Part1 Part2
 
Part 2 再々会を期す
 2週間前、当社Y社長に彼≠ニの再会の日取りを聞かされてから、念願かなったうれしさと言いしれぬ不安が重なって、落ち着かない日が過ぎた。
「感謝をどう伝えればいいか?」
「当社の経緯やぼくの今=Aどこまで説明しようか?」
「彼の健康状態は? 病は完全に癒えたのか?」
 (1年と少し前に再会の念願がかないそうになったとき、彼の突然の病を知らされ、頓挫していた)。

 …………


一同の中のぼくのみ

 近くの料理屋に案内され、乾杯すると、そんな心配種は全て忘れてしまった。というか、もちろん彼とぼくの話題を中心に語らいが盛り上がり、爆笑まじりで延々と続いて、胸のつっかえがスカッと取れ、晴れやかな気持ちになった。
 彼の病は、最初は単純に盲腸だった。手術して2週間後に再度開腹することになり、患部を中心に腸を1bあまりも切除したとか……。
(盲腸手術の日が昨年6月14日。同じ日に、ぼくは大腸のS状結腸部を21a切除したのだった)。
 
「安心してください。このとおり元気で、会社の往復はもちろん、マラソンを楽しんでいますから」
 ぼくとしては久しぶりに楽しさ満開だったが、みなさんはどうだったか?

 いとま乞いと心得ていた時刻より1時間以上過ぎている。
 再会(サイチェン)と、一年後を約して別れた。

 帰路、通りすがりの女性のご好意で、なんとか近くの地下鉄に乗れた。一度乗り換えを間違えてかなり時間を無駄にしたが、それでも千鳥足ながら、浦安駅から最終バスで帰宅できた。
 その間、彼との出会い・再会を振り返りながらメモに忙しかった。翌朝読み返すと、判読しづらいところもあるが、なんとかたどれる。ただし大幅に補足して、以下に記すことにした。
 17年前(1990年)にさかのぼる。
 ぼくは、26年勤めたD鋼をあてもなくやめ、なんとかなるだろうと起業して、2年たっていた。50歳。5年前に罹った脳梗塞の後遺症に、まだ悩まされていた。
 ちょうどパソコンが企業と個人を問わず流行りだした頃で、N文化センター(東陽町)が新設した『パソコン入門』の講師を引き受けた。お陰で日銭は入りだしたが、際立った額ではなかった。
 その他の仕事は、打つ手がことごとくはずれていた。当然決定的に赤字続きで、資金も底をつきかけていた。浦安・自宅近くの保育園で保母をかけ持つ妻は、そのささやかな収入があるとしても、子供たちの学費はどう工面していたのだろうか。さすがの楽天家も、見通し暗い状況だった。
 最後の(といってもいい)手段として、その頃注目を集めだしていた業務ソフトの導入指導・販売を目論んだ。上記パソコン教室の(くだり)で匂わせたとおり、いわゆる98パソコンが一般に売れはじめた頃だ。
 界隈の中小企業でも業務にパソコンを活かそうという動きがあり、ソフトの供給側はO社と他2社だった。
 ぼくは取引ターゲットをO社に絞った。が販売・認定店になるためにはいくつかの関門があり、難関は四種の業務ソフト(当時)全ての認定テストに合格することだった──財務会計、給与、販売、仕入。
 その時ばかりは、ハングリー精神の権化になって、ねじりはちまきした。
 そんな努力に天は味方せず、初挑戦の会計ソフト試験に失敗…………。
 そんなときだった。彼が、東陽町のわが社に現れたのは。N文化センターと同じビルの3階小部屋に。
 迎える当方はあらゆる見栄えを考えた。有望なパートナーと思わせるには=Aできるだけ陽気に=Aやり遂げる意志=A ……。
 
 知ったかぶりは(よそお)えても、どの業務にも精通しているわけでなし、取り繕っていることを彼はすぐに見抜いたはずだ。
 彼こそ陽気だった。思惑はなんだったのか。当社をどれほど下調べしたのか……。
「まず試験にパスできるように頑張ってください」
「パスしたからといって、すぐに指導できるはずはないですから、全てのソフトを御社の業務に取り入れて、ご自身で運用してください」
「客さがしは私なりに手助けしましょう」
「くれぐれもお客様に役立つように、ソフトを知り尽くしてください」
「実力さえ備われば、信用を得られるお歳ですから」

 …………
 認定試験はなんとかパスし、四つのソフトとも自分で運用できるようになった。
 彼から訪問要請のFAXが届くようになった。
 ときどき当社へやって来ては、
「状況を聞かせてください」
「使い勝手についてお客様の反応は? 要望は? ご不満は?」
「どんな歩き方をされてますか? ……」
 …………
 何度か居酒屋の止まり木で話に夢中になった。彼はオフィスを離れると、仕事の話はしない。疎ましいようだった。ぼくもどちらかといえばそのタイプだから、無理強いするはずはなかった。
 人生観、恋愛、友情、……書生っぽい語らいが多かった。
 年齢(とし)も立場も忘れてぼくが酔いつぶれたときのこと、彼、覚えていないだろうなあ。そう願う。
 彼、大学時代は野球部で、有名選手のベンチウォーマーだったとか。二、三度神宮球場の舞台に立ったようだ。

「結婚披露宴に来てくれませんか?」
 うれしい招待だった。喜んで了解したが、宴席に着いて驚いた。人前結婚だとは聞いていたので、仲人のいないのは承知。
 ひな壇は彼と花嫁さんの二人だけで、付き添いも司会者もいない。チャップリンではないが、監督・脚本・主演……全て自前だった。
 全くのプライベートとかで、列席者のテーブルに会社名や肩書き等は一切なく、ぼくは友人≠ニいうことだった。O社の社長は、大学の先輩ということで出席されていた。
 彼の理想の伴侶は、この女性(ひと)だったのか。
「美女と○○=vと、会場のあちこちでささやかれていたが、肯(うなず)けた。風貌はともかく、心優しい彼に、花嫁さんは身も心も託されたのであろう、……風貌にも惚れたか。与謝野鉄幹の妻をめとらば≠ェぼくの脳裏をかすめた。

妻をめとらば才たけて
みめうるわしく情ある
友をえらばば書を読みて
六分(りくぶ)の侠気四分の熱
…………
…………

 15年ぶりに再会を果たして、ぼくの記憶に誤りがなかったこと一つ。
 たしかにあの初対面のときふらっと現れた彼は、西部劇のシェーンのようでもなく、その映画を山田洋次がリメークした『遙かなる山の呼び声』の高倉健でもなく、日活映画『渡り鳥シリーズ』の小林旭でもなかった(こちらはまさにうだつの上がらぬ中年男)。
 弱きを助けたあと、いずこともなく去る……そのところが、彼お似合い、映画のシーンがダブった。
 ガンさばきにしろ、面体(めんてい)にしろ、役者との共通点を見つけるのは難しいが、『男の優しさ』が、ぼくの連想を後押ししそうだ。
 レイモンド・チャンドラーの探偵小説を愛読したことがある。ご多分にもれず、主人公・探偵フィリップ・マーローの次の科白(せりふ)が今も好きだ。生島治郎がこのように訳している。
『男はタフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない』

朗読(Part2) 14' 18"

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(2007.07.17)
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朗読(2024.03.13)
「不亦楽乎」
(また楽しからずや)
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5:23 12:59 18:22
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