Part1 出会い Part3 記念総会、そして
Part2 お手伝い
Part2 お手伝い
 還暦越えという節目の1981年に出版された、十二月クラブの40周年記念文集 『波涛』全文のホームページ掲載に目鼻がついた(目次、別項のとおり)。8月のお盆過ぎだった。
 引き続き10年後に出版された、70歳の古希記念ともいうべき卒業50周年記念文集『波涛2』への挑戦に思いをはせる。こちらはもっと分厚いが、ここまで来たら「いっそのこと全ての文集を……」、そんな途方もない考えもむらむらと湧く。自分の力だけで成し遂げうるはずはないが、意欲が増すにつれて夢がふくらむ。
 そのあおりで従来の生活パターンが崩れざるを得ない。この一点に集中するために。
 3年前から続けてきた山歩きは7月の黒斑山(くろふやま)で打ち止めとした。やみつきにもなり、山歩会仲間とは心が通じあえるほどになっていたのに。
 代わりに妻の強い勧めを受け入れ、近くのテニススクールに通いはじめる。週一度、1時間半のレッスンだ。
 4月から引き受けていたKKRの「温泉リゾート地でのパソコン教室講師&懇親会コーディネーター」は意に反して重荷になってきた。秋から一区切りの年末まで中断させていただこうか迷ったあげく、虫がよすぎるとの思いで、秋以降の辞退を申し出た。迷惑この上ない形で我を通させていただいた。自分の(しょう)にこれほど適した仕事はないと自認していたのに。10年経った今もって悔やんでいる。

 酷使のデスクワークによる体の変調は避けて通れない。目のかすみが気になっていたら、突如目の前が万華鏡になった。サイケデリックな色彩が眼前を覆い、目くらましにあったようで気が遠くなる。妻は東陽町の会社に出勤中だ。経理や雑事を引き受けている。
 フローリングの床にゴロンと寝っ転がって30分ほど経過したろうか。次第に気分が落ち着いてき、万華鏡は中心部分から消えかけてきた。10年ほど前に自社でパソコンに向かっていたときと同じ症状だ。あの時は同じ階のクリニックにお世話になり、事なきを得た。女医先生の見立ては「過労、目の使いすぎ」。パソコンに向かう時間を極力制限したのだった。
 今回はそうはいかない。次の日から昼食後はしばらく散歩することにしたが、パソコンに向かう時間はむしろ増やしたい欲望が強い。眼科医あつらえの目薬と、脳神経内科処方の血圧降下剤と血流薬を頼りに、作業を続ける。妻にはずっと黙っている。余計な心配はさせたくないし、妻のやめ口によってぼくの考えがぐらつくはずもないから。

 お引き受けしているところまでなら、現段階でも達成したといえるかもしれない。しかし生きがいを感じるまたとないチャンスだ。やるだけやって倒れても本望ではないか。どうせ15年前に脳梗塞で失いかけたおまけの人生だ。往生際はきっと悪いのに、そんな自虐的な格好よしが心の片隅にある。良否云々よりもそれが性格なのだから仕方がない。つまるところ、十二月クラブの当面の望みを成し遂げるだけでなく、折角だから出来るところまで突き進もう。
 いまや夢が願望になってきた。その大きさと自力の限界を比較すると、どうしても助っ人が必要になる。この場合、ぼくのようにボランティアというわけにはいかないだろう。十二月クラブの予算でカバーできるだろうか。
 とりあえず如水会のT理事に相談する。
 30周年も含めて記念文集はぼくが作業を続けるとして、記念アルバムとクラブ通信をW女史に打診することになった。彼女はIT関係の会社を経営し、横浜にオフィスをもつ。
 彼女の見積額を十二月クラブは了承する。その際ぼくに「実費だけでも負担したい」と、くどく催促あったが、固く拒んだ。無償でなければ意味がない。志が決定的に傷つく。寅さん男の真骨頂である。
 これでいつかは十二月クラブの文書資産がインターネットを通してどなたのパソコンでも閲覧可能となる。どこまで本年12月の記念総会に間に合わせることができるか。
 W女史はビジネスを超えて協力してくれることになった。ぼくの手に負えない技術面のみならず、お披露目に至るまで力強い相談相手として、手間暇を惜しまなかった。かたくな男との連係プレイだから気骨もおれ、実質的に迷惑を被ったこともあるのではないか。
 引き出物のCDは彼女の会社が制作した。

 「君自身の思いというか、このホームページに対する考え方を書いてくれないか」
 十二月クラブ幹部のご要望に応えてつづった文章を「後輩の声」広場に載せていただいた。性格丸出しでキザっぽいが、ここに転載する。

 昭和16年(1941)といえば、いまからちょうど60年前で、私が満1歳のときです。
 その年12月、太平洋戦争勃発のため、全国の大学で、翌17年(1942)3月の卒業を繰上げされ、即兵役となった先人達がいます。戦没者多く、生存者は過酷な運命をしょいながら、戦後日本の復興に尽力されてきました。現存者の平均年齢はいまや83歳です(2001年現在)。

 その年、一橋大学(当時、東京商科大学)繰上げ卒業者は352人でした。翌年2月兵役に服し、戦没者35人。卒業60周年を迎える今年、現存者は142人です(2001年9月25日現在)。
 この年次を同期のみなさんは『十二月クラブ』と名付け、その友情と絆(きずな)はいや増しながら今日に至っています。

