第12章 逸話二つ、そして晩年
1.逸話(その1) 小山の畑

 京蔵たち家族の畑は、いまでいう熊野古道高野坂「三輪崎口」からほん近い小山にあった。古道を狭いあぜ道にそれて上ると、15分かそこらで(いただき)の畑に着く。
 新宮のテレジア教会から神父たちが訪れた頃の話。

 小山の傾斜をうまく利用した段々畑だ。
 さつまいも、小麦、かぼちゃ、えんどう豆、地豆、その他もろもろ……、もっぱら自家用に腹の足しになる穀物・野菜を作っていた。
 見下ろすと熊野灘が広がっている。見晴らしのいいところに夏みかんの木があり、時期が来るとたわわに実る。大きくて見栄えはいいが、子供たちには酸っぱくてまずかった。
 川田正子の声で「みかんの花咲く丘」という歌がラジオで流れていた頃だ。

みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える 青い海
 お船がとおく 霞んでる

 畑への山道は一人がやっと通れるほどの狭さだ。その道を、両親は天秤棒で荷を担ぎ、往復した。人糞が主たる肥料で、彼らもこえたご(糞尿を運ぶ桶)を担いでせっせと上った。山際を切り開いて踏みならした坂の小道、子供たち三人も学校から帰ると、そこを上って手伝った。
 危なっかしいからこの狭苦しい急坂ではだれもふざけない。だからどの子も崖へ足を踏み外した覚えはない。えらかった(しんどかった)が、両親の喜ぶ顔が楽しみで上りきり、大仰にほめられると、有頂天になった。
 ただし途中でしょっちゅう蛇が出て来る。襲いはしないが恐かった。とくにしゃがんで用足し中に、近くを這っているのが目に入ったときのおののき。

 冬の麦踏み手伝いはこたえた。吹きっさらしの畑を寒風が(すさ)ぶ。子供たちはしびれた(凍えた)。
 夏、カンカン照りは容赦なし。くまは子供たちにこう繰り返す。
日射病(はくら)にならんように気いつけなあれよ」
 昼の麦飯はすえて(あり)がたかっていることもある。
「おまえら、蟻はのう、ものすごい力持ちやで。そやさかに、おいしのうても滋養になる」
 父の口癖だった。

2.逸話(その2) 兄弟げんか

 二人の神父が訪れた翌年だった。京蔵が日ごろにない父親の姿を見せた。

 その五月(さつき)晴れの日。
 いつものとおり、息子たち二人とも学校が終わると、家にランドセルを放り出して砂浜(はま)へ急ぐ。走れば家から5分程度だ。
「気いつけなあれよう。仲良うせなあかんで」
 母くまの声が遠ざかる。
 同じ年頃の少年たちが、てんでんばらばらな服装、格好で集まってくる。みんな棒っ切れのバットと、様々な恰好のグローブを持って。
 兄弟は、父が作ってくれた(なら)の木のバットと、母が帆の切れっぱしの中に布団の綿をくるんで縫ってくれたグローブを携えている。
 楢は、父が山の中を探し歩いて選んできたものだ。軽くて強くてよく飛ぶ。

 子どもたちは、人数の足りない分、守備位置かけもちだ。ダイヤモンドではなく三角ベースで、内野手はピッチャーとキャッチャーだけ。あとは外野の役目だ……。
 日が暮れてしまうまで夢中になって遊びまくる。家路につく頃は、みんな体中砂だらけだった。
「こんなにまあよう汚したもんや。はよ風呂に入りなあれ」
 砂にまみれた二人を見つめる母の目は怒っていない。
 裸になって、裏庭のドラム缶、いわゆる五右衛門風呂に入る。
 …………

