中村達夫先輩

1. 自己紹介

 狭い部屋ですのでマイクを使うほどのことでもないのですが、年寄りの声は、お聴き取りづらいでしょうから……。
 今日は川向こうの向島までご足労いただき、ありがとうございます。
 お手元のパンフレット(「墨田区の文化財」、他)は、当「すみだ郷土文化資料館」のご好意によるものです。墨田区は昔から職人の町として有名で、そのことにも触れてありますので、お帰りになったらゆっくりご覧ください。

 今日の催しは小芝繁君(1964社会学部卒)と渡邊桃伯子さん(1980経済学部卒)にお世話いただいたのですが、私と小芝君、渡邊さんとの関わりを簡単に申し上げます。
 
 『12月クラブ』は、東京商科大学(現、一橋大学)を昭和16年(1941年)後期卒業の同期会の名前で、その年12月に繰り上げ卒業になった学生たちの集まりです。
 この同期会の卒業60周年記念(2001年)を前に振り返りますと、12月クラブが積み上げた資料がものすごくたくさんあるのですね。
 われわれはそれをホームページで紹介しようということで予算を30万円用意して、見出しと概要で大体30ページくらいのを作ろうかという話が決まってきたわけです(あとは図書室の書籍をご覧いただこう、ということで)。
 小芝君は、大変貴重な資料だからと、われわれが12月クラブを編成した卒業20周年から60周年までの40年間全ての記録をホームページに掲載し、CD−ROMにも入れてくれました。ここで小芝君との付き合いがはじまったのです。
 渡邊さんには、ホームページの技術的問題でご援助いただきました。

 彼、小芝繁君の人柄に感銘して、この人にはぜひ一橋大学の歴史、またボートの歴史を知ってもらおうと思いました。それで今年のお花見のときに、この「すみだ郷土文化資料館」に案内しました。ちょうど桜は満開、隅田川沿いをお花見して、帰りは浅草のそば屋「十和田」で夕食をしました。
 そのとき私はこういいました。
「一橋のボートを知るためには、東大との対校レース"商東戦"を見てもらわなければ困る。これを見れば一橋の中のボートの役割について理解していただけると思う。まもなく今年の商東戦がある。来るかね?」
 彼は来て、その日の模様をホームページにしました。対東大5連勝でした。東大とのエイトのボートレースで5年連続制覇はもちろん初めてのことです。
 後日の祝勝会も含め、彼は今回のことでボートに理解を深めたことと思います。これが本日の催しのきっかけになりました。

 本日の出席者は、主としてJFN関係、それに如水会高橋業務部長(高橋治夫氏、1987法学部卒)ですね。一橋の将来に重要な役割を演じられる方々であると思っております。ボート部現役の方も来てくれていますね。
 少人数ですが、今後の大学発展に意義深い会合であると認識しています。

 お手元の資料により自己紹介します。昭和56年(1981年)、卒業40周年記念として刊行した文集「波濤」に載せた文章を利用します。(渡邊女史と小芝が代読)。
 
 この文章を書いてから早20年になります。
 その間に、如水会では、理事2年、常務理事2年、監事(2期)4年と、合計8年間役員を務めました。
 いろいろ立派な人とお会いできて、非常に充実した年月であったし、そのためもあって20年の間にどんどん元気になりました。元来体は丈夫なほうではなかったのですが、病院で1ヶ月おきに採血する数値がだんだんよくなってきているのです。
「高齢になってこんなによくなるのはなぜでしょう?」
 84歳の年男にして、そう医者に健康法を訊ねられるくらいに元気なのは、特別なことはやっていないが、人のお役に立つことを一生懸命やっているからなのでしょう。
 そんなことでおかげさまで元気です。 

2. 東京商大入学のいきさつ

 今日の会合について、みなさんがどんなことに関心があるのか、勝手におしゃべりをしてみなさんと食い違ってはつまらないです。
 小芝君に尋ねたところ、彼からこのような質問事項を受け取りました。