 彼らは卒業以来、節目節目で大部の文書・資料を残しました。大半は如水会館の図書室に保管されていますが、年月の経過とともに忘れ去られる心配があります。
 であれば、彼らが肉筆で(つづ)った『後世への道しるべ』とも云うべき貴重な資産が、私たち後輩のみならず、数多(あまた)の人々を啓蒙することなく灰燼に帰すことにもなりかねません。

 今年12月の「卒業60周年」を記念すべく、彼らの有志が昨年夏から「文書・資料のホームページ(HP)化」を企図しました(但し当初は、「目次程度に留め、内容は如水会館・図書室にて」の予定だった、とのことです)。
 そんな時、去る3月、JFNオフ会でY先輩との出会いがあり、私も作業者の一人として参画することになりました。
 HPプロジェクトは、「目次程度の掲載」がエスカレートして、「広く後世の目に触れるように」と、全資料HP化の作業を続けています。

 「十二月クラブ」文書資産は次の6つに集約されます。

卒業記念アルバム(1941年)
25周年記念アルバム(1966年)
30周年記念文集(1971年)
40周年記念文集 『波涛』(1981年)
50周年記念文集 『波涛2』(1991年)
十二月クラブ通信(〜2001年、年3回)

 12月の60周年記念総会までに、上記の全てをホームページ化するのは無理ですが、その分“時間をかけても全文書を”との、先輩たちの意気込みに変わりありません。

 各文書は、時代背景も如実に、(なま)の声が格調高く息づいています。同時に、全体を通して骨太の流れが貫いているという意味において、この資産は、わが国の“小史“にも位すると思われます。
 それは一橋大学近代史に寄与するばかりでなく、わが国昭和現代史を補完するもの、といっても過言ではないでしょう。それに、全てが外部好事家や吏員によるものではなく、諸先輩が自らの手で綴りあった血のほとばしる≠ニでもいうべき人生行路です。

 故に資料は、「ひも解かれる過去」に属するものではなく、遍(あまね)く後世にとって「温故知新」の金字塔であると確信しています。


 「十二月クラブ・ホームページ」は、まだ作業途上ですが、ここで完成の姿を念頭に、目次を紹介しておきます。

1. 十二月クラブとは
 成立ちの趣旨と内容、及び広範な活動のあらまし (初代幹事長N氏寄稿)

2. 懇親会、同好会、委員会
 各種行事の経緯、懇親会・ゴルフ・麻雀・海外旅行等の模様、そして昨年来のホームページ構築過程の議事録

3. 回顧、近況報告
 レトロに流れず、生涯青春が脈動する文の数々

4. 十二月クラブ通信
 戦記、経済、外交、宗教、教育、社会、等多岐にわたる講演・座談・論文集
現状は目次紹介であるが、いずれ全ての内容がホームページ化される。

5. 記録
 前記、6つの文集・アルバム
 太平洋戦争前夜から今日まで、20世紀の過半をカバーする情報源である。激動の時代背景を浮き彫りしながら、有意の若者の青春・挫折・友情・絆が縦糸状に織りなしている。


 「水深川静(水深くして川静か)」、Y先輩がよく口にする格言です。また、「50周年記念文集」(波涛2)でどなたかがサミュエル・ウルマンの次の言葉を引用しています。
 「青春とは、人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言う。」

 「十二月クラブ・ホームページ」は、こうした先輩たちが雄々しく生き抜いてきた青春賛歌です。全編誇らしい過去に満ち、私たちを勇気づけます。

 昭和史の情報源としても意義深いこのホームページが、より多くの方々に愛され、これからの輝く日本に寄与することを願ってやみません。

小芝  繁 (2001.10.21)
昭和39年(1964)、社会学部卒

 ぼくは人一倍お人好しで、安請け合いする悪い癖がある。お人好しは本人が内心忸怩(じくじ)たる思いをし、他人様に笑われるだけですみそうだが、安請け合いは結果的に他人様を傷つけ、迷惑を与える。
 加えて苦労している姿を人に見られたくないという見栄坊的性格ゆえに、他人様を前に朗らかで健康そのものを誇示するから、誤解を与えて期待ほどの感謝で報われるはずがない。
 前の会社にいたときや、起業したあと付きあった業界団体でも、固有の性格が災いして、人知れず汗した苦労が逆に関係者の反感を買うことがあった。その都度妻にはとばっちりで右往左往させた。
 人はやってもらったことに感謝するよりも、やってもらえなかったことを根に持つ=Aそんな経験的人生訓がありながら、この場合も最後に墓穴を掘ってしまった。

 Y先輩とのタッグでゴールが見えた頃、二人の思惑が(きし)んだようだ。
 ぼくはもうへとへと、青息吐息だった。自宅で作業しながらも、旅先で(くつろ)ぐことを夢想していた。パソコンに吐き気を催す、正直そう感じた。呪縛(じゅばく)からの解放をひたすら心待ちし、ゴールのテープカットを目指して力を出し切った。それを少しは表に現わせばよかったのだ。
 一方、Y先輩はお披露目後に向かって夢を膨らませている。近況欄をもっと充実させ、会員同士の交流の場としても発展的に活用したい。パソコンの知識についてはぼくなど比ではないその実力が自信の裏付けとなっている。構想の一端をぼくに話し、引き続いての協力を期待されたようだ。
 「お披露目までのご協力です」とはっきり言えばいいのに、肯定的にあいまいにする。これも優柔不断・八方美人のぼくの悪い性格だ。先輩のご期待を裏切り、最高の達成感と幸せを暗い闇に(ほうむ)り、十二月クラブとの親密な関係を後味悪くさせた張本人はぼくそのものだった。

朗読(19:47) on
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