中村達夫先輩
 

4. 質問に答えて

 戸田ボートコース

 《戸田コースができたのは昭和39年(1964年)の東京オリンピックのときではなく、昭和15年(1940年)の幻のオリンピックのときだったのですね》

 オリンピックは昭和11年(1936年)がベルリンで、昭和15年が東京に決まっていたのです。
 隅田川ではレースできないということで、戸田にボートコースを造ることになりました。昭和15年のオリンピックを目指して荒川の向こう側、いまの戸田にプールを掘りました。現在は幅75m、長さ2400m(2000mコースですから)、深さ2.5mですが、当時は幅が60mでした。そのプールをみんなで掘ったのです。
 今は重機械でやってしまえますが、当時はそんな立派なものはありません。だから手で掘ったのです。私たち学生と、刑務所の受刑者たちで掘ったのです。

 幅60m、長さ2400m、深さ2.5mを人海戦術で掘るのはいかに大変か、想像できますか?  これをやり遂げたのです。で、水を入れて準備完了となったのですが、オリンピックが取りやめになってしまいました。

 もし昭和15年に東京オリンピックがあったとすれば、われわれ一橋はその年全日本制覇をしていましたので、当然現役選手としてオリンピックに出たはずです。
 当時の一橋ボートは世界レベルでしたから、金メダルといわないまでも、メダルの可能性は大いにありました。私も現役で出られたかもしれません。
 残念ながら、戦争のため幻と消えました。

 昭和39年(1964年)にご存知の東京オリンピックが開催されました。この時期になると参加国が増えており、4杯レースを6杯レースにする必要があり、幅60mを75mに拡張しました。今度は立派な文明の利器が、容易に工事をやってしまいました。
 戸田コースは上と下に水門があり、ときどきこれを開けて水を入れ替えています。深さ2.5mは普通のより浅いです。そのために水が重いということで、ここではいい記録が出ないといわれています。
 
 最近の全日本ではエイトで6分の壁を切りました。5分45秒が世界レベルです。現在の一橋は6分が切れません。この15秒の差は、3秒が1挺身ですから、5挺身になります。つまり歯が立たないというわけです。15秒を縮めるのが課題なのです。
 
 今年の全日本クルーは5分40秒台が出るようになったので、日本はようやく世界レベルに近づいてきました。
 クルーメンバーは実業団やプロ級の学生が多いですから、一橋としてはあきらめムードがないわけではないのですが、やりようによっては一橋も5分40秒台可能、と思っています。

 ボートレースの種目、大会について

 いまボート界ではたくさんの種目ができています。まず、昔は男ばかりだったのですが、最近は女性クルーも力を上げてきました。ということで男女別がありますね。
 男女混合は、オックスフォードで女性コックスが乗って物議をかもしたこともありますが……。これは例外として、現在男女混合レースはありません。

 種目は、スカル(1人漕ぎ、2人漕ぎ、4人漕ぎ)、ペア4人漕ぎ(舵なし、舵あり)、それにエイト、……。多種目にわたっています。
 大会は、オープン、軽量級、新人戦、……。オックスフォード・レガッタ≠ニいうような特別レースもあります。やたらレースが多いのです。私たちはもっとしぼったほうがいい、といっているのですが。

 大学、実業団(NTT、東レが強い)、高校だけのレース、……各地のボート協会が裾野を広げるよう努力しています。
 毎月届く雑誌のレース結果は大変な数で、おかげで裾野は野球と同じようにずいぶん広がってきています。これが支えになってどんどんレベルが上がっていくでしょう。

 強くなりますと、ボートは見栄えがいいですから、テレビやヘリコプター撮影で絵的に映えます。だからスポンサーはつきやすい。しかし、レベルが高くなければダメです。
 いずれ世界レベルになって、プロ野球のイチロー、松井クラス(これは個人ですが)のクルーが出てくれば、マスコミをにぎわすことになるでしょう。
 私たちのころのボートは、いまのプロ野球なみに、予想や結果が大新聞に出たものです。大会が近づくと、写真入りでクルーの名前が出、「今年はどこが強い」とか「どこが勝つ」とか、予想記事華やかでした。
 いまはどの新聞も取り上げない。それが実状です。強くなければダメ、ということです。

 一橋の歴史に関する資料

 私ごとになりますが、庭仕事がしんどくなってきたので、近くマンションに引っ越すことにしています。この機会に母校関係の蔵書を小芝君に譲ることにしました。先日彼は車にどっさり積んで帰りました。
 
