旅の二日目、8月26日(月)。
最上川でライン下りのあと、バスを1時間ほど走らせて、山形市『立石寺(通称、山寺)』の門前街に着く。14時。天台宗の寺院で、詳しくは宝珠山阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)と称する。
真夏の炎天下、山門をくぐると、蝉時雨がひときわ高鳴った。
すぐ左に旅姿の芭蕉と曾良の石像があり、挟まれて有名な句碑。
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
「おくのほそ道」によると、そのときの芭蕉は尾花沢の俳諧仲間(鈴木清風)宅に逗留し、長旅の疲れを癒していた。いよいよ最上川下りへの出発を前にして、清風らは、そこからそう遠くない山寺参拝を強く勧めた。
伊達藩領内の平泉までは"お役目の仕事"もあり、気ままな旅もできなかったが、いまは自由の身だ。「折角だから勧めに応じよう」。山寺≠ヘこのように実現した。
翻っていま、ぼくたちの旅だ。
今日こそ快晴に感謝したい。芭蕉のときもこんな天気だったのだろう。句からそう想像した。
1103段の石段を上りながら眺める、いくつかのお堂と向こうの岩かべ。われ知らず敬虔になる。立ち止まって振り向くと、後ろは樹間を通してのどかな景色が広がっている。近くの山々は濃緑、遠くは山並みのくすんだ青。眼下は盆地で、集落の屋根瓦が色彩豊かである。
山あいで冷やされた空気がそよ風に運ばれてくる。にじんだ汗を拭っては去っていく。
踊り場ごとに小休憩とし、幾枚も写真を撮る。景色にばかりうっとりしていられない。騒がしい蝉の声に同調するかのように、小鳥たちのソプラノがこだまし、耳も刺激される。ビバルディの「四季」のメロディが似合いそうなすがすがしさが五感に伝わってくる。
石段が終わって真ん前に重厚な社(やしろ)が現れた。まさかこれが奥の院?
次の石段はどこかと迷っていると、若い僧が近づいて、
「そうです。奥の院、ここが一番上ですよ」
拍子抜けした。1103段を上り終えていたのだ。
年配者には少しきつめかなと思いつつも、何年か前、丹沢大山に登ったときのことを思い出した。あのときは山仲間10人ほどと一緒だったが、大変な経験をした。
今回とは対照的に、早々と途中の阿夫利(あぶり)神社下社(しもしゃ)までの石段でへばった。そのあと頂上まで、さらに延々と続く石段…………
膝を痛めて1ヶ月ほど接骨院通いというおまけまでついた。
いまの山寺(立石寺)は、300年前(江戸元禄時代)の芭蕉の頃と、どこがどう違っているのだろう。
* 石段はコンクリートの修理が施され、
* せせり出た岩壁には網が張られたり、
* その他危険防止策が施されて、
* 信者・観光客が安全に気楽に上れる
ようにしてある。
* あのころの門前街は? いまは大きな
みやげ物屋が軒を連ねているが……。
* 参拝者の宗教心はいまよりも盛んだった
に違いない。
* 当然だが、あのとき芭蕉の句碑はなかった。
「おくのほそ道」全体をとおして、"立石寺"参拝のくだりは、時をいまに置き換えても、内容に大した違和感がない。
芭蕉の名文をそのまま転載するのも味のない話だから、ここはぼくの現代語訳に置き換える。誤訳あれば許されたい。
元禄二年(1689年)夏、満四六歳
山形藩の領内に立石(りっしゃく)寺という山寺がある。貞観二年(860年)に慈覚大師という高僧が開いた寺で、とりわけ清(すが)々しく閑(しず)かな所にあるらしい。
「いいところですよ。ぜひ!」と、清風殿宅での歌仙の集いに参加した仲間全員に勧められ、尾花沢から南へ回り道することにした。片道七里(28km)の道中である。
結構早く着いた。まだ日は暮れていないので、麓(ふもと)の宿坊に今晩の予約を確かめて、山上の奥の院まで上った。
ここは岩盤に岩盤が積み重なりあって山となっており、年を経た松や杉・桧(ひのき)が生い茂り、坂の土石も古くて苔むしている。上るにつれ左右の岩端(いわはな)に見るお堂は、どれもみな扉を閉ざして物音ひとつ聞えてこない。
崖っぷちを危(あぶ)な危な伝ったり、岩肌を這うようによじ上って、やっと奥の院に辿り着き、参拝した。
まわりはひっそりと静まりかえっていて、ただただ心が澄みとおっていく思いがした。
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
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さてぼくだが、1時間半の山寺参拝は短かった。4時までに宿に戻らねばならなかったのだ。
