Part1
三輪崎へ行こう
Part2
あの頃
Part3
万葉集
三輪崎
表紙
 三輪崎は、太平洋の荒海と熊野の連山に挟まれた南紀沿岸の一隅(いちぐう)で、猫の額(ひたい)のようだ。申し訳なさそうな地形である。それでも一つの集落として、神武天皇東征の頃から歴史に見え隠れしている。
  町並みは海岸に沿って長細く、奥は田んぼと段々畑である。
もともと半農半漁の町だ。
 映画の新藤兼人監督が、瀬戸内海に浮かぶ小島の貧農を描いた「裸の島」(1960年、近代英協)を覚えている人もいるだろう。
 モノクロで台詞(せりふ)なし、出演者もほぼ乙羽信子と殿山泰司の二人だけ。貧農の孤独な生活を淡々とドキュメンタリー・タッチで描く。観客のすべての目を銀幕に引き込んで感涙に咽ばせた。モスクワ国際映画祭でグランプリに輝いている。
 
 ぼくの場合、映画に釘付けになって目に汗をかきながら、なぜか小学生の頃の、小山のてっぺんの畑を連想した。「裸の島」ほど悲惨でも過酷でもないが、三輪崎にも似たところはあった。
 
 両親は、その頃食料品店を営み、畑を耕して生活の足しにしていた。父は漁にも出た。
 三輪崎の大半の家庭は、男は海、女は畑だった。
 どこの漁師も暗いうちに起きる。お茶漬けをかっこんで海へ。
 男たちはもやいを解いて伝馬船(てんま)の帆を揚げ、沖へ向かって櫓を動かす。
 女たちは舟が岸を離れるまでせっせと手伝い、見送る。子供たちを学校へ送り出すと、山の畑へ急ぐ。

 父母の畑は、いまでいう熊野古道高野坂「三輪崎口」からほん近い小山にあった。古道をあぜ道にそれて登ると、15分かそこらで頂(いただき)の畑に着く。

畑への坂道

 さつまいも、小麦、かぼちゃ、えんどう豆、その他もろもろ……、腹の足しになる穀物・野菜を作っていた。
 見下ろすと熊野灘が広がっている。見晴らしのいいところにみかんの木があり、時期が来るとたわわに実った。酸っぱくてまずかった。
 ちょうど川田正子の声で「みかんの花咲く丘」が歌われだした頃で、ぼくは今も歌詞がこの畑にダブる。

みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える 青い海
お船がとおく 霞(かす)んでる

 畑への山道は一人がやっと歩ける狭さだった。その道を、両親は天秤棒で荷(に)を担ぎ、往復した。姉、弟、ぼくの三人も、学校から帰ると、手伝いに行った。
 だれも崖から転落しなかった。えらかった(しんどかった)が、両親の大仰なほめ言葉に有頂天になった。

 冬の麦踏みはこたえた。しびれた(凍えた)。吹きっさらしの畑を寒風が荒(すさ)ぶ。
 夏、天秤棒を肩に畑への登り下りははくら(日射病)になるほど。昼の麦飯はすえて蟻がたかっていることもある。
「おまえら、蟻はのう、ものすごい力持ちやで。そやさかに、おいしのうても滋養になる」
 父の口癖だった。

父

 鈴島、孔島

 漁業組合前の海岸べりから目と鼻の先に二つの小島が浮かんでいる。左が鈴島で、右が孔島(くしま、久島とも書く)。二つを橋(ケーソン)が繋いでいるが、どちらの島へもこどもたちは泳いで渡った。

 二本の松がこれ見よがしげに美を競いあう鈴島。島のぐるりは、潜れば鮑(あわび)や雲丹(うに)や海老や近海魚がひしめきあっている。
 松と雑木林に覆われた孔島。浜木綿が生い茂っている。小さな神社には、漁師の守護神が祭られている。……前の関取久島海(田子ノ浦親方)はこの島を長年管理してきた下駄屋・久島さんの息子だ。久島海の父母の代から新宮へ引っ越した。
 
 両島から見返した熊野灘沿岸、三輪崎から佐野にかけての景色も悪くない。

父
50才頃の父
(後ろは鈴島)

 ぼくの父は海彦、素潜りの名人だった。
 16才のときから17年間、オーストラリアの北、パプアニューギニア近くのアラフラ海で真珠取りをした。その「昔取った杵柄」と、自ら発明した竹竿の水中鉄砲で、鈴島近辺の海の幸を連日食卓へ運んでくれた。
 ぶつ切り海老入りのみそ汁は磯からのお供物だった。鮑の肝の酢料理も。うまさは忘れえない。
 父は波打ち際の砂浜を歩いて、海亀の卵を見つける名人でもあった。ぼくが小中学校のころは温かいご飯にゆでた亀の卵をかけて食べる、……卵を二つ三つ、ふにゃふにゃの皮を破ってご飯に落とす。醤油を少し垂らして箸でかき混ぜる。あとはふうふういいながらかっ込むだけだ。なんとうまかったことか。
 いまは、浜辺で竹の杖を片手に亀の卵を探し歩く云々は、多分禁じられているのだろう。
 ついでにもうひとつ。父は亀の肉が好きだった。ぼくたち家族も好きだった。亀の肉のすき焼き、こんな美味はその後ついぞ知らない。これ本当の話。……ただし、この肉、食べると体の病毒を洗いざらい表に出すそうで、だから食べたがらない人もいたそうな。