 昭和50年(1975年)に、一橋大学100周年を記念して「一橋大学学園史編纂事業」が始められ、後年立派な資料集となって完成しました。100周年記念募金で先輩諸氏から多額のご寄付をいただいた、これが貴重な基金となっています。

 当時私は如水会の役員として、この「一橋大学学園史編纂委員会」に携(たずさ)わりました。
 この編纂事業に当時の金で総額1億円の予算が付けられたのです。

 うち2千万円が部活動に当てられました。その結果、ボート部も「ボート百年」を作ったし、柔道部、剣道部、ホッケー部、……各運動部・文化部の歴史資料が編纂されました。
 それらは全て如水会館図書室に保管してあります。2千万円をこのように役立てたわけです。

 あとの8千万円は、その相当部分を使って「編纂委員会」による大部の資料集が出来上がったのです。全部で30冊ほどになりました。
 小芝君が寄こしたリストの一部を下に挙げます。少し他のものも混じっていますが、ご覧ください。
 このほか、大学は、学制史、学問史を作っています。

 
タイトル 編者、
出版社
備考
世界大百科事典 1972 平凡社 全33巻、別冊として世界地図、日本地図
世界原色百科事典 1967 小学館 全8巻
       
一橋大学出身 1968 ダイヤモンド社 マーキュリーをつけた社長たち
 キャプテン・オブ・インダストリーを旗印に(一橋大学の歩み)、一橋出身の財界人、・・
Hitotsubashi in Pictures
 一橋大学75周年記念
1951 一橋創立75周年記念アルバム委員会  
一橋人脈譜 1969 学風書院
坂本弘幸編
 政・官界・地方自治体、学界・教育界、弁護士・作家・著述家・その他、経済界
中山伊知郎全集
(第3集)
 経済再建の課題
1973 講談社 数理経済学学説研究U
 クールノー(富の理論の数学的原理に関する研究)、デュプュイ(公共的業務の利用測定について)、デュプュイ(交通機関の利用に及ぼす使用料の影響について)、経済の数理
中山伊知郎全集
(第7集)
 経済再建の課題
1972 講談社 経済学一般理論
 経済および経済学、流通経済総論、競争と独占、経済発展の基本構造、総過程とその統制、論文・解説
中山伊知郎全集
(第8集)
1972 講談社  初めて経済学を学ぶ人へ、初等経済学講義、わたくしたちの社会
中山伊知郎全集
(第9集)
1972 講談社  経済学の安定と進歩、経済政策総論(草稿)政策理論の諸問題、物価について、
中山伊知郎全集
(第10集)
1973 講談社  戦争経済の理論、戦争経済の動向、論文
中山伊知郎全集
(第11集)
 経済再建の課題
1972 講談社  戦後経済の展望、経済再建の課題、戦後経済の諸問題、再建断念
中山伊知郎全集
(第12集)
 日本経済と世界経済
1972 講談社  日本経済の顔、世界の中の日本、国際化の諸問題
中山伊知郎全集
(第13集)
 経営者・労働者の新時代
1972 講談社  新しい経営者・新しい労働者、労使関係総論、日本の労使関係、労使協議制
中山伊知郎全集
(第14集)
 労使関係の基盤
1972 講談社  労使関係と人間関係、日本の労働争議、生産性をめぐる諸問題、労使関係の経済的基盤
中山伊知郎全集
(第15集)
 近代化・工業化・民主化
1972 講談社  総説・日本の工業化と日本の民主化、日本の近代化、近代化と工業化、近代化と民主化、展望・現代の危機と未来学
中山伊知郎全集
(第16集)
1973 講談社  日本経済への発言、経済十話、経済成長ー世界経済、財政・金融ーインフレーション、企業者ー労働組合
中山伊知郎全集
(第17集)
1973 講談社  エッセイ集 徹夜の記録、浅間以後、続・IDE随想、雲流るれば
中山伊知郎全集
(第18集)
1973 講談社  対談・対話集 対談・明日の労働問題、対談・将来経済の構想、この人この世界、百問百答
中山伊知郎全集
(別卷)
1973 講談社  私の年譜、月報座談会ー経済学とともに、月報随想ー中山先生と私、著作目録、総目次
一橋大学附属図書館史 1975 一橋大学  図書館遠隔概説稿、図書館回想記、蔵書の周辺、図書館年表
一橋大学年譜T 1976 一橋大学 明治8年8月-昭和21年3月
写真集一橋大学百年 1981 財界評論新社  
如水会の歩み 1982 一橋大学学園史編纂事業委員会 如水会史専門委員会
