運転免許証の本籍地はこうなっている。和歌山県新宮市三輪崎○○番地。
紀伊半島南紀、熊野地方の和歌山県新宮市三輪崎はぼくのふる里だが、新宮高校卒業(1959年、第11期)以来、遠く離れてしまっている。
三輪崎は、新宮市にありながら、実質独立した町のようでもある。行政上は市に併合されているが、地形的には無理やり一緒にした感もあり、交通が発達したいまも市街とは違った文化・訛(なまり)・生活環境である。
ご多分に漏れず、幼いころは無限の広さと思えた三輪崎町も、全国地図では点にもならない。和歌山県のページをめくって拡大鏡で眺めると、熊野灘に面し三重県との県境、新宮市の海岸沿い西の一角にちょこんとその名が目につく。
終戦直後まで、和歌山県東牟婁郡三輪崎町といった。その後新宮に併合されて新宮市三輪崎となる。JR"紀の国線"の駅名は従来どおり「三輪崎」だが、いつの間にか無人駅になっている。
紀伊半島の真南は、串本から太平洋に突き出た潮岬で、いうまでもなく本州の最南端である。黒潮が岸壁に荒波をぶつけている。
串本の向かいは大島だ。民謡で名高い。近くに橋杭岩という、奇岩が連なった名勝もある。
三輪崎は「串本駅」から熊野灘の海岸線を東へディーゼル列車で30分揺られると着く、海辺の漁師町だ。
昔から西隣の佐野、木ノ川と併せて一つの集落をなしている。三地区合計しても人口は5千人程度か。この三地区を含む新宮市全体も4万人を切っている。(1999年現在)
三輪崎から東へひと駅先が「新宮」。和歌山県の東端で、三重県との県境である。
三輪崎と新宮はひと山(約10km)越すので、同じ新宮市だが訛(なまり)もかなり違い、鉄道開通以前は姻戚関係も少なかった。
1960年頃に、昭和天皇がお車で伊勢から紀伊半島を和歌山に向かってご旅行された。そのとき、道路(42号)が見違えるほど整備、舗装され、交通の便が随分良くなった。
いま、三輪崎を中心にして国道42号を車で走ると、半径1時間もかからないところに名勝古跡がひしめいている。
那智の滝、熊野那智大社、青岸渡寺、熊野速玉大社、神倉山、勝浦温泉、湯川温泉、鯨の太地(たいじ)、潮岬、熊野市の鬼ヶ城。
もう少し時間をかけて北へ走れば瀞峡(いわゆる瀞八丁)、熊野本宮大社、川湯・湯の峯・渡良瀬といった温泉郷、……。
数々の風光明媚な周辺と比較して、三輪崎は影が薄い、変哲がない、……ということになっている。
そうだろうか。隠れた名勝史跡がいくつもあると思うのだが。自慢のふる里だから、かなり身びいきだとしても。
「素敵な町だよ。海もある、山もある、田園もある、万葉の歴史もある。熊野古道だってある。来てみてほしいなあ! ぜひ!」
三輪崎へ行くには
昭和35年(1960年)頃、昭和天皇行幸の折り、名古屋から紀伊半島を海岸伝いに大阪に至る国道42号が整備・舗装された。
半島南端近くに位置する三輪崎は、名古屋からでも大阪からでも車で快適に往来(ゆきき)できるようになった。
汽車も、いまは新宮から大阪方面でも名古屋方面でもディーゼル特急で約4時間だ。
そのJR「紀の国線」は、大阪から名古屋まで紀伊半島の海岸をぐるっと巡り、和歌山県は田辺、白浜、串本、紀伊勝浦、那智、新宮、三重県は熊野市、尾鷲、松阪、四日市を経由する。
山並みと梅・蜜柑畑、黒潮のコバルトブルーはどこまでも続く。
線路はいまも単線である。
昭和34年(1959)、まだ紀勢本線の新宮・名古屋間が全通していなかった頃、ぼくは大学受験で上京した経路は……、
わざわざ方角が反対の大阪までD51(デゴイチ)で10時間(当時)ほど揺られ、大阪から東京までは東海道線を利用。全部で20時間近くかかった。
1年浪人の後、昭和35年(1960)、再び上京したときは、紀勢本線が全通していた。今度は大阪を回らず直接名古屋経由で東京へ向かう。うれしさがこみ上げた。東京まで5時間以上も短縮されたのだから。
おまけにこのときからD51がほとんど姿を消し、特急や急行はすべてディーゼル化された。
D51の車窓から入ってくる石炭のばい煙で目が充血、鼻の中が真っ黒になったことも、今は昔の話である。
2004年現在、東京から三輪崎まで約6時間。
東京→名古屋(2時間、新幹線ひかり)、名古屋→新宮(3時間半、特急南紀)、新宮→三輪崎(汽車で5分、バスで15分)
その頃までは、三輪崎の大半の若者は、義務教育が終了すれば親のあとを継いで漁師か百姓になった。残りは新宮に出て木材会社に勤めたり、商店の店員になった。
このパターンを崩したのが昭和35年(1960)の紀勢本線全通と昭和40年(1965)の国道42号の大舗装だった。
新宮の製材業の衰退も手伝って、若者は中学、高校を卒業すると同時に都会へ。それも大阪方面ばかりでなく、名古屋・東京へも就職するようになった。
三輪崎は相変わらず半農半漁の町だが、若者が年を追って少なくなってしまった。
「どこの若い衆(わかいしゅ)も居てくれんようになったの〜し」
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