週一度通っているテニススクールが、昨年4月にゴルフレッスン場を新設、習うことにした。西尾コーチの指導で毎週金曜日9時15分から1時間半のコースだ。フットサル競技場に隣接した小さなスペースで。打ちっ放しにはほど遠い鳥カゴ環境だが、ぼくは気にならない。
メンバーは5人。各自好き勝手な出で立ちで、ぼくはポロシャツ・トレパンにテニス・シューズだ。
15分間のストレッチ準備体操ではじめる。これがぼくにとって朝の恵みだ。体が適度にもみほぐされて、すかっとした気分になる。
続いてレッスンに入り、前半はサンドウェッジとアプローチウェッジでショートアプローチの練習。標的が三つあり、それぞれの的に向かって構える。10ヤードと20ヤードは直接ねらい、小さなグリーンをかたどった中の30ヤード標識はランで寄せる。コーチはデジカメを携えて、指導する。
後半は各自好きなアイアンで、40ヤードほど先のマットに打ち付ける。飛距離の見当はおおよそつくが、それよりもフォームが重要なのだ。究極的には人間工学にあっているか。つまり余計な筋肉を使い、無駄なスイングで、体にアンバランスな負担をかけていないか。再現性があり、矯正のきくフォームか。
ぼくの場合、8番と5番アイアンがいつものクラブだ。ときどきドライバーを試してみる。こちらはビデオカメラの固定撮影装置付で、フォームの是非を録画で確認しながらコーチの指導を受ける。西尾コーチは大学時代から青木功氏の弟子で、師弟関係はずっと続いており、最近も師匠のお供で出かけた。 |
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いまのクラブ一式はいつ頃新調したのだったか? 脳梗塞で倒れる前、つまり30年ほど前になるか?
レッスン場で仲間とコーチのドライバーを見て今さらながら驚愕した。フェースが3倍は大きいし、ぼくのがメタルヘッドに対して、どんな素材なのだろうか。重さはぼくのより軽いらしく、飛距離は保証、スライス・フックの心配はない=c…という。
コーチのを借りて何発も打ってみた。何と打ちづらいことか。餅つきの杵か先っぽに大蕪のような重りをくくりつけたような棒を振り回している感じ。シャフトも数センチは長いし、とてもなじめない。ぼくにはやはり自分のメタルヘッドが一番だ。
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よく見るとアイアンヘッドもどこか違う。フェースの形や大きさもさることながら、こちらも素材・製法! ロストワックス≠ヘ、製品のみならず、名前自体がいまや死語のようだ。
ぼくのアイアンはTaylor Madeのロストワックス(Lost Wax)製で、当時勤務していた大同特殊鋼の技術提携先である米国ニューハンプシャー州のヒッチナー社(Hitchiner
Manufacturing Co.)が作ったものだ。30年ほど前は、日本でもアイアンはロストワックス(ステンレス精密鋳造品)が主流で、大同特殊鋼のロストワックス製をマルマン社がなんとかというブランド名で販売していた。パターの名前は覚えている。「アーノルド・パーマー」。
ことゴルフクラブにかけては製品に一家言もつどの仲間も友人も、ロストワックスという言葉自体を知らない。コーチも怪しい。30年の間に、素材も製法も飛躍的進化を遂げたようだ。が、ぼくにとってアイアンヘッドは、やはりロストワックスを措いてない。
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ウェッジの呼び名も微妙に違う。例えば、彼らは単にアプローチウェッジでなく、その次に「??%」とか何とか、ロフトの角度で言いあっている。
3番アイアンがないのには唖然とした。 |
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レッスンに話を戻す。
コースを回りながら自慢顔した頃の実力に近づこうと訓練するわけではなく(これは所詮ムリ)、目的は古希(70歳)を迎える体の健康維持だった。週一のテニススクールだけではおぼつかないし、ゴルフ・スイングは昔取った杵柄だ。錆びの浮いたクラブをタワシでみがき、手袋を新調するだけでこと足りる。と思ったらクラブのグリップがツルツルで、1本1,400円の余分な出費を要したが。
それなりに上達もし、結構楽しく過ぎた。西尾コーチとつかの間語らうのも余得だった。ショートコースに二度、本格コースにも一度出た。成績は言わない。
実技レッスンのコースでも今浦島を認識させられたのがゴルフシューズだ。
いつの頃のか、幸いゴルフコース専用のスパイクシューズが下駄箱の奥に見つかった。なんとかまだ履けそうだと自身に言い聞かせて持参する。
履き替え、スパイクの音を鳴らしてラウンジに入ると、係の方が慌てた様子で近づいて来、「お客様、スパイクシューズはダメなのです」。
まさか! 頭が白くなった。結局、予備のシュ−ズをお借りすることにした。 |
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それが、この4月にレッスン通いをやめることにした。今度こそゴルフよサヨナラということになる。
理由は他でもない。費用対効果を考えてのことで、いわば6月から始めることになるスポーツプラザ入会のとばっちりだ。西尾コーチの悲しい表情を忘れない。ぎこちなく別れた。 |
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ゴルフはぼくのサラリーマン人生の大半をともにした相棒である。45歳の春脳梗塞で倒れるまで、健全な身体の土台になり、仕事の手助けもしてくれた。30代、メンバーの新千葉カントリーに月2〜3回通い、80以下のスコアで回るときもあったハンデ13の頃。そんなときもあったのだ。
その後左半身にそれこそハンデを抱えた結果、疎遠にならざるを得なかったが、還暦を機にビジネス社会を引退するまで、ほどほどに営業・友好の下支えとして付き合ってくれた。
還暦の年、会社経営をヤナさんに譲るとともに、ゴルフも未練なく終止符を打った。以来このスポーツはすっかり別世界で、テレビ番組など見向きもしなかった。
それが思い出したように1年前、スイングの練習だけだが再開し、そしていま、このようにあっけなく最後の別れとなった。 |