一橋籠城事件 1982 一橋大学学園史編纂事業委員会 籠城事件史専門委員会
一橋大学学問史 1982 一橋大学学園史編集委員会 一橋大学創立百年記念
一橋大学学制史資料
(第1集)
1982 一橋大学学園史編集委員会 (大正9-12年東京商科大学)
一橋大学学制史資料
(第5集)
1983 一橋大学学制史専門委員会 第1巻(明治8-18年 商法講習所〜東京商業学校)
一橋大学学制史資料
(第3集)
1982 一橋大学学制史専門委員会 第2巻(明治19-34年 東京商業学校〜高等商業学校)
一橋大学学制史資料
(第4集)
1983 一橋大学学制史専門委員会 第3巻(明治35-42年 東京高等商業学校)
一橋大学学制史資料
(第6集)
1983 一橋大学学制史専門委員会 第4巻(明治43-大正3年 東京高等商業学校)
一橋大学学制史資料
(第2集)
1982 一橋大学学制史専門委員会 第5巻(大正4-9年 東京高等商業学校)
戦後と一橋 1983 一橋大学学園史編纂事業委員会 一橋大学学園史資料
辛酉事件史 1983 一橋大学学園史編纂事業委員会 一橋大学学園史資料
第二次大戦と一橋 1983 一橋大学学園史編纂事業委員会 一橋大学学園史資料
「一橋専門部教員養成所史」への回想
(追補と思い出)
1983 一橋大学学園史編纂事業委員会 一橋大学学園史資料
一橋のゼミナール 1983 一橋大学学園史編纂事業委員会 一橋大学学園史資料
大正デモクラシーのころの学園 1983 一橋大学学園史編纂事業委員会 一橋大学学園史資料
商法講習所時代 1983 一橋大学学園史編纂事業委員会 一橋大学学園史資料
一橋大学学制史資料
(第8集)
1983 一橋大学学園史編集委員会 第7巻(大正13年-昭和20年、東京商科大学-東京産業大学)
一橋大学学制史資料
(第7集)
1983 一橋大学学園史編集委員会 第8巻(昭和15-57年、経済研究所)
一橋大学学制史資料
(第9集)
1986 一橋大学学園史編集委員会 第9巻(昭和20-28年、東京産業大学-東京商科大学-一橋大学)
花開く東京商科大学-予科と寮 1984 一橋大学学園史編纂事業委員会 座談会
一橋のゼミナール、戦後編(上) 1985
一橋大学学園史編纂事業委員会  
一橋のゼミナール、戦後編(下) 1985 一橋大学学園史編纂事業委員会  
一橋大学学問史 1986 一橋大学学園史刊行委員会 1417ページ
一橋の学風とその系譜(1) 1985 一橋大学学園史編纂委員会  
一橋の学風とその系譜(2) 1985 一橋大学学園史編纂委員会  
一橋会資料集 1986 一橋大学学園史編纂委員会 東京高等商業学校一橋会
昭和7-11年の東京商科大学 1987 如水会学園史刊行委員会 著者:木村増三
日本の近代化と一橋 1987 如水会学園史刊行委員会 明治20年10月-大正9年3月
著者:小島慶三
大学昇格と籠城事件 1989 如水会学園史刊行委員会 大正9年4月-昭和6年12月
著者:依光良馨
戦後の時代と一橋 1989 如水会学園史刊行委員会 昭和12年1月-昭和20年8月
著者:丸山泰男
商業教育の曙
(上巻)
1990 如水会学園史刊行委員会 明治8年9月-明治20年9月
著者:細谷新治
商業教育の曙
(下巻)
1991 如水会学園史刊行委員会 明治8年9月-明治20年9月
著者:細谷新治
大平正芳
 人と思想
1990 大平正芳記念財団  人間形成、官僚街道、上昇気流、冬の時代、狂瀾怒涛、栄光への階梯、信頼と合意、永遠の今
大平正芳
 政治的遺産
1994 大平正芳記念財団  各界著名人の論文、評論・エッセイ、特別寄稿
大平正芳発言集
 在素知贅
1996 大平正芳記念財団  各界著名人との対談、エッセイ、講演・論文、インタビュー、大平語録
聞き書き大平正芳
 去華就實
2000 大平正芳記念財団  政治家、著名人が大平正芳を語る
一橋大学120年史 1995 一橋大学学園史刊行委員会 Captain of Industry をこえて
 商法講習所の設立から大学昇格まで(1875-1920)、東京商科大学の成立から新制大学の成立まで(1920-1949)、新制大学の成立から現在まで(1949-1995)
波濤第二 1991 12月クラブ  12月クラブ、東京商科大学学部昭和16年後期卒業50周年記念文集
       