 仲のいい兄弟が喧嘩をした。
 なんでもない意地の張り合いだった。砂浜(はま)から弟はグローブを手に、泣きながら帰った。兄は、バットとグローブを脇に抱えて、ふてくされた顔で後に続く。父に対して《どのように弁解しようか》と、ありったけの知恵を振り絞りながら。
 二人とも砂と泥と汗で汚れていることなど、かまっていない。弟は泣きじゃくりながら兄をなじり、兄は弟の非を声高に訴える。
 父は手を上げなかった。説教もしなかった。
 黙ったまま二人からバットとグローブをサッと取り上げる。二本のバットは(のこぎり)でまっぷたつにし、風呂の薪の中に投げ入れる。かまどは一瞬燃え上がる。
 母の作った二つの帆のグローブは、包丁で惜しげもなく切り裂かれ、これもかまどでボーッと燃え上がった。
 弟はもう泣いてなかった。兄は弁解を忘れていた。二人の顔は引きつったままだった。

 以来、二人とも学校から帰っても、砂浜へ直行しなくなった。行く理由がなくなったのだ。
 息子たちの野球を眺めるのが何よりの楽しみだった父が、二度とバットを作らなかった。母もグローブを縫わなかった。夕食の膳で息子たちの自慢話にあれほど頬をくずしていた両親だったのに。

 その頃、大相撲とともにプロ野球はラジオの黄金番組だった。巨人、阪神、南海、……。別所、川上、大下、青田、スタルヒン、……。
 京太も京二も夢を問われると、「プロ野球の選手!」と答えてはばからなかった。事実、二人とも同じ年ごろでは、かなり秀でており、とくに兄の京太は、学校ではピッチャーもこなし、四番バッター。ひねくれボールで空振り三振をとり、打っては、グラウンド後ろの築山越えのホームランをかっ飛ばしていた。それが、……。

 三遊亭歌笑のこんな落語がラジオで流行っていた。

 ……、貧乏長屋の息子がホームランで近所の家の窓ガラスを壊してしまい、弁償できない両親の平謝りを見て、将来の夢を断念する。

 京蔵の息子たちも別世界の夢を追うことになる。

3.晩年、子供たちの成長

 長男京太、次いで京二の誕生は、京蔵にもくまにも天使の頼子が連れてきてくれた奇跡であり、神の授かりものと信じて疑わなかった。
 京太は色白で、幼児の頃はカンが強く、虚弱を心配した。が、小学校に入るとそんな心配は吹っ飛んだ。
 上級生になると、二年下で健康児の京二とともに勉強に秀で、草野球ではエースで強打者だ。
 野球は砂浜の出来事以来二人とも断念したが、中学では、兄は軟式テニスで郡大会に出るほどになり、弟もスポーツ万能で、こちらはひ弱くない。生徒会長にもなった。

 京蔵は田んぼと漁、くまは食料品店が続いている。
 息子二人が高校に入ると、酒や食料品の配達はもとより、田んぼの手伝いもやらせづらくなった。畑はすでに手放している。
 そのうち田んぼも人手に渡し、店の配達は断ることが多くなった。

 頼子は新宮高校卒業後、大阪の料理専門学校に進む。京太は東京の大学へ、京二も二年後に横浜の大学へ進学した。
 親は子供たちを放ったらかしにしたわけではないが、彼らの勉学には一切タッチしていない。《勉強して世の中の役に立ってほしい》が二人の願いだった。彼らの思うにまかせ、彼らはひとりでに成長していった。

4.晩年、京太の学友に素潜りを見せる

 昭和三十七年(1962)、長男京太が大学二年の夏。
 学友の小森君が夏休みを利用して、東京からはるばる京太の故郷三輪崎を訪れ、魚住家に一週間滞在した。彼、生粋の江戸っ子。体型・身長いずれも京太と同じで中肉中背、朗らか。
 入学半年たった頃、田舎の方言しか話せずに孤独な京太と仲良くなり、それとなく標準語を教え、練馬区の自宅に度々泊まらせ、母の手料理を味わわせた。ふる里の田舎料理のみで育ち、納豆はおろか、麺類はうどんしか味わったことのない京太をホームシックから救ったのは彼だ。

 京太は泳ぎに不自由はないが、それ以上のことを父から教わっていないし、意欲もない。
 小森君を招くにあたって、京太は父に一つお願いした。滞在中の一日を小舟に乗せて、父の素潜りと水中鉄砲の技を(じか)に見せること。父が顔をほころばせて了解したのは言うまでもない。

