3. 20世紀と一橋大学
お手元に年表を用意しました。
これは前に作っていたのを本日のために若干手直ししたものです。1900年から2003年までの100年余りを書いてあります。1900年は明治33年、明治は44年で終わり、大正15年が昭和元年です。昭和は64年1月7日で終わり、今の平成に続いています。
この100年間にどのような出来事があったか、それを〔一橋大学・如水会〕〔一橋ボート〕〔戦争・事変・テロ〕〔社会一般〕の4項目に分け、私にとってとくに印象深い出来事を拾い上げています。
年表として価値はないかもしれませんが、何らかのお役に立てばと考えて作りました。これをもとに20世紀を振り返ることにします。
ところで、21世紀は2000年からか2001年からか、一時論争がありましたね。みなさんはどう考えますか? (出席者としばらくのやり取りは割愛)。
辞書には「2001年」からとなっています。ところが講談社の「20世紀の記録」は、1900年から始まっています。
1900年はパリ万博の年(4月15日ー11月12日)で、ちょうどその年「元旦にニューヨークで雪が降った」と、記事にあります。この頃すでに欧米では「世紀の初めは"00年"から」と決めてお祝いをしています。
日本ではジャーナリズム等が、「2000年は20世紀の終わりで、21世紀の初めは2001年」という立場をとりました。日本のマスコミはそうなのですが、欧米では2000年を21世紀の初めとして、新世紀のお祝いを済ませており、2001年は祝いませんでした。
22世紀は2100年から始まるということに統一されるんじゃないですか。コンピュータが0から始まることもあり、ここ4、5年で「00年が世紀の始まり」が定着するのではないでしょうか。
というわけで、この年表は1900年を20世紀の初めとしてあります。
一橋大学の歴史
明治33年(1900年)以前に一橋大学の歴史は始まりました。
明治8年、森有礼が商法講習所を私設。銀座松坂屋前に記念碑があります。明治17年、東京商業学校と改称、ですね。
明治18年(1875年)、外国語学校と合併。いまの東京外国語大学です。このことについて東京外大ではいまだに「あのときは吸収された」と文句が出ています。廂(ひさし)を貸して母屋を取られた≠ニ。
一橋大学は、この年を誕生の基準にしています。
20世紀に一橋大学で大きな事件が3つありました。申酉(しんゆう)事件(明治42年、1909年)、籠城事件(昭和6年、1931年)、白票事件(昭和9年、1934年)で、これを一橋三大事件といっています。
申酉事件は、文部省が一橋を東大に合併しようとしたのに対し、学校が反対した事件。
籠城事件は、文部省の予科廃止の動きに対し、学校が反対した事件。
白票事件は、左がかった若手助教授の博士論文に対し、長老教授連が審査で「YES」とも「NO」ともせず、白票を投じました。これが学内で問題になったわけです。
大正9年(1920年)、東京商科大学に昇格しました。初代学長は佐野善作氏ですね。彼は一橋生え抜きです。
昭和4年(1929年)、校舎を国立に移転しました。
昭和19年(1935年)、白票事件の責任を取った形で佐野氏は学長を辞し、急遽三浦新七氏が山形から赴任されました。翌年上田貞次郎氏にバトンタッチしています。
「上貞さん」と親しまれた上田学長は昭和11年(1940年)急逝され、後任に高瀬荘太郎氏があたることになります。
高瀬学長(昭和19年、1944年)の時代に、東京産業大学と改名されましたが、上原専緑学長(昭和21年、1946年)になって、翌年東京商科大学に再び改名しています。「オレは東京産業大学出身だ」なんて、希少価値を誇示している人もいるのですが。
昭和23年(1948年)、中山伊知郎氏が学長になります。彼も一橋出身です。
翌年、校名が一橋大学になりました。以降の学長は、……。(割愛、年表参照)。
増田四郎学長が、2期目に学生騒動の心労もあって倒れられ、昭和44年(1969年)ボート部長の村松祐次氏が学長事務取り扱いになったことがありました。
以降の学長はほとんど東大出身ですが、高橋泰蔵氏、塩野谷祐一氏、現学長の石弘光氏は生え抜きです。
平成12年(2000年)に「戦没学友の碑」が建立されました。
私たちが20年くらい前から、このことを大学に猛烈に働きかけていました。が左翼系教授たちの反対でずっと実現していなかったのです。川井健学長(昭和61年、1986年)の頃から見直されはじめ、阿部学長(平成4年、1992年)も好意的に対処され、石学長(平成10年、1998年)になって実現したのです。
この一件だけでも、「いろいろあったのだなあ」と受け止めていただければと思います。
一橋のボート
明治18年(1875年)、外国語学校(現、東京外国語大学)との合併時に、外国語学校はカッターを持っており、これが新たな東京商業学校の財産に加わりました。一橋ボートの始まりなのです。もともと東京商業学校側にボートの源があったわけではありません。
