中国の旅から帰ると、留守電に現幹事長N氏から伝言が届いていた。『十二月クラブとは?』をお書きになった重鎮で、初代幹事長でもある。如水会の常任理事を2期にわたって務められた。
コールバックすると「少しは疲れがとれましたか?」とねぎらい、夕食をお誘いになる。如水会館14階のラウンジでお会いすることにした。
小柄・猫背は前に書いた。頭はツルツルで、季節に応じた帽子がどれもお似合いだ。足が不自由らしく、杖は手放さない。約束の時間よりも10分前に入ると、ソファの席でにこやかに手招きした。
他にどなたも同席していない。お呼びいただいたのはぼくだけのようだ。二人でお会いするのは初めてのこと。チーズ三点盛りをつまみにスーパーニッカ・オンザロックをたしなんでおられる。ぼくはビールでお付き合いすることにした。
絶えず周囲からどなたかが近づいては挨拶される。支配人のH女史もやってきて、「今日は重要な打合せのようですね。どうぞごゆるりと」。いやでもN先輩の存在感が伝わる。ご本人は知らぬげにらい落な笑顔を見せている。
「本当にお世話になったね」
謝意を込められたあとは、東京商大時代から終戦を迎えるまで、南方の戦地で死に目にあったことや危機一髪、戦友たちとの悲喜こもごも……、世間話よろしく笑いを誘いながら話される。
「ちょくちょく誘うから付き合ってくれないか」
別れ際にそう言われた。
…………
こうしてN先輩とのお付き合いがはじまった。
ぼくのユニークな性格を十分にご理解され、ある共感を覚えられたのだろうか、先輩が88歳の米寿を迎えられた直後に他界されるまで数年にわたって、ぼくにとっては身に余る親交をいただいた。この「中高年の元気!」にその時々がちりばめられている所以である。
中でも先輩との強いつながりを感じ、先輩の執念ともいえる行動に付き従った日々を思い出す。一橋大学国立キャンパスにある「兼松講堂」の成り立ち追求だった。
2004年7月のある日、如水会館14階のラウンジでお会いする。いつものオンザロックを前に、「君も読んだと思うが」と、先輩は母校の広報誌「HQ」の創刊号を取り出す。「受け取りましたが、まだ……」とぼくは口をにごす。
一口オンザロックをすすってから、「ここのところだがね」と『怪物の棲む講堂』のページを開いて語りはじめる。東大教授藤森照信氏の講演抄録だ。
「兼松講堂は、外観でも目につくが、とくに内部は地階から2階まで、怪物というか怪獣だらけだよね。壁は言うに及ばず、シャンデリア、置物、果ては階段の手すり……」と頭の中は次々と怪物たちが駒送りされているようだ。続けて、
「建築様式がまた、東大安田講堂や早稲田大隈講堂などで当時一般的だったゴシックではなく、旧式のロマネスクときている。しかも設計・建築者は、当時建築の巨人とあがめられた大御所の東京帝大教授伊東忠太博士だ」
ぼくはまだ話について行けない。気のなさそうな相手を知ってか知らずか、建築者についてこう言う。
「後に建築学会で初めて文化勲章を受けられた名高い博士が、遊び半分で片道2時間近くもかけてはるか武蔵野原野まで通いつめただろうか。1年近くも、休日はもとより時間がありさえすれば現地で陣頭指揮をしたのだ」
核心に近づいたらしく、いつに似ずお顔は真剣みを帯びる。
「前々からそんな気がしていたが、博士はこの講堂建築に何らかの思いを込められたと、いま私は信じている。それを藤森氏は、『(伊東さんは)よしっ、ここはひとつ、怪獣をやってやろう』とか、『怪獣をくっつけるためにロマネスクにした』とか、怪獣ばっこも建築様式も伊東博士の特異な趣味≠ノつないでしまっている」
要するに藤森教授の説は、先輩の考えとは真っ向から食い違っているらしい。しばらく朱線とメモで埋めた講演抄録を解説して、「君はどう思う?」とぼくの目をじっと見る。HQ誌の感想『(ご講演によって)一橋大学関係者ですら知らなかった兼松講堂の歴史的価値、建築物としての文化的価値を知ることに……』にも違和感と身内に対する失望を隠せないようだ。問題意識のないぼくは、「そうですか……」としか答えようがない。
