Part1
三輪崎へ行こう
Part2
あの頃
Part3
万葉集
三輪崎
表紙

 三輪崎から西隣の佐野にかけて、海岸沿いに黒潮公園がある。遠浅の海を埋め立ててつくったものだ。幼い頃よく泳いだ。地引網の場所でもあった。
 公園入口に石碑があり、こう書いてある。

 熊野は、その昔からすばらしい山や海の自然の美と古代からの遠い歴史、さらに深い三山の信仰によって日本人の心のふるさととして栄えた。

 ここは熊野詣での古道として中世の頃、多くの人々がそれぞれの祈りと想いを胸に往来したその道すがら、三輪が崎や佐野の渡りに立った旅人たちは松の葉越しの月に来し方をしのび、岸うつ波に行く末を想って、かずかずの歌を詠んだ。

 爾来、春風秋雨を経ること幾星霜、大きく変貌した現代の風情に往年をしのぶ由もないが、そのむかし歌聖たちの絶唱は過ぎ来しわがふる里の美しかりし風情と熊野の心をあますところなくうたいあげている。……(後略)

石碑

 三輪崎が万葉集で詠まれていることを知る人は少ない。名もない土地だから、当たり前といえばそうであるが……。

 熊野灘の海が一望できる黒潮公園は子供の遊び場であり、お年寄りの憩いの場であり、ぼくにとってはふる里を自慢できる格好の場所である。

 公園内には万葉集の歌碑がいくつか建っており、いずれも三輪崎と佐野を詠んでいる。紹介しよう。

苦しくも 駒とめて
苦しくも 駒とめて わすれずよ
神の崎 みわが崎
神の崎 みわが崎
三輪が崎 やどもがな さみだれは
三輪が崎 やどもがな さみだれは

 新古今和歌集の次の歌を知る人は多かろう。

駒とめて袖うちはらふかげもなし
佐野のわたりの雪の夕暮れ

       (藤原定家)

歌碑
  
 この本歌が万葉集にあり、三輪崎が顔を出す。

苦しくもふりくる雨か神(みわ)が崎
狹野(さの)のわたりに家もあらなくに

    長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)

専門家二人の解釈を引用させていただく。

歌碑斎藤茂吉(万葉秀歌)

 神の崎(三輪崎)は紀伊の国東牟婁郡の海岸にあり、狹野(佐野)はその近く西南方で、今はともに新宮市に編入されている。

 「渡り」は渡し場である。 第二句で、「降り来る雨か」と詠嘆して、愬(うった)えるような響きを持たせたのにこの歌の中心があるだろう。

 そして心が順直に表され、無理なく受け入れられるので、古来万葉の秀歌として評価されたし。

 「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」
 という如き、藤原定家の本歌取りの歌もあるくらいである。

 それだけ感情が通常だともいえるが、奥麻呂は実地に旅行しているので、これだけの歌を作り得た。
 定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない。

歌碑村瀬憲夫(万葉の歌、第9巻)

 作者の長忌寸奥麻呂は、柿本人麻呂や高市黒人とともに、万葉第2期を代表する宮廷歌人である。

 長氏は忌寸(いみき)姓であることから、渡来系氏族であろうと考えられている。
 また長氏は、紀伊国那賀郡を本貫とすることによった命名であろうともいわれている。

 たしかに新宮市三輪崎・佐野は、行幸の及ばない当時としては僻遠の地である。そんな地にまで宮廷歌人がなぜ足を運んだのかという疑問も生じよう。

 しかし、もし長氏が那賀郡を本貫地とする氏族であるなら、忌寸奥麻呂が行幸とは別に、この地に足跡を留めたいという可能性も十分あるのではないか。

 そしてなによりも、この三輪崎・佐野の地の景観は歌の内容にふさわしい。半月形の弧を描いて熊野灘に真向かうこの海岸には、波・風を遮るものは何一つない。

 押し寄せる荒波は荒磯に砕けて潮けぶりをあげ、行く手を阻む。
 そのうえに、熊野の太く激しい雨が加われば、自然の脅威にただおののくほかはない。

朗読(7:07) on
 
<三輪崎「あの頃」 三輪崎の砂浜>
Part1
三輪崎へ行こう
Part2
あの頃
Part3
万葉集
三輪崎
表紙
その他、三輪崎が舞台のページ 
雑記帳 第5話 砂浜(はま)
11話 高野坂早春譜
19話 高野坂紹介
(南紀熊野紹介にも同文掲載)
山歩き 第28話 熊野古道
某日@某所 2001.04 三輪崎
2009.05 南紀熊野
小話集 第36話 奈良・熊野古道、伊勢
熊野処々概論 熊野処々各論 熊野古道メモ 高野坂、大戸平 三輪崎の海岸
高野坂 ふる里三輪崎 三輪崎の砂浜 熊野古道を歩く 熊野を巡る
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