は、康長による文禄2年から3年(1593-4)と考えられています。

 庭園散策も含めて、ぼくには40~50分で事足りた。

松本城、その他の写真

 …………
 まだ2時過ぎ。電車は松本駅発2時46分だから、ゆとりの帰り道。

松本市街、その他の写真

 パラついている雨に傘さして、左足腰の鈍痛に耐えながらも、何の焦りもなく駅に着き、乗車。

 新島々着、15時20分。15時32分のバスに乗り換えて、白骨温泉バス停着、16時53分。

 夕食会場へは18時30分として、大浴場と露天風呂を行ったり来たりで温泉気分に浸る。
 夕食は豪華版。この一日を妻に感謝し、今夜はジョッキで乾杯。メインディッシュはビフテキと刺身。

 夫婦とも腹八分目で満足とした。