Part1
あらすじ
Part2
最上川
Part3
山寺
 …………
 最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。碁点・隼と云ふおそろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果は酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙ゝに落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。水みなぎって舟あやうし。

五月雨をあつめて早し最上川

 中里介山の「大菩薩峠」、その冒頭文を思い出した。
 『大菩薩峠は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
 標高六千四百尺、昔、貴き聖が、この嶺の頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた。それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、……(後略)』

 「大菩薩峠」は「おくのほそ道」の200年以上も後の作品だ。
 かなり類似点があるような気がして、「中里介山は『おくのほそ道』を参考にしたのでは?」、と思ったのだが………… 


 二日目の8月26日11時、最上川"白糸の滝乗船場"に着く。24度、微風、最上=iさいじょう)の快晴。
 50人乗りの「義経号」に乗る。簾(すだれ)の屋根付で吹きっさらし、茣蓙(ござ)敷。はっぴ・船頭姿のガイド嬢は、豆絞りの鉢巻も凛々しい。

 川沿いを走るバスの窓から《あつめて早しとは?》、とゆるやかな流れを見やったのだが、舟から見下ろすとかなりきつい。芭蕉の句はちょうどいまの7月中旬といわれるから、梅雨の終わり頃ということになる。水かさを考えて納得した。
 30分ほど上流に向かってディーゼルの舟はゆるやかに走り、社(やしろ=仙人堂)近くの桟橋に横付けする。ここで蕎麦(そば)といも煮を積み込んで、そのまま流れをさかのぼりながら昼食。
 いも煮がよかった。いつもならお代わりするぼくを睨みつける妻がそうしたほどだ。
 しばらくのぼって、Uターン。舟のゆるやかな回転に川面は波紋を描き、そよ風が頬を撫でる。
「どうですか!」
 ガイドの声に応えて、
「気持いい〜い!」
 流れに向かって大きく叫んでみた。

 さっきの仙人堂のところで舟を降りて休憩する。そう、あの仙人堂だ!
『……、仙人堂岸に臨みて立つ』 (仙人堂が川岸のそばに建っている)
 古めかしさがわざとらしくない。木陰が涼しい。お堂自体も、《これでいいのか?》と心配になるくらい、寂びれるにまかせてあった。

仙人堂

 ガイド嬢が民謡を3曲唄ってくれた。行きに真室川音頭、帰りがけに最上川舟歌、お別れに花笠音頭。山形訛りがなんとも云えず魅力的だった。 

白糸の瀧 義経号 鮎釣り
 

 
 ぼくの最上川下りはこれで終わり。芭蕉と「おくのほそ道」について、気づいたことと諸賢の話を書き留めておく。 

芭蕉は忍者?

 芭蕉の生きた300年前にパソコンがあったら……、変な連想をした。
 翁はわれ関せずだっただろうか。少なくとも保存やメモ代わりに利用したのではなかろうか。
 データベース機能についてはどうか。一覧、検索、切り貼り、並べ替え……、自由自在だが。インターネットも使い道があるし。
 と、勝手な、レベルの低い勘ぐりはこれくらいにしておく。
 「五月雨をあつめて早し最上川」にしても、どれだけ推敲を重ねた末この句に至ったか。体験をベースにして、あとは五・七・五それぞれの語句を入れ替え入れ替え……。納得いくまで繰り返す。いつしか原形はどこへやら。そう想像できるのもある。
 これが芭蕉の俳諧であり、実体、つまり五感で捉えた事物は"材料"にすぎない。村松友次氏が『おくのほそ道の想像力』(笠間書院)で言うように、

 「文学に虚構は付きものである。いや虚構こそ、そこに文学があり、詩がある。虚構は作者の想像力によって産み出される。文学を文学として読む時、"実は"というような注釈は不要なのだ。……」

 《虚構(フィクション)かもしれない》を前提に「おくのほそ道」を読み直すと、ぼくとしてはますます面白くなる。芭蕉の正体が余計にわからなくなる。
 芭蕉は陸奥(みちのく)の旅に題材を得て、自由気ままに「頭の旅」を楽しんだのだ。日付、場所、登場人物、天気、その他で、事実を云々するのは野暮なのだろう。まして同行曾良の「旅日記」をもって、生真面目に「おくのほそ道」の細かな事実検証の具とするなど、どうなのだろうか。「曾良旅日記」にしてからが、すべて事実描写とは言いがたいというのだから。