句文集
 花屑
2002 黒石豊子  私の亡友磯村玉三君(12月クラブ、在学中に夭逝)の妹さんからのものです。大変感銘しました。ぜひ、ご夫婦そろって味わってください。
 
注: (7月12日のご高話以後、中村先輩からさらに二度にわたって書籍をお送りいただきました。上記の表はこれらを加えたものです。
   小芝 繁 (2003.11.01)
 如水会館図書室のこと

 しょっちゅう鍵がかかっていて、閲覧しにくいですね。
 昔は鍵はかかっていませんでした。閲覧者のマナーがよかったのです。借りてもちゃんと返したから何の心配もありませんでした。

 いまの図書室は、当時より立派な書籍が備えられているせいかもしれませんが、切り抜いて持っていかれたり、返却されなかったり、といったトラブルがあり、管理のためにやむなく鍵をかけるようになり、いまに至っています。

 私は「鍵をやめなさい」といい続けています。
 しばらくは紛失や切り抜きが止(や)まないでしょう。が何らかの方策で改善して欲しい。図書室を14階から地下室に移すとか、コピーを簡単にできるようにするとか……。

 如水会ネットについて

 これからはIT時代ですから、会員同士のコミュニケーションにせよ、如水会と会員のかかわりにせよ、ネットを通じた交流は大事なことです。如水会報も如水会ネットにもっとページを割けばいいし、みなさんももっと如水会報を活用すべきだと思います。
 携帯電話が急激に便利になってきました。その情報力を活用した連携がどんどん増えていくでしょう。高齢者も嫌がっているわけにいかなくなります。持つと便利だから、自然親指族になってしまいます。4、5年もすれば抵抗なく如水会や大学のネットがもっと広範囲に活用されるようになるでしょう。

 情報伝達、情報交換の様変わり、その便利さが全てに良かれとなるかどうか疑問視する向きもありましょうが、このことで次回話し合ってもよいと考えます。
 ネットの発展とみなさんの活躍に期待しています。 

 後輩に贈る言葉

 一橋出身の代表的有名人といえば、石原慎太郎氏(昭和31年、1956年法卒)ということになります。彼は総理大臣公選になれば、小泉さんを上回るのではないですか。
 竹中平蔵氏(昭和48年、1973年経済卒)はとかく言われていますが、立派です。
 速水優(まさる)氏(前日銀総裁、昭和22年、1947年学部卒)は私たちより少し後輩ですが、彼は学生の頃から話が下手で、思っていることをうまく言葉にできない人でした。そのためにすごく損をしています。でも日銀総裁としてとかく言われながらも、やったりやらなかったりしたことが多くあります。そのうち彼の「やらなかったこと」で、10年後に評価されることがいくつか出てくるでしょう。
 彼の業績はなかなか評価されないのですが、私は高く評価しています。5年、10年経つとわかるでしょう。

 一橋は経済・経理に強いという社会一般の評価があります。が実際は、商学部・経済学部出身でもあまり経理を勉強していません。とくに学生のときは、簿記や会計を馬鹿にしているのです。そのために卒業してから苦労します。
 私はどちらかといえば理工系の頭だから、経済学の中でも、会計学や統計学に興味があって、これらを勉強しました。ゼミは太田哲三先生(明治44年、1911年本科卒、大正2年、1913年専攻部卒)でした。社会に出て、勉強が非常に役立ちました。

 金庫番はお金を出し入れします。大体経理担当者は、請求者が信用できればその人の判子を見て金を出します。
 私はうるさいほうで、内容がわからなければ、請求者がだれであれ、訊きました。説明に納得がいかないと、現物を見に行くことにしていました。
 そんなことで、いろんな分野をいやというほど勉強してしまいました。そのため、経理にとどまらず、特許や開発に首を突っ込むことになりました。これがまた後々非常に役に立っています。