東京商大を目指した理由
商大に何を期待したか
男子校だった所以と男女共学にしたいきさつ
一橋にいてよかったこと悪かったこと
一橋出身でよかったこと悪かったこと
一橋は学生に何を期待したか、どうあれと教育したか
一橋の歴史で重要なあの日あの時は?
先輩から見ていまの一橋は? (いいところ、悪いところ、奇妙なこと、等)
一橋と学問、一橋と芸術、一橋とスポーツ、一橋と娯楽)
先生のこと(理想的な先生、忘れえぬ先生、変わり者)
思い出の同僚、学生生活の思い出
卒業後、一橋との関わり

 これら一つ一つにお答えしていると5時間も6時間もかかってしまいますので、いくつかを取り上げることにします。
 まず、「なぜ東京商大に入学したか、そのいきさつ」です。

 中学同期(東京市立第一中学校、現、都立九段高校)の下元さん(下元進助氏、1942学部)が出席されております。彼とは中学で同じクラスでした。一橋へは私が1年早く入学したので、彼は昭和17年(1942年)9月の卒業です。
 彼を前にして話しにくい点もあるのですが、こういう機会ですから、ざっくばらんに話すことにします。

 自慢話めくのですが……。
 私の父親は埼玉県熊谷市出身です。熊谷市は昔中仙道の宿場町で、熊谷直実が菩提寺を開いて熊谷(ゆうこく)寺と称し、大きな伽藍を建立しました。そのことで少しは知られているのですが、田舎の町です。
 父はそこで生まれ、相当の秀才でした。当時は「飛び級」制度があり、小学校でも5年で中学へ飛び級、中学でも4年で高等学校へ飛び級しました。そして東京帝大工学部電気工学科に入学しました。そこでは八木アンテナの八木さんと同期でした。卒業後は米国GEとの商売に関係しました。
 そんなこともあって、自分は子供のときから「進学するなら一高の理科」と決めていました。ほかには目もくれませんでしたから、中学4年での模擬試験では、一高理科を受けようと思っていました。
 その年(昭和11年、1936年)、一高理科の試験科目で、暗記物は「歴史」でした。歴史は勉強していなかったから自信はありません。物理か化学が出ると思っていたのです。その年に限って歴史だったので、困りました。
 同年の東京商大予科の暗記物はなんと「化学」でした。たまたまいとこが商大に行っておりまして(昭和14年卒、三井物産副社長)、彼は東京市立一中の先輩でもありました。彼は、「商大へおいでよ」と誘ってくれていました。
「じゃ暗記物は化学だから、今年は商大を受けてみるか」
 そんな風に考えて商大予科を受験したのです。

 商大を受験する人は化学なんかやっていません。だから化学でいやな思いをした人たちはずいぶんいたと思います。
 数学は5題出て、うち2題がいやらしい問題でした。たまたま山が当たったのです。私にはなんともありませんでした。したがって昭和11年の東京商大予科受験の成績で、化学と数学は満点でした。
 英語、作文等は現役や一浪にはかなわないはずですが、たまたま化学と数学がよかったために合格してしまったのです。一中の4年で5人受験したのですが、合格は私だけでした。
 もとより行く気はなく、「来年一高を受けるから、東京商大は辞退したい」、クラス担任の先生に申し上げたのですが、「あそこはなかなかいいから、行きなさい」、と強くいわれました。当時、市立一中は進学校でしたので、教師としては国立に何人入学させるか、関心深かったわけです。
 私のクラスからは私立の慶応大学に1人、国立の一橋に私、その年の合格は2人だけだったのです。だから何でもかんでも「商大へ行け」、といわれました。
 当時、私の家庭は余り裕福ではなかったので、一中から「特待生として授業料免除、昼食費も免除」とのお話を受けて、東京商大予科入学となったのです。

 入学して、一橋大学の良さがわかってきました。東大理科へ入ってその道を進むより、一橋で、太田哲三教授のゼミで研鑽を積んだおかげで、現在もまだ現役コンサルタントとしてお役に立っています。元気の源の一つは仕事の関係も若干あるとは思いますが、経理の専門家になったということが大いに影響しています。
 あとで触れますが、商売ではなく、経理畑だということで一橋大学の歴史に関わったことは、自分にとって非常によかったと思っています。

 東京商大は目指して入った大学ではないのですが、卒業して60余年が過ぎたいま、本当によかった、と大きな声でいうことができます。

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