Part 1
Part 2
Part 3
Part 3
書き残しておきたいこと
 10数年前にHP「中高年の元気!」を立ち上げ、紀行文やエッセイや、様々のことを書いてきた。だから今さら書き残しておきたいでもあるまいが、本人としてはそうでもない。いつか書こうとしていまに至っているもの、思いが大きすぎて手に負えないままで来たもの、構想倒れになっているもの、……。
 目を閉じると、頭の奥にやんわり、ぼう洋とした絵模様入りのテーマが現れては駒送りされる。大同時代、スワンソン先生、十二月クラブ……、いずれも思い出だけで片付けたくないぼくの大事な軌跡だ。
 月尾嘉男氏が数年前に送ってくれたCD4枚組「日本百年の転換戦略」(全24話)のレジュメも、ほんの数話で挫折したままになっている。これはいずれを期すことにしよう。
 ということで、駒送りで浮かぶ三つの絵模様を浮き彫りさせようと思い立った。ボケの兆しを感じる今日この頃、多少は頭の体操になるだろう。2、3ヶ月かけて、出来上がるごとに公開したい。
 大同特殊鋼(旧大同製鋼)勤務は、22歳から48歳の10月まで、26年と半年だった。45歳で(かか)った脳梗塞が引き金になって中途退社になるが、青壮年期の大半を同社で過ごした。その間の思い出の数々をあちこちのエッセイにちりばめてはあるが。
 ゴルフとの関わりについて書いてないのは自分でも不思議だ。仕事についても上っ面を撫でただけで、生々しい人間関係には触れずに来た。古希を1年超えたいま、それが心残りだし、今さら隠しておくこともあるまいと思い至った。
 ゴルフという相棒は、31歳から付き合いはじめ、脳梗塞で挫折するまで、まさに濃密な関係だった。以降疎遠にならざるを得なかったが、還暦を迎える頃まではか細い糸でつながっていた。会社経営をヤナさんに譲ると同時にサヨナラする。ゴルフのエピソードを交えながら、そんな年代に照準を合わせてみたい。
 大同を退社するまで11回社内異動や出向をしている。入社時の配属先築地工場総務課以外は、ほとんどが本人の希望によるものだ。
 当然職場ごとに人間関係が生まれた。楽しく誇らしいものもあるが、逃げ出したいのもある。ここではそんないやな思い出も取り上げ、身勝手に憂さ晴らしをするつもりだ。
 この大同時代は「サラリーマン@大同」として書く。長い話になりそうだ。
 書き残しておきたいあと二つは、スワンソン先生と十二月クラブのこと。紹介だけしておこう。
 宣教師グレン・スワンソン先生との出会いはぼくが現役で東京外大の受験に失敗した夏だった。翌年正月に捲土重来を期して上京するまで半年ほどのお付き合いだったが、今もぼくの胸を熱くする。事実その10年後、米国へ留学したときは先生の親類やお知り合いにお世話になったし、その年クリスマスには、先生ご家族がミネソタのセントポール市に帰郷されていて、訪ねたのだった。
 先生は定年まで、ぼくの故郷新宮と熊野川で隔てた三重県紀宝町成川で布教をされた。日本にお別れして成田空港を発たれたとき、お見送りすることが出来なかった。
 次男のポール君、三男のダニー君とは今も付き合っている。

ポール君(南山大学教授)

ダニー君(ハワイ島ヒロでペンションを経営)

 十二月クラブとの付き合いは2001年の9ヶ月程度だが、こちらもぼくにとっては実が濃い。
 太平洋戦争勃発で大学を繰り上げ卒業・即兵役となった、いまは80歳を超える母校の先輩たちだ。彼らは、多くの同期を失いながら雄々しく生きてきた道程を文集につづってきている。
 その文集群を、卒業60周年を記念して、ホームページにまとめようとされていた。各文集の内容を拾い読みしただけで感動が込み上げ、ぼくは協力を申し出る。後輩の支援も得て、ほぼ全てを電子データ化し、インターネットで閲覧できるようにした。昼夜兼行の価値があった。
 12月12日の完成披露は達成感を伴うものだった。それが機縁で同クラブの重鎮である中村達夫先輩に親しくしていただくことになる。ホームページ制作の作業にはじまって、先輩がお亡くなりになるまでの数年間が、ぼくの60代を誇らしくしてくれた。

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 ここ10年ばかり、毎年2度海外旅行に出かけていた。
 今年は夏が過ぎてもその気にならない。といっていてはますます億劫になるし、珍しく妻のリクエストもあり、11月に決行することにした。
 トラピックス社のツアーで、「オランダ・ベルギー8日間」を申し込んでいたが、心変わりして、「バルト三国とポーランド12日間」に変更してもらった。オランダ・ベルギーは来年以降でもその気になるだろう。
 ぼく流の旅の楽しみ方は、旅そのものと、帰ってから紀行文をものすることだ。紀行文にはいつも旅の期間の数倍を費やして没頭している。今回も1ヶ月以上はかかりっきりになるだろう。書き終わってみれば大晦日ということになるかもしれない。うまいお屠蘇を楽しみにしよう。と思っていた矢先にハプニング。

 新浦安駅隣のマーレ2階に市の国際センターがあり、そこで英会話を習っていることは先に述べた。
 係のTさんに立ち話で今度の旅に触れたら、「バルト三国!」とお顔がほころんだ。「お帰りになったら、報告会を頼みます!」
 それが11月14日に帰って19日に報告会、ということになってしまった。(あわ)ただしいし、大勢を前にしてスピーチする柄でもないし、ノミの心臓……。が、ずっこけて元もと、チャンス、チャレンジ、ともいえる。
 「ぼくでいいのですか」と、身の程をわきまえず二つ返事で引き受けた。おかげで今度ばかりはもう一つの目的とそれなりの緊張を伴った旅になる。

 Tさんがパワーポイントを駆使して作ってくれた宣伝ビラは優れ物で気が引ける。これはぼくの記念として。

 とばっちりで先送りせざるを得ないのが上のエッセイだ。「サラリーマン@大同」は正月の仕事とし、あとの二つはいずれ近いうちにということにする。

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 Part1で父について触れた。父母の写真をここに残しておく。
朗読(11:27) on
Part 1
Part 2
Part 3
<雑記帳第64話
「日本最果て岬巡り」
雑記帳第66話
「バルト三国&ポーランド」>
再朗読(2023.07.16)
雑記帳第65話
「2011年秋、今日この頃」
part1 part2 part3 total
15:20 14:44 10:52 40:56
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