第5章 時化の日
1.漁師の町

 京蔵がその秋三十六才になる昭和十一年(1936)。

 二月に、国では二・二六事件があった。
 陸軍皇道派の青年将校らが約千五百人の兵を率いて起こしたクーデター未遂事件だ。岡田総理はかろうじて難を免れたが、時の内大臣や大蔵大臣らが殺害された。
 オリンピック・ベルリン大会が開催された年でもある。三段跳びの田島、女子平泳ぎの前畑らが金メダルを獲得した。

 熊野灘に面した漁村の和歌山県東牟婁郡三輪崎村は、すでに新宮町と合併して、新宮市三輪崎になっている。隣の佐野・木ノ川とあわせて三輪崎地区と称する集落の人口が四千人程度であることに変わりはない。新宮市街へは、峠越えの国道と紀勢中線(当時)の鉄道で行き来できる。
 海岸に降りて、近くに浮かぶ鈴島、孔島(くしま)という二つの小島をつないだコンクリートの橋(通称:ケーソン)に立ち沖を見ると、そこは熊野灘の一角で、太平洋の大海原が広がっている。

 肝心の漁業はどうだろう。京蔵がいない十数年の間に少し変わっていた。
 近場を回遊する、(かつお)(いわし)秋刀魚(さんま)黄肌鮪(きはだまぐろ)等の漁獲で、小さなポンポン蒸気船(じょうき)さえもてば、そこそこに生計を立てられるほどになっていた。さりとて大概の家庭が半農を営んでいることは前と変わらない。
 獲物は内湾に陸揚げされて、海辺の市場、つまり三輪崎漁業協同組合(漁協)の土間で競り(セリ)にかけられる。

 くまの願いで魚住商店を開業してしばらくした頃。
 漁協はセリの口銭を主たる維持費にしている。そこに厄介な問題が起きた。

2.按唐組

 新宮にも闇の世界があって、ピンハネが彼らのいい財源だった。
 この一円を仕切る按唐組(あんとうぐみ)のチンピラが、市制施行をいいことに三輪崎漁協の市場に目をつけ、四人の無頼風あんちゃんが組合長宅に押しかけた。
「按唐組やけどな。この辺もわしらの縄張りになってるんやだ。あいさつにまだ見えとらんようやね。問題になってるで」
 見下した言い方だ。
「まあそれはそれとしてや。来年のセリからよう、わしらにも分け前出るようにしてほしんやだ。あんたらだけでホクホクできるご時世でもないでえ。これ、わしら四人だけの話やない! 組のえらいさんらも了解したある。これから面倒(めんど)いことはわしらにまかせれるから楽やで。気持ちでええんや。相談してな、返事聞かせてほしんやだ」
 兄貴分らしいのが、覚えてきたようなセリフを一本調子でまくしたてる。あとの三人は家の中をなめるように見回している。組合長は突っ立ったままでなすすべがない。
「今度の会合はこの土曜日なんやろ、そやな?」
 どこで聞いてきたか、上目づかいで念を押す。
「八時に組合へ行くよって、そのとき返事聞かせてもらおか!」

 組合長は青くなって役員に連絡を取った。
 魚住京蔵はアラフラ海から帰った直後に真珠貝採取船『日の本丸』を建造し、船主(ふなぬし)になっている。が以来、日常は自身で漁をしているから、漁協の一員である。
「そろそろ三輪崎のためにもひと働きしてくれんかのし」
 組合長から直々に頭を下げられると断ることもできず、役員に名を連ねている。特別に何かをするわけではないが。