鈴島
鈴島の沖は太平洋の荒海

 いま、二つの小島に昔の面影はない。
 鈴島の松は既に枯れ、丸坊主の木がわずかに過去を偲ばせる。
 孔島も鬱蒼とした緑を失った。わずかに浜木綿が咲いている。
 漁師の守り本尊は朱色のはげ落ちた鳥居の向こうで寂しそうだ。

 大規模な埋立、漁港の模様替え、櫓を漕ぐ伝馬船(てんま)からポンポン蒸気へ……。過疎をくい止める努力が報われないままに、自然だけは一変してしまった。
 …………
 それでも三輪崎の海が魅力的であることに変わりはない。町の静けさと対照的に騒がしい海。打ち寄せる波濤で荒削りの姿を露呈している磯と小島。
 漁はいまも盛んだ。夏は砂浜が海水浴客でにぎわう。

 畑と田んぼ

 中学のときまで通った山の畑は、ずいぶん前に他人に渡ってしまった。
 品評会でいつも大きさ1位を譲らなかった芋畑。酸っぱいが、渇きをいやしてくれた夏みかん。蛇がしょっちゅう出て恐かった途中の坂道。
 いまはどうなっているのだろうか。

 中学から高校にかけて、父の二期作を手伝った田んぼはいま住宅地になっている。先祖代々の墓地がこの先だから、帰郷の都度ここを通る。
 夏の炎天下の田んぼで草取りをした苦しさをいまもよみがえる。足のあちこちにひるが吸い付いて、気持ち悪かったなあ。
 田んぼの帰り道、畔(あぜ)でおふくろとよく芹(せり)を摘んだ。茹(ゆ)でても味噌汁に入れても、いい香りがして好きだった。
 リヤカーを引っ張って往復した狭い道がわずかに昔をとどめている。

父
「土も生きたあるさかに、の。
牛に耕させたのと違うで!」

 四季

 太平洋戦争終えてぼくが小学生の頃(1950年前後)。三輪崎はこんな具合だった。

 
 3月から暖かくなって桜が咲きはじめる。雨がよく降る。桜が散るとさつきやつつじが咲く。山の畑への坂道も雑草で覆われる。カヤボが生い茂ってくる。手や足を撫でては擦り傷で血を流させる。草いきれもはじまっている。「ごんぱち」という名の野菜、わかるかな? 湯がいてそのまま食べたり、煮物に入れるとうまかったなあ。
 
 鯉幟(のぼり)の頃から、それこそ五月晴れになる。日増しに暑くもなる。
 土曜日など、学校終えると、姉弟とワイワイ言いあいながら、海岸の道を町外れの山すそへ。トンネルの見えるところまで20分ほどだ。線路を横切り、「シワ(芝?)の川」の石橋を渡る。すぐ上の山の木陰では、両親が昼食を用意して待っている。中腹二畳半ほどの出っ張りで、ここがお昼とくつろぎの場所だった。
 汗を拭きながら、険しい山道を登る。ぼくたちは、口をそろえて、
「お父ちゃ〜ん! お母ちゃ〜ん!」...(山彦がこだま)
 上から、
「こどもたち〜! 気いつけなあれよ〜!」...(山彦がこだま)

 夏、
 山の畑からたわわな夏みかんの木越しに見下ろすと、コバルトブルーの海に鈴島、孔島が浮かんでいる。西よりに宇久井(うぐい)半島がせせり出ている。空は水色。ぎらつく太陽が容赦なく照りつける。
 真っ白の波があちらこちらにキラキラと、縞模様を織りなして飛び跳ねている。つい下の岩礁には荒波がザブーン、ザブーンとうち寄せている。
 ぼくは、麦わら帽子を被った顔から滴り落ちる玉の汗を忘れて、見とれる。後ろで父が、
「しげる〜! あんまり日向にいると、はくら(日射病)になるどお!」

 秋、
 芋掘りと田んぼの稲刈りが終わると、町をあげて八幡神社の秋の大祭だ。
 御輿(みこし)と、恵比須(えびす)・大黒・二十四孝(にじひこ、と呼ぶ)の檀尻(だんじり)が狭い街並み一杯に練りまくる。檀尻の音を蹴立てたぶつかりあいが見せ場で、年に一度の町の興奮を盛り上げる。砂浜では青年たちの「鯨踊り」が祭を最高潮にする。
 どの家も腕によりをかけた寿司のオンパレードだ。秋刀魚(さんま、ぼくたちは「さいろ」といった)の姿寿司、海苔巻き、昆布巻き、あぶらげ……。

 ぼくが中学校へ行く頃から、父は田んぼをはじめたのだった。1反(いったん)8畝(やせ)で米が8俵穫(と)れた。耕すのに牛は使わず、すべて鋤(すき)・鍬(くわ)・スコップの手作業だった。苦しくて、手伝うのがいやだった。
 蛭(ひる)に食いつかれて困った。いちいちひっぱなすのに苦労した。蛇が泳いでいた。すずめ、イナゴ、……小さな無法者に悩まされた。近くの川に飛び込んだときの爽快感は忘れない。
 そのうち、父は二期作をはじめた。米は全部で15俵近く穫れた。「和歌山県で二期作は初めて」と評判になった。が、ぼくの苦しさは2倍に増えた。  

 冬、
 雪はめったに降らないが、風が冷たい。雨が冷たい。海は荒い。
 それでも父はてんまを漕いで、沖へ出るのが好きだ。は山の畑に出かける。子供たちはハンコ(どてら)姿で母を手伝う。ハンコは母が夜なべで作ったものだ。

母

 元旦は夜明け前に小高い丘の八幡様(八幡神社)にお詣り。海に昇る初日の出に合掌。

朗読(19:35) on
 
<三輪崎へ行こう Part3〔万葉集〕>
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