 四神会(ボート部OB会)の会長であった伊藤治雄氏(昭和12年、1937年卒)が毎年学生への訓辞で言われたことは次の二つでした。

酒色におぼれるな
簿記を大切にせよ

 一橋出身者は、それだけで何らかの社会的評価はあります。でもそれに応じられる力がなければ困ります。
 で、社会に出てからのほうがもっと大事になるのですが、学生時代から少しでも会計学等の勉強をやっているのといないのとでは違ってきます。
 いまはコンピュータの時代で、昔のソロバンの頃とは違い社会での仕事の内容も変わってきています。それに伴い学校での勉強も様変わりでしょうが、世の動きを入れてみなさん4年間励んでいるわけです。
 が、ボート部なんかに入っていればあまり勉強できませんよね。別の勉強をしているからそれはそれでいいのですが……。でも、時間があれば少しでも勉強して欲しいです。

 伊藤氏の前に四神会の会長だった朝海浩一郎氏(昭和4年、1929年卒)も学生時代はボート部でした。
 彼は合宿のときも、他の部員が騒いでいるちょっとした時間に勉強をしました。何を勉強されたかは定かでありませんが、駐米大使になって、語学力もそうでしょうが、基礎的な勉強が役に立ったはずです。
 外務省は経理的な考え方に弱いです。彼は自分なりに勉強していました。だから駐米大使として、単なる外交ではなく、政治に並行して経済に強かったことが大使として実績をあげられた理由ではないかと思っています。

 …………
 男子校が男女共学になったいきさつ、専門部と学部の関係、等々、「十和田」に席を変えて話すことにしましょう。

(拍手) 


 2時間近くにわたるお話はひとまず終了として、出席者一同浅草「十和田」へ向かった(学生2名は都合で欠席)。
 ビールで乾杯し、中村先輩ご推奨「そば味噌つまみ」のアントレで幕を開けた夕食会の模様は、写真集でご想像いただくことにする。

 
雑記帳第32話〔母校の話〕 おわり
2003.07.20

朗読(20'25) on

Part1
いきさつ
Part2
入学まで
Part3
母校の歴史
Part4
母校との関わり
 
第31話 雑記帳表紙へ 第33話
再朗読(2023.04.06)
「母校の話」
part1 part2 part3 part4 total
4:16 14:55 17:51 19:08 56:10
 

一橋の歌  on

作詞 銀杏会同人
作曲   山田耕筰
(創立75周年記念)

(一) 武蔵野深き松風に
世の塵をとどめぬところ
新しき朝の光に
うら若き血潮さながら
自治の鐘高鳴りひびく
  自由の殿堂われらが母校
  一ッ橋一ッ橋
  あゝあゝわれらが母校

 

(二) 富士が嶺遠くわだつみの
八潮路をさきがけゆきて
まだ知らぬ道をひらきし
伝統の気魄(きはく)こりたる
胸の炬火(きょか)世界を照らす
  理想の殿堂われらが母校
  一ッ橋一ッ橋
  あゝあゝわれらが母校

 

(三) わが日の本の要ぞと
時計台いしづえかたく
とこしえに天(あめ)を指しては
揺ぎなき真理かゝげて
  水の如いや澄みわたる
  文化の殿堂われらが母校
  一ッ橋一ッ橋
  あゝあゝわれらが母校
 
一橋歌集より
 
一橋会々歌   長煙遠く棚引きて入相の鐘暮れて
一橋の歌 空高く光みなぎり照り映えて
一橋の歌 武蔵の深き松風に世の塵をとどめぬ
君よ知れりや 君よ知れりや東(ひんがし)の
万象光輝きて 万象光輝きて春国立の
紫紺の闇 紫紺の闇の原頭にオリオン
故郷の春 故郷の春は雲遠くタベ空行く
霏々散乱 霏々(ひひ)散乱の花吹雪
離別の悲歌 人の命の旅の空憧憬遠く
東都の流れ 東都の流れ千年の隅田をまもれ
天翔る翼 天翔る翼の象徴血に燃る
春墨堤 春墨堤の花の色又秋冷の月の影
何処ともなくさすらいの いづこともなく漂泊(さすらい)の
 
(中村達夫氏ご推薦のものです)。
ご講話音声
20年後も思い出=A元気!
下の時計は、中村達夫先輩が幹事を務めていた
「一橋大学如水会 十二月クラブ」が
その60周年記念として
ホームページを制作したとき(2001年)、
私(小芝繁)の協力に謝意を込めての贈呈品です。
それから21年を経たいま(2022年4月)も、
元気に時刻を知らせてくれています。
第31話 第33話
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