 秋も深まって、温暖な熊野地方でも時雨(しぐれ)て寒い。小降りだが、時化(しけ)模様で、海は荒れてきた。今年は秋刀魚(さんま)漁もまあまあで、値の張るサゴシもまとまって獲れはじめたというのにだ。明日から数日はどの船も漁に出られないだろう。
 夕方から事務所の座敷に八人集まって、車座の会合は重苦しい雰囲気だ。前もって全員に事情を伝えてあるが、組合長はもう一度かいつまんで説明する。どうやらチンピラ四人だけの悪だくみとはいえないとして、
「何らかの回答せなあかんさかいに」
 そう口火を切る。
 全員しかめっ面でうつむいて、口が重い。
「あんたから順に考え聞かせてもらえんかのう」
 名指しされた隣の副組合長がおずおずと発言する。
「かなわんのうし。びた一文やらなあかん理由(わけ)はないけど、こじれたらえらいさかに。警察も肝心なときは当てにならんしのう。裏で通じたあるかもしらせん」
 順送りに、それぞれの役員が畳を見つめたり、あらぬ方向に目をやったりして、当たりさわりのないことをぼそぼそと言う。
面倒(めんど)いことになったのう。いくら要求してくるかわからんし、これからは変ないざこざが起きても、アレらに市場(いちば)を守ってもらうということにして」
「世間ていもようないし、新聞沙汰にでもなったら……」
「仕方ないかのう、しゃくにさわるけどよう」
「…………」
 元気な若手もこの場はさからわない。
「断ったらえらいことになると思います。組合長の言われるとおり、あいつらだけの話やなさそうですから、大概のとこで折り合いつけたほうがえんやないですか? みんな了解してくれるでしょう」
 京蔵はあぐらで腕組みして、正面の欄間(らんま)を見上げている。われ関せずといった顔つきだが、それは彼の癖だ。じっと聞いているし、彼なりの考えがあるようだ。若手はしゃべりながらそれと感じて、
「兄サはどう思いますか? ええ考えないやろか?」
 と水を向ける。京蔵はうなずき、ゆっくりみんなを見回して、ポツリ言う。
「わしはいややで。断ろら〜の」
 茶を一口飲んで、あとは涼しい顔。他の役員は、またはじまったと、しらけた顔になる。
「そんなこと言うてもあかんわ。言いたいのは山々やけどよう、あとが恐ろしわだ。どんな因縁つけられるか分からせんし、市場もできんようになるかもしらへん。そうなってもええんなら、別やけどの」
「京蔵サの言い分もそれはそれでわかるけど、組合としてはそんな紋切り型の答えできやせんで」
「…………」
 口々に同様の非難めいた言葉が出る。そしてしばらく居心地の悪い沈黙がつづく。
 一人がもどかしそうに、
「京蔵サに口火切ってもろて、アレらの出方を見る手もあるかのう。他にこれといった考えも浮かばんし」
 もう一人が、
「あんまり弱気やと、足もと見られるということもあるし……」
 京蔵と組合長に目をやりながら口を濁す。
 組合長が不承不承に決を採るかたちで、口ごもるように、
「そういうことにするかのう。京蔵サ、喧嘩になったら元も子もないさかにの。いきり立たせんように、出方見ながらやで、切り出してくれんかのう。穏便にや、くれぐれもの。あとはわしらでうまいこともっていくさかいによ」
 出席者全員同調する他はないか、うつむき加減に互いの顔を見る。副組合長が代表したかたちで勢いなく言う。
「まあそんなとこかのう。とりあえずそういうことに……。京蔵サ、なんとかうまいことやってくらんせよ」
 アラフラ帰りのかたくな男が、重い口を開いたからには、(ひるがえ)すはずがないことを一同承知している。今回は多数決で退(しりぞ)ける妙案もなく、危なっかしい橋を渡らざるを得ない。
 よそ事のように腕組みしたままで、京蔵の顔は変わらない。目をしばたかせながら、組合長に向かってうなずいた。