「私なりに調査したいのだが、付きあってくれるかね?」
先輩の半ば同意を前提とした投げかけに、「はい」と肯くしかなかった。
10日ほど後の、東京大手町が摂氏40度を記録した7月下旬に本格的な実査を開始する。午後一番に国立キャンパスの管理センターを訪れ、施設課長と意見交換のあと、S係長のご案内で、夕刻まで講堂内部をくまなく巡った。外に出ると熱暑の名残がムッときた。
その後、建築施工の三菱地所、渋沢栄一翁ゆかりの渋沢史料館、伊東忠太の資料が保管されている建築会館、忠太博士建築の築地本願寺、大倉集古館、靖国神社遊就館、湯島聖堂、震災記念堂(現東京都慰霊堂)、そして母校の関係者との面談……。
持ち前の粘りと顔の広さで、老齢を感じさせない精力的な調査活動が進む。電話での再確認や幾つかの再訪も含めて。
![](snap/0409shibusawa1.jpg)
2年余をかけた調査資料は先輩の作業部屋を埋めた。いよいよ集大成と意気込まれたその時にご自身が大病に襲われ、断念せざるを得なくなる。
病床にあお向けで、残念無念を顔ににじませながら、「代わって君がまとめてくれないか」。
悪い予感が当たったまでだが、それまで大した考えもなくただ付き従っていたぼくに、代役を果たせるわけがない。意を託されたものの、実力と信念は代わりようがない。
先輩が山積みにした資料をひもとくことからはじめて、徐々にぼくも「思い」だけは先輩と共有できるようになっていく。とにかく書きはじめよう。
すぐに壁にぶつかった。論文は端から駄目だし、ぼくのエッセイでは先輩の意思をどこまで表現できるかおぼつかない。
小説でならどうか。ウソが許されそうだし、先輩から離れてぼくの世界で展開もできる。はるかに自由度がある。
但し小説は、いつぞやセキセイインコのピーチャンを題材に書いたことはあるが、満足のいく出来栄えではなかった。第一我流で、小説作法の「いろは」すら知らなかった。お呼びでないと悟り、その後はあきらめてもっぱらエッセイや紀行文に精を出している。
が今回は小説形式でなければ一歩も進まない。そう考え、その気になると駆け込み寺はあるものだ。
中央図書館で「蒼穹」という小説講座が月1回開かれていることがわかった。すぐに申し込み、入会する。
3年間通い続け、講師M先生の精力的なご指導にあずかった。……『傷だらけの天使』等、テレビドラマのプロデューサーだったIS氏とはじっこんになり、ご自宅に伺ってよく酒を酌み交わした。10数人の他の仲間たちとも、講座のあとは居酒屋に繰り込み、談笑を大いに楽しんだ。
とりわけお世話になったのがOH氏だ。彼はすでに小説家として世に出ており、この講座は息抜きのようだった。ご自身の作品は出さず、辛口の批評を各人に浴びせる。ぼくの兼松講堂に関する書きかけもまぬがれるはずがない。が、彼はこの作品の背景に興味を覚えたようだった。その後ぼくをOホテルのラウンジに誘った。それから1年、毎週の如く彼の特訓が続く。
3年ほどして、大腸ガン手術がもとで退会を余儀なくされ、どなたともお別れになってしまったが、『兼松講堂の成り立ち』に関する小説作法的支えは、「蒼穹」のM先生とOH氏にある。
小説当初のタイトルはM先生が名付けた『ロマネスクと四神像』だった。N先輩のご存命中にと仕上げた一応の完結≠先輩は私家版としてご自身のエッセイとともに書籍にされ、それを手にして旅立たれた。
…………
その後しばらくを経て改訂に取り組んだ。大幅にいじくったつもりでも素人の手慰みの域を出ない。N先輩がモデルの主人公をはじめ、登場人物を突き放そうとしたがならず、ストーリー展開も変わらずぎこちない。もはやここまでということで筆を置いたのが現在の『怪獣の棲む講堂物語』だ。「雑記帳第46〜48話」として載せてある。
何にせよぼくにとっては、この作品がN先輩にお世話になった記念碑であることに変わりない。
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