(カッター:複数の人間がオールで漕ぐ大型のボート。帆走も可能。船尾が四角に切られた形で、救命・訓練・上陸などに用いる。・・広辞苑)
大正10年(1921年)、初の全日本制覇を果たし、大正14年(1925年)に2度目、昭和2年(1927年)に3度目が続きます。この間を一橋ボートの第1期黄金時代と呼んでいます。
昭和5年(1930年)に向島艇庫が完成しました。
関東大震災で焼けてしまった艇庫跡に建てました。東大より立派にしようという意気込みで、実際にも東大のより素晴らしい艇庫になりました。当館(すみだ郷土文化資料館)2階にミニチュア模型を展示してあります。
この話も長くなりますので、ここでは割愛します。
昭和2年の全国制覇のあと、昭和11年(1936年)4度目の制覇までの間を雌伏9年といっています。ずっと東大はじめ他の大学に負け続けたのです。
昭和11年は東大がベルリン・オリンピックに派遣され、「その留守に」とよくいわれるのですが、4度目の制覇を果たしました。
翌年は負けたのですが、昭和13年、14年と続けて全日本連覇を遂げます。
昭和15年(1940年)に東京オリンピックがあるはずでした。そのために戸田ボートコースを造ったのですが、第2次大戦のためオリンピックが幻と消えたのです。
がその年、戸田の新コースで第1回全日本大会が行われ、一橋が制覇しました。
私が東京商大生になった昭和11年から16年まで、4度全日本制覇を成しているのです。この間が一橋ボートの第2期黄金時代でした。
その後は、昭和23年(1948年)に7度目、昭和35年(1959年)に8度目、昭和43年(1968年)に9度目ということで、一橋は過去9度全日本制覇を成し遂げています。
もちろんエイト以外も活躍しました。年表に少し触れてありますのでご覧ください。
いずれにしても、一橋のボートは日本のボート界で結構頑張っていたということですね。
近年は全日本で歯が立たない状況にあります。これ自体課題ですが、当面東大に勝つことに勢力を使っています。
今年は対東大エイト5連覇という歴史的な覇業を遂げました。
ただこの5連覇も商東対校レガッタ55年の歴史でいえば、通年で東大38勝:一橋16勝ですし、東大に9連敗したという悔しい戦績もあり、まだずいぶん借りがあるのです。威張れたものじゃないのです。このお返しをすべく、頑張れ頑張れと言っているのです。
戦争・事変・テロ・一般社会
20世紀は大変な戦乱の時代でした。
第一次大戦では2千万人が亡くなっています。第二次大戦では3千万人の死亡者が出たと資料にあります。大変な数字ですね。20世紀はまさに戦乱の100年でした。
21世紀はどうでしょうか。国際連合とかいろんな平和機関がありますが、うまくいくかというと難しいですね。
民族間の紛争も絶えないだろうし、21世紀も大きなテロやイラク戦争ではじまって、収束も難しい状況にあります。
いまあちこちのテロがマスコミに大きく取り上げられていますが、私たちが中国にいたときは、日常茶飯事でした。毎日のようにあのようなテロを受けました。だからあまり驚かないのですが、ともかく世界平和は言うべくしてなかなか難しいですね。21世紀もそうたやすくないのではないでしょうか。
本題にあまり関係ないのですが、その他20世紀にどんなことがあったかといいますと……。
まず、パリ万博(明治33年、1900年)にはじまりました。昭和天皇は翌年にお生まれで、その年が第1回のノーベル賞です。ノーベル賞は比較的新しいでしょう。
以降、私が気づいたのを挙げますと、
アインシュタイン、「相対性理論」発表(明治38年、1905年)
タイタニック号沈没(大正元年、1912年)
関東大震災(大正12年、1923年)
ペニシリン発明(昭和3年、1928年)
トランジスター発明(昭和23年、1948年)
皇太子ご成婚(昭和34年、1959年)
東京オリンピック(昭和39年、1964年)
アポロ月面着陸(昭和44年、1969年)
大阪万博(昭和45年、1970年)
札幌冬季オリンピック(昭和47年、1972年)
東京サミット(昭和54年、1979年)
ポートピア神戸'81(昭和56年、1981年)
つくば万博(昭和61年、1986年)
長野冬季オリンピック(平成10年、1998年)
社会的に大きな出来事をざっと整理したわけです。みなさんのタテヨコの整理にお役に立てばと思います。
…………
駆け足でしたが、大筋として、一橋大学とボートを中心に述べてきました。
ボートが栄えるときは学校の勢いもいいのだ、と石学長も言っておられます。増田学長、上原学長、高橋学長も、しかりです。
本当は逆ではないかと思うのですが、いずれにしても大学の勢いを高めるために何らかのお手伝いをしたのではないかという自負をボートは持っているのです。
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