2.チンピラが押し掛ける

 夜も更けて八時に四人がやって来た。先日組合長宅に押しかけたと同じやからだ。二十代から三十過ぎの無頼風気取りで、いずれも居丈高である。四人ともずだ袋を手にしているが、中に何が入っているか。
「按唐組や、入るでえ!」
 ドスをきかせた声とともにガラス戸を開ける。一瞬、海の雨風が吹き込んだ。
「この前組合長に頼んだことやけどな。答え聞かせてもらいに来たで!」
 ずんぐりの兄貴分が上目づかいでそう言ってから、
「組長からもよ、よろしくいうことや」
 と付け加える。
 次いで役員の車座をにらみながら、ずかずかと座敷に上がってあぐらする。他の三人は土間ですごんでいる。
 組合長はもじもじして、
「そのことやけど……」
 と抑揚のない声で言いながら、横目で京蔵をうながす。
 ごま塩頭の京蔵は先ほどと変わらず、あぐらで腕組みしたまま、視線を対座するずんぐりの目元にゆっくり向ける。一呼吸間を置いて、地声のしわがれで静かに口を開く。
「おまえら、親を泣かすようなことしたらあかんで」
 思いもよらぬセリフに、やくざも組合側も唖然とする。組合側は後ずさりし、やくざは、弟分三人を背にしたあぐらの兄貴分が色をなす。
「なに! それが答えか。わかったような面さらして、おまえ、どうなるかわかって言いやるんやろな。組合長、それでええんか!」
 がなり声を聞こえなげに、かたくな男はじっと目を相手の目にあわせて言う。若白髪のまじった太めの眉毛はぴくりともしない。
「おまえら、自分のやってること分かってるのか」
 両隣に座っている役員は、あわてて京蔵から離れてさらに後ろにいざる。他の役員も腰を引っ込めて息を呑んでいる。
 間をおかず、土間の一人がわけの分からない声を張り上げながら、そこの花瓶を京蔵めがけて投げつける。花瓶は水しぶきとともに京蔵の頭をかすめて後ろの頑丈な柱に当たり、金属音とともに砕け散る。
 残りの二人が土足で座敷になだれ込み、目のつり上がったほうが京蔵に飛びかかる。ぶん回した右手のずだ袋が空を切ったあと、むしゃぶりつくように京蔵の胸ぐらをわしづかみしようとする。一瞬、そいつは一メートル後ろに吹っ飛んで、うずくまる。
 折れたらしい右腕を抱えながら、
「痛いよう、痛いよう」
 声を絞り出してうなる。
 京蔵はいつの間にか片膝を立てて次に備えている。どす黒い顔つきは普段のままだが、油断のない物腰は見て取れる。役員一同は当面の修羅場から遠ざかっている。いま起こっていることが夢うつつのようだ。
 モヒカン刈りの二人目がなにやら鈍器を握りしめて京蔵の頭をねらう。すばやく体をかわすと、奴は勢いあまって、ひっくり返った湯飲み茶碗に足を取られてけつまずき、目標を失ってしっくいの壁にしたたか頭を打ちつける。
 しかめっ面で鈍器を持ちなおし、向きなおろうとするところへ、京蔵の松かさのげんこつがみぞおちにドスンと入る。モヒカンは目を白くして悶絶した。
 最前花瓶を投げた三人目が(ふところ)から匕首(あいくち)を出して(さや)を払う。刃渡り九寸五分(くすんごぶ)がにぶく光る。すでに目は血走り、手が震えている。
 京蔵は片膝立てのまま、呼吸も荒くなく、今度は血気にはやる若いのと畳で居直っているずんぐりの兄貴分を両にらみして、低く言う。
「おまえら、ほんまにくずやで」
 兄貴分がたまらず若いのを必死の形相で制止して、
「今日は帰ったほうがええ。おやじに話したほうがええ」
 …………
 聞くに耐えない捨てぜりふを虚空に吼えて、四人とも去る。手負いの二人を他の二人がようやっと抱えながら。
 開け放たれたガラス戸を突っ切って潮まじりの雨が吹き込んだ。