下りは下りで、少し石段を下りては足を止めたくなる。上りに見落としたお堂もいくつかある。お堂それぞれが岩端に鎮座してあるから、そこからの景色がまたいいのだ。
待機のバスには時間どおりに戻ったが、後ろ髪が引かれた。またの機会なんてないかもしれないから。
奥の院までの石段を経験したあと、「おくのほそ道」のそのところをもう一度読み返してみた。状景描写は感嘆の一語に尽きるが、尾花沢からここまでの距離といい、到着までの旅のスピードといい、なんとなくしっくりこない。《ここでも虚構が……!》
一晩宿で考え込み、東京への帰り道、バスの中で、「もしぼくが芭蕉だったら」、ということで手帳に書きなぐってみた。ぼくなりの洒落で、たわいないが、一応ホームページに残すことにする。芭蕉ならぬ、「ぼくのほそ道、山寺の巻」ということで。
時は元禄2年(1689年)夏。齢46になって1ヶ月経つ。
平泉までの道中で幕府のお役目は終わり、肩の荷が下りた。あとは山形、秋田、新潟と日本海側を歩いて、金沢、福井まで足を伸ばそうと思っている。どの地も俳諧仲間を訪ねながらだ。
一日一日が楽しい、いい旅になるだろう。
山形藩尾花沢の鈴木清風殿宅に逗留して11日になる。今日は7月12日(旧暦5月26日)だ。
明日はいよいよ"最上川下り"に向かおうと思っていたところ、
「折角ですから、ぜひ立石寺へ立ち寄ってください」
地の俳諧仲間がそろって熱心に勧めてくれる。
「こちらでは山寺といいまして、それこそお国自慢です」
「石段がちゃんとしてますから、休み休みなら大したことありませんよ」
「多少えらくても、その分御利益は倍返しです」
「そうですか」と相づちすると、かさにかかって、
「ここから七里、つまり28キロほどです。お参りしたあと、宿坊で温泉に浸かって、精進料理もおつですよ」
「一日延びるだけですから」
「きっといい句が出来ますよ!」
曾良はすでにその気になっており、わたしもうれしくなった。
「お言葉に甘えることにしましょうか!」
ということで予定を変更して、翌朝南へ七里往復することにした。
清風さんと尾花沢の俳諧仲間3人がわたしと曾良に付き添ってくれることになり、朝早めに出発した。好天に恵まれ清々しい。
馬上の旅とはいえ、28キロもの道のりだ。しばらくすると陽射しもきつくなり、山門に着いたときは、まだ3時前だがかなり疲れた。衣も汗で濡れている。
「早飛脚で知らせましたので、宿坊の準備はもう整っているはずです」
「今日はお湯に入って、おくつろぎになっては」
「『雨呼山』という地酒がいいんです。一献傾けながらお話を伺いたいですね」
「山寺のことも、宿坊で前もって聞いておかれたほうがいいのでは」
曾良もわたしの健康を気づかって、
「みんながそう言ってくれることですから、一晩お世話になりましょう」
内心ほっとして、従うことにした。
(翌朝)
今日も白雲なびく、いい天気だ。
昨夜の地酒は腹にしみたなあ。芋煮も蕎麦(そば)もよかったし、山菜は酒にあった。おかげで熟睡できた。
朝も蕎麦がうまい。
軽い衣に宿坊の杖。昼のおにぎりは曾良が持ってくれる。用意が整った。暑い一日になるだろう。
蝉のかまびすしい鳴き声がもうはじまっている。
短い命を精一杯謳歌しているのか、生を惜しんでいるのか。どこへ行っても、真夏の暑さに蝉の声はあう。
山門からは上の山寺は見えない。石段は急だし、辿り着くまで難儀だろう。千段以上もあるというから、なおさらだ。
尾花沢の4人の間にわたしと曾良が入って出発。真新しい草鞋(わらじ)で石段を踏みしめる。
急な石段は幅も狭く、苔生(む)していて、草鞋とはいえ滑る危険もある。
松や杉の緑が周囲を覆って鬱蒼(うっそう)たる雰囲気だ。ところどころ岩肌が露出して絶壁になっている。裸の岩肌を見やり見やりすると、岩かべをよじ登っているような気持ちになる。
早くも額の汗が目に入るほどになった。手甲(てっこう)で拭(ぬぐ)いながら上る。仲間は気を利かせて、10分おきくらいに立ち止まってくれる。ありがたい。上ることだけにわれを奪われなくてすむ。
…………
立石寺を勧められたとき、いい句を予感した。「山寺や……」、悪くないなあ。昨夜は宿坊の僧に貴重な話も教わったし、床の中でしばらく句を練った。いつものことだが、翌日を前にして半ばいい句が出来た思いであった。上五は「山寺や」。うん、思わずほくそえんだ。
中七と下五だが、「蝉」は欠かせないな。
蝉時雨が一段と冴え渡る。「ミーン、ミン、ミーンミー〜ン……」。石段に突き刺さるように響く。耳が痛いほどだが、暑い陽射しをよそに、緑と木洩れ日に同化して心地よい。
やはり蝉だ! 蝉がなくてはならない!