 山折哲雄氏(国際日本文化研究センター所長)はこう語っている。

 「……どうしてかれ(芭蕉)は平泉からさらに北方をめざさなかったのか。村松友次氏の『謎の旅人、曾良』を読み、おそまきながら芭蕉=隠密説のあることを知り、なるほどと思った。どうやらかれ(曾良)は幕府から頼まれ、伊達藩の内情をさぐる用務を帯びていたというのである。だから正確にいうと、曾良=隠密説というべきなのであるが、むろん芭蕉はそのことを承知していた。
 芭蕉と曾良は伊達藩の北限地である平泉の金色堂を訪れたあと、さらに北方の花巻や盛岡をめざして南部藩領に足を踏み入れる必要はなかったわけだ。」
 (日本経済新聞 2002.08.04)

 俵万智・立松和平共著『新・おくのほそ道』(河出書房新社)で、立松氏の見解はこうだ。

 「……人生50年の短命の時代、46歳はやはり老人であった。芭蕉は51歳で大坂で死んでいるから、人生の残りはあと5年しかない。とするなら46歳は老年であり、芭蕉は晩年の自覚のもとに奥州への未知の旅をしたということだ。おくのほそ道における芭蕉の晩年の自覚を、私たちは見逃してはならない。芭蕉は自分自身の死を見詰め、残された時間を妥協なく生きようとしたのであった」

 W・C・フラナガン著・小林信彦訳『ちはやふる奥の細道(Road To The Deep North)』(新潮社)では、芭蕉は忍者だった!
 同書によると、

 「忍者の里伊賀上野(三重県)に忍者の子として生まれ育った芭蕉は当然忍者として生きた。父(与左衛門)は藤堂家に仕える忍者で、母は、百地三太夫が先祖の、百地(または桃地、百司)家の娘とある。
 その忍者芭蕉が、おくのほそ道で幕府と死闘を演じるのである。」

 「とぼけた話」と、一笑に付されるかもしれないが、高級パロディと受け止めている。著者W・C・フラナガンは小林信彦氏その人……。

 嵐山光三郎氏は『芭蕉の誘惑』(JTB)で、「芭蕉の旅は秘密だらけだ」として、こう続ける。

 「……私にとって芭蕉は、神聖にして崇高なる詩人であるが、「マテヨ」と思うときもある。芭蕉は手に負えない魔法使いであって、旅のあいだ、かなり好き放題をやっていた。『奥の細道』は二重三重に仕掛けられた文芸の罠があり、それを実地検証すると驚きの連続で、「ハッ」と声をあげることもたびたびであった。芭蕉は、人も句も蜃気楼のようで、近づいてつかまえたと思った瞬間に手から抜け出して、遥か奥に屹立している。」

 芭蕉=忍者?、隠密?、魔法使い? 曾良=隠密?
 事実考証は専門家に委ねるとして、「諧謔・洒落」vs「いわゆる俳諧"道"」。あい矛盾する二物を融和させたのが芭蕉の俳諧というのだろうか。学究的に構えないほうが、はるかに「おくのほそ道」が面白くなるようだ。
 裏になにかブラックユーモアがある。独特の駄洒落や落ちが潜(ひそ)んでいる。そんな風に読んだほうが、もっと芭蕉の真意に近づけるのではなかろうか。えらそうなご託に、芭蕉翁の渋面が見える。というより、鼻にもひかけないか……。

 ついでながら、俵・立松両氏の歌と句を、上記『新・おくのほそ道』から引用させていただく。ぼくもひねろうと試みたが断念した。
 本句はもちろん、"五月雨をあつめて早し最上川"

天の水そして地の水束ねゆき最上川いま恐いものなし
  俵 万智

雪どけを荒海(あらみ)に布施す最上川
  立松和平 

最上川下り

 有名人の言に頼って、いかにも自説を展開したかのように偽ってしまった。次章「山寺」で、化けの皮がさらに剥(は)がれることだろう。

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