4.組長が来る

 按唐組の組長自身が、新宮から手下三人を伴って魚住京蔵宅を訪れたのは翌日午後だった。当時では珍しい黒塗りの乗用車で乗りつけた。
 組長は、五十がらみの、筋骨たくましい中肉中背で、色は浅黒い。黒の上下に蝶ネクタイをしている。頭は大工刈りで、口もとにチョビ髭がある。左目じりから耳の下にかけて三センチほどの切り傷が闇≠象徴している。うすら笑いはいつもの顔か。
 昨夜来の時化(しけ)が勢いを増して、閉じた魚住商店のガラス戸をたたき続けている。店主の京蔵は紺の前掛け姿で店に出て、くまの差配で陳列棚を整理していた。普段の素足下駄ばきだ。
「入るよ」
 組長は手下にガラス戸をこじ開けさせながら言ったあと、入るとすぐ、ごま塩頭の店主が目の前にいるのに気づく。くまは夫の無言の指図で店の奥へ退(しりぞ)く。
「あんたかの、わしとこの若いのをかわいがってくれたのは」
 ドスのきいた低音だが、取り立ててすごんでもない。見定めるような目つきだ。左手は黒い数珠をもてあそんでいる。
 店主は無表情に鼻でうなずく。
 手下の一人が組長の了解を求める格好で、
「こちらが按唐組長や。本当はわしらだけで来るところやが、組長があんたを自分の目で見たいと言うてのお出ましや」
 もったいつけた言い方をする。せっかくのセリフは店主の耳を素通りしている。
 その間に組長は店内を見渡し、奥で心配そうにしているくまを遠目で見やる。うすら笑いの地顔がニタッと崩れて、
「奥さんやろ。あんたあんまりええ格好したら、ためにならんで」
 地底から聞こえるような渋い声ですごむ組長に、二メートルの間合いで店主はじっと相手を見据えている。構えた様子ではなく涼しい目だ。前掛け下駄ばきはいかにも無防備だが、いたしかたなし。両手はぶらりとしたままだ。
 三人の手下は狭い店内で分かれて、油断なく店主をにらみつけている。場合によっては、刃物あるいは危険なおもちゃがふところから飛び出すかもしれない。
 組長は低音でさらにすごむ。
「夕べのツケは安ないで。わしも組をしょってるわけや。すんなり帰れんのは分かるやろ!」
「…………」
 ごま塩頭の相手はただ聞いている。
「腕の一本やそこらじゃすまんわのう!」
 手下を見回しながら言う。
 店主は変わらず組長を見据えたままだ。組長もそう言ったあとはじっと向かいあって目を離さない。手下らは目をギョロつかせたまま、じれた格好で組長の次の指図を待っている。
 魚住商店の前は、真向かいの軒下で客とおぼしき数人が入ることもできず、横なぐりの雨に傘をすぼめて、薄暗い店内をガラス戸越しにのぞいている。横づけの乗用車が異様な状況をうかがわせる。
 どれだけたったか。
 組長は目をわずか横にそらして、奥で顔をのぞかせているくまをチラッと見やる。表情がゆるんで、手はやおら(かたわ)らのタバコの陳列に伸びる。無造作に十本入りの「光」を取り出して、一本吸おうとする。もったいぶった格好で、金色のしゃれたライターをこする。
 やっと店主が口を開いた。
「先に金払わんとあかんで」
 しゃがれた地声は普段のままだが、不動の意思を隠さない。
 組長は不意を突かれたように、ライターの火を消してにやっとする。うすら笑いの地顔が半分苦笑いに変化する。身構えた手下の一人に(あご)をしゃくって、
「払うてやれ」
 そう言いながら、再びライターをこすってタバコに火をつけ、吸った息を天井に向けてフーッと吐く。もう一度深く吸って、ゆっくり煙を天井へくゆらせる。しばらく紫煙を楽しむそぶりのあと、
「ええ度胸やな。今日はまああいさつや」
 と、奥にチラリと目をやってから、
「また来るで!」
 時化を突いて、黒塗りの乗用車は去った。

 翌日午後使いが来た。黒ずくめだが抑えた(なり)で、よそ行きの言葉が出る。
「おやじが兄弟の盃を交わしたい、ゆうとります。めったにないことですから、受けられたほうがええと思うんですが」
 京蔵はすげなく断って追い返す。
 数日して警察から呼び出しがあり、京蔵は傷害罪で留置された。
 二日たって、願い下げがあったとかで、要領を得ないまま釈放となる。
 家に帰ると、組長から「御祝」が届いていた。京蔵は即座につき返した。

 按唐組と三輪崎漁協とのいざこざは、あの晩の出来事だけで沙汰止みとなった。
 京蔵がなんらくまに話すはずはなく、くまも組長が来たときの様子でそれなりに察し、人づてで断片を耳にはしたが、
「おまはま、無理せんように」、と夫にそっともらしただけだった。

 京蔵がアラフラ海で、仕事の合間に余技で習った少林寺(空手)に秀で、敵がいなかったことは、かの地で知られている。荒くれや、海賊の横行に備えて、護身用に沖縄の水手(かこ)から習ったという。
 あの晩は、巧んで及んだわけではなく、とっさの動きではあったが、腕はまだたしかだった。

第5章朗読: 28分30秒
第4章 新婚生活 第6章 紀元二千六百年
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