昭和16年(1941)といえば、いまからちょうど60年前で、私が満1歳のときです。
その年12月、太平洋戦争勃発のため、全国の大学で、翌17年(1942)3月の卒業を繰上げされ、即兵役となった先人達がいます。戦没者多く、生存者は過酷な運命をしょいながら、戦後日本の復興に尽力されてきました。現存者の平均年齢はいまや83歳です(2001年現在)。
その年、一橋大学(当時、東京商科大学)繰上げ卒業者は352人でした。翌年2月兵役に服し、戦没者35人。卒業60周年を迎える今年、現存者は142人です(2001年9月25日現在)。
この年次を同期のみなさんは『十二月クラブ』と名付け、その友情と絆(きずな)はいや増しながら今日に至っています。
彼らは卒業以来、節目節目で大部の文書・資料を残しました。大半は如水会館の図書室に保管されていますが、年月の経過とともに忘れ去られる心配があります。
であれば、彼らが肉筆で綴った『後世への道しるべ』とも云うべき貴重な資産が、私たち後輩のみならず、数多(あまた)の人々を啓蒙することなく灰燼に帰すことにもなりかねません。
今年12月の「卒業60周年」を記念すべく、彼らの有志が昨年夏から「文書・資料のホームページ(HP)化」を企図しました(但し当初は、「目次程度に留め、内容は如水会館・図書室にて」の予定だった、とのことです)。
そんな時、去る3月、JFNオフ会でY先輩との出会いがあり、私も作業者の一人として参画することになりました。
HPプロジェクトは、「目次程度の掲載」がエスカレートして、「広く後世の目に触れるように」と、全資料HP化の作業を続けています。
「十二月クラブ」文書資産は次の6つに集約されます。
卒業記念アルバム(1941年)
25周年記念アルバム(1966年)
30周年記念文集(1971年)
40周年記念文集 『波涛』(1981年)
50周年記念文集 『波涛2』(1991年)
十二月クラブ通信(〜2001年、年3回)
12月の60周年記念総会までに、上記の全てをホームページ化するのは無理ですが、その分“時間をかけても全文書を”との、先輩たちの意気込みに変わりありません。
各文書は、時代背景も如実に、生の声が格調高く息づいています。同時に、全体を通して骨太の流れが貫いているという意味において、この資産は、わが国の“小史“にも位すると思われます。
それは一橋大学近代史に寄与するばかりでなく、わが国昭和現代史を補完するもの、といっても過言ではないでしょう。それに、全てが外部好事家や吏員によるものではなく、諸先輩が自らの手で綴りあった血のほとばしる≠ニでもいうべき人生行路です。
故に資料は、「ひも解かれる過去」に属するものではなく、遍(あまね)く後世にとって「温故知新」の金字塔であると確信しています。
「十二月クラブ・ホームページ」は、まだ作業途上ですが、ここで完成の姿を念頭に、目次を紹介しておきます。
1. 十二月クラブとは
成立ちの趣旨と内容、及び広範な活動のあらまし (初代幹事長N氏寄稿)
2. 懇親会、同好会、委員会
各種行事の経緯、懇親会・ゴルフ・麻雀・海外旅行等の模様、そして昨年来のホームページ構築過程の議事録
3. 回顧、近況報告
レトロに流れず、生涯青春が脈動する文の数々
4. 十二月クラブ通信
戦記、経済、外交、宗教、教育、社会、等多岐にわたる講演・座談・論文集
現状は目次紹介であるが、いずれ全ての内容がホームページ化される。
5. 記録
前記、6つの文集・アルバム
太平洋戦争前夜から今日まで、20世紀の過半をカバーする情報源である。激動の時代背景を浮き彫りしながら、有意の若者の青春・挫折・友情・絆が縦糸状に織りなしている。
「水深川静(水深くして川静か)」、Y先輩がよく口にする格言です。また、「50周年記念文集」(波涛2)でどなたかがサミュエル・ウルマンの次の言葉を引用しています。
「青春とは、人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言う。」
「十二月クラブ・ホームページ」は、こうした先輩たちが雄々しく生き抜いてきた青春賛歌です。全編誇らしい過去に満ち、私たちを勇気づけます。
昭和史の情報源としても意義深いこのホームページが、より多くの方々に愛され、これからの輝く日本に寄与することを願ってやみません。
小芝 繁 (2001.10.21)
昭和39年(1964)、社会学部卒
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