 素潜り見物に絶好の夏日和。小舟に三人が乗り、父京蔵が櫓をこぐ。もちろん学友が海に投げ出されてもおぼれないように浮き輪は用意してある。
 鈴島横の岩場のところで(いかり)を下ろす。京蔵はすでに越中ふんどしで、容易万端。水中眼鏡をつけ、獲物を入れるぼっつり籠を携え、自前の水中鉄砲を手にして、静かに海に入る。小森君が真剣に見守り、その頃流行(はや)りの箱型カメラのシャッターを押す中、ひと息深呼吸して海中に潜っていく。海は凪いで、青空。猛暑ではないから、小森君も快適のようだ。

 小一時間もすると、小舟の獲物入れは、鯛、伊勢エビ、アワビ、……。夕食のごちそうが盛りだくさん。感激しきりの小森君を見て、京太は誇らしく父に頭を下げる。父は父で、息子の願いをかなえたというよりは、いつもの生きがいにもう一つの喜びを味わっていた。

 夜は母くまが手によりをかける。刺身、焼き物、煮物。こんな贅沢な地料理、どれもこれも小森君には初の食体験といってよい。まずはその豪華料理をカメラに収め、親友の父の方言丸出し説明に耳を傾けながら満足の舌鼓。
 京太はアワビの肝が何よりの好物だ。少し酢味にして、飽きず口に放り込んでいる。父母ともに息子に対する日頃の親切を学友に感謝し、息子の確かな成長を実感したのだった。

 京蔵は、その後もこの素潜りの生きがいを続けるが、数年ならず体に異常を感じはじめる。

5.旅立つ

 体調思わしくない日が続いている。便の出が不規則で悪く、時々血尿・血便を見ている。そんな事お構いなしの性分だが、体は正直だ。田んぼはすでに人手に渡してしまっており、水中鉄砲片手の素潜りもままならない。
 体は日を追って弱り、一日の大半をベッドに横たわらざるを得なくなった。そして昭和四十年(1965)の夏、身動き不自由な状態で、ドバっと血便が出た。救急車で新宮病院に運ばれる。
 夏休みで実家に帰っている次男の京二が姉と兄にその旨連絡した。姉の頼子は西宮の割烹料理店の跡取り息子と結婚して、女将(おかみ)家業修業中。長男京太は鉄鋼会社に就職し、名古屋の工場に勤務している。

 数日にわたる各種検査の結果、病院の診断は、「末期性大腸ガン、即手術を要す」。
 妻のくまと子供たち三人が隣室に待機する中で、手術は数時間に及ぶ。術後、担当医師は彼らにこう告げた。
「残念ながらガンは体中に転移しています。これ以上の手術は無駄です。あと半年生きてくれればいいのですが……」

 自宅二階のベッドで寝たきりの生活が続く。窓の向こう遠くに広がる海原が何よりの(いや)しだ。アラフラ海の若き日々が目の奥に次々と現れる。
 くまの心配りで安気な毎日が幸いしたか、病院医師のご託宣に拘わらず、四年近く生き延びた。
 かかりつけの先生が、「余命数日だと思います。子供さんたちに知らせてください」。
 くまにそうささやいたのが昭和四十四年(1969)の四月下旬だった。その時、頼子は西宮で料理屋の若女将、京太は鉄鋼メーカーの名古屋工場で生産工程管理に励んでおり、京二は大手銀行に入社、名古屋支店で働いていた。三人ともすぐに帰郷。

 くまと子供たちが見守る中、五月はじめ、京蔵は六十八歳の生涯を閉じた。
 偶然とはいえ、長男京太はその二か月後、社命で米国へ留学する。それを生前知らされていた父京蔵は、自らの一生を妻のくまと子供たちによってすべて報われた表情で旅立った。

第12章朗読: 23分14秒


息子兄弟の弟・京二の俳句とスケッチ (2022.11.03)
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