(2) 弥彦神社と伊東忠太
弥彦神社の名は、15年ほど前、のちに小説「怪獣の棲む講堂物語」として完成させた大学母校の兼松講堂と建築の巨人・伊東忠太の関わりを追跡していたときに知った。
明治から昭和にかけて、伊東忠太は数多くの有名な神社仏閣の設計・建築に携わっている。
平安神宮、明治神宮、豊国廟、可睡斎護国塔、弥彦神社、上杉神社、祇園閣、震災記念堂、中山法華寺聖教殿、築地本願寺、湯島聖堂、明善寺、……
中で弥彦神社は、火災による再建に際し、大正5年(1916)、伊東忠太の設計で建築された。
後に、彼唯一の西洋風建築、それも当時大学講堂はゴシック建築≠ェ定着していたときに、旧式のロマネスク様式とし、講堂内部は大半が彼の手作りによる妖怪・怪獣であふれることになった。
東京商科大学(現・一橋大学)の原点は、福沢諭吉、渋沢栄一らが深く関わった森有礼の私塾「商法講習所」だ。
私塾から公立へ、苦難の曲折の末、東京高商を経て大学に昇格した数年後に関東大震災に見舞われ神田の校舎はほぼ壊滅(1927)。都心から武蔵野の原野(現・国立市)への移転を決めた。その学園キャンパスの中心となる講堂は、兼松商店の寄贈申し入れという恩恵、それに豊かな予算にも恵まれた結果、当時では思いもよらぬ建築の巨人といわれる東京帝大教授・伊東忠太に話を持ち込むことになる。忠太先生、超ご多忙にも拘わらず、設計・建築の全てを引き受けた。彼が擁する有力な手勢を率いて。
ご自身、半年以上、本郷から東京駅に出て、片道2時間の電車に揺られ、国立まで通いとおした。なぜ?
そして本件につながる当大学の尋常でない歴史と、勝海舟にはじまる歴史上の人物たちの関わり。
ぼくは60代の数年間、2回り近く先輩の中村達夫氏にお供して、調べまくった。先輩の強い依頼で長編小説「怪獣の棲む講堂物語」を仕上げた思い出はいまのぼくの支えの一つだ。
…………
弥彦神社は、期待に反して、ぼくに伊東忠太を連想させる何ものも残していなかった。神社のどなたも忠太をご存じなさそうで、「伊藤忠ですか?」と逆に聞き返され、大いに戸惑ったのだった。
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