そそり立つ絶壁の赤茶けた岩肌。忙(せわ)しない蝉の声。そう、蝉の声が足元の石段に沁みついているのだ!
「みなさん、少し休んでくれませんかね。一句できましたよ!」
山寺や石にしみつく蝉の声
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芭蕉と曽良は、立石寺参拝を終えて、最上川下りに向かう。
そのあと、出羽三山を経て酒田で日本海側に着き、象潟から越後路を西へ西へ。金沢、小松、山中温泉、永平寺、福井に立ち寄り、敦賀で南へ折れ、大垣でこの紀行文を完結している。伊勢詣りをこのように暗示しながら。
。……旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて、 |
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蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行秋ぞ |
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確かに芭蕉は伊勢神宮参詣を果たした。ただし数日遅れたため、「内宮は事納まりて、外宮の遷宮拝み侍りて」と、全ての遷宮拝観とはならなかったようだ。
お伊勢さんを終えて、故郷の伊賀上野へ足を向けている。途中山道でこんな句を詠んだ。「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」。 |
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「おくのほそ道」紀行文をどこで書き上げたか。また、各地で詠んだ俳句の数々をどこで推敲し、取捨選択したか。
ぼくは伊賀上野の草庵だと思っている。半年に及ぶ旅の疲れを癒しながら、ここでじっくり作業に専念したに違いない。 |
句の推敲例を2つあげる。 |
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あなたふと木の下闇も
日の光 |
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あらたうと木の下闇も
日の光 |
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あなたふと青葉若葉の
日の光 |
↓ |
あらたうと青葉若葉の
日の光 |
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有難や雪をかほらす
風の音 |
↓ |
有難や雪をめぐらす
風の音 |
↓ |
有難や雪をめくらす
南谷 |
↓ |
有難や雪をかほらす
南谷 |
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そんな憶測で、「ぼくのほそ道、山寺の巻」後半へ進む。 |
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(伊賀上野の生家草庵で句の推敲に余念がない。ほぼこれでよしとしたが、最上川の前に立ち寄った山寺で詠んだ句が非常に引っかかっている。)
その山形藩の立石寺は尾花沢の仲間が強く勧めてくれたので、一日延ばして出かけたのだったが、よかった!
宿坊はこざっぱりしていたし、僧の話も楽しかった。地酒と山菜がなによりだった。温泉もくつろげた。疲れがすっかり取れて、夜は眠りこけたのだったなあ。
(奥の院への長い石段での状景はいまも強く心に残っているから、「山寺や石にしみつく蝉の声」ではどうしてもしっくりこない。)
う〜ん、石に「沁みつく」かなあ。石段に蝉の糞尿が滲(にじ)んだようで、きれいじゃないなあ。それはいいのだが、下品な気もする。もっとひねれないか……。「石段」は「岩かべ」に置き換えよう。
そして……、そうだ。沁み≠岩かべの中に入れてしまえばいいのだ。沁み込ませよう!
山寺や岩にしみ込む蝉の声
(まだズシンとこない。翌朝も考え込んでいる。なんとかならないか。)
う〜ん、「沁み込む」は無理やり押し込むようで、「ミーンミーン」がじわ〜っと岩に浸透していく感じではないなあ。岩も嫌がっているかもしれないし。そんなときのいい言葉は。のどから出かかっているのだが……、う〜ん。
そうだ! 「沁み入る」。そうなのだ。うん、やっといい句になった!
山寺や岩にしみ入る蝉の声
(これで「おくのほそ道」草稿が出来上がった。そこで)、
出来映えのいい紀行文になった。「おくのほそ道」と名付けよう。そう、中で満足の5句をあげるとすれば、こんなところだろうか。
夏草や兵どもが夢の跡 (平泉) |
五月雨を降りのこしてや光堂 (平泉) |
荒海や佐渡によこたふ天河 (越後路) |
むざんやな甲の下のきりぎりす (小松) |
そしてこの句、 |
山寺や岩にしみ入る蝉の声 (立石寺) |
うん! 「岩にしみ入る蝉の声」。われながら惚れぼれする。
余命を惜しむか、短い生を謳歌するか、「ミーン、ミーン」。熱暑をもろに受けてそそり立つ岩肌に、蝉の声が浸透していく。暑苦しい中でどこかのどかな感じが出た。
待てよ。う〜ん、上五はこれでいいのか。後の七・五に比べて弱い……というか、なんというか。「岩」と「蝉」に、「山寺」ではなあ?
目にしたものよりも、状景のほうが……。真夏の岩肌も命かぎりの蝉時雨をも突き放すというか、まるで関わりないというような。それをひとことで言うと…………
なんと言えばいいか。どこか閑散とした、そこはかとなく閑散とした……。閑散!
そうだ、「閑かさや」、「閑かさや」だ!
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
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