通夜に出、翌日の葬儀にも参列できた。
近所の人たちは、
「Mさんは気配りの人やったさかに、死ぬときまで気い配ってくれてるのう」
「ほんまや。葬儀は土日やし、昨日のどんよりも今日は晴れて温(ぬく)いし……」
冗談ともつかず、のどを詰まらせていた。
弟の親族代表挨拶は胸を打った。弟の思いもいとこの繋がりを超えてMさんの人格にあった。誠実な人柄で市井の教育者として生きたMさんを淡々と回想した。敬愛してきたMさんへ真に迫るはなむけだった。
”かわゐ”で弟夫婦と夕食をともにした。気楽な語らいが続く。
「今日は昨日(きのう)の続きやけど、それ以上に明日(あした)の手前やで」と弟。ぼくが弟に、
「あんたは木工細工、写真、絵書き、古典文学……、展(のぶ)やん(義妹)は英文学、古典文学、クラシック、絵画鑑賞……」
そう言うと、展やんが
「兄さんだって、ホームページでしょ、それにエッセイ、山歩き……。テニスもはじめたんやろ?」
「お互い、いいシフトチェンジできそうやね」
還暦の兄と、それを目の前にした弟夫婦の語らいである。
「春はまた熊野古道を歩こうよ。那智から本宮まで一泊で、夜はまたこんな話になるよね」
弟が締めくくった。
…………
明くる月曜日は、母を見舞ったその足で帰京することにしていたのだが、母の容態(ようだい)により、もう一泊することにした。
火曜日朝、弟夫婦と母の様子を見届けた後、次の名古屋行き特急まで3時間の待ち時間を利用して高野坂”広角口”へ来たのだった。(2001年2月27日)
…………
田舎の山道だが、ところどころシックな高野坂をゆっくり歩いた。雑木林にはつたがあちこちで絡み付いている。静かだ。小鳥の澄んださえずりと、ときたま列車のゴトンゴトンとゆっくり通り過ぎる音が聞こえるだけ。
前が開けると、波音がかすかに聞こえる。通りすがり、三人に出会った。地の人たちだった。珍しそうな顔をして、お辞儀して行った。みかんは歩きながら全部食べてしまった。
三輪崎の海%W望台を過ぎて、石畳を下ると左手に父母が耕した畑への坂道があるはずだけど、藪がとうせんぼをしている。
そこから50m先が紀の国線沿いの高野坂”三輪崎口”で、12:10着。
古道を横切る古びたせせらぎはなんという名前だったか。ぼくたちは父母の口伝えで「しわの川」と呼んでいたが。
三輪崎バス停で待つ間もなくバスが来た。ちょうど12時半。
新宮駅近くで食堂に入る。”親子丼”を注文する。古里の味、おふくろの味を思い出させる。やわらかいご飯の上にかしわの細切れと半熟のかき卵。甘い味が舌にとろけた。
さんま寿司ときつねうどんは前日まで堪能していた。いつ帰ってもこの三つがあるから、故郷はいい。
13:23、新宮駅で、那智勝浦始発の”南紀6号”名古屋行きに間に合った。明日は仕事が待っている。駅前の徐福寿司で買ったさんまの寿司は、名古屋で新幹線に乗り継いでからの楽しみとしよう。
雑記帳第11話〔高野坂早春譜〕 おわり
2001.03.07
朗読(6'07") on
|