高野坂、広角口

 高野山の「山」の代わりに「坂」をつけた『高野坂』は、”こやのさか”とも”こうやざか”ともいう。熊野古道の一隅(ぐう)で、新宮から一山越えて三輪崎に至る海岸沿いの山路だ。
 なだらかな起伏をなしていて、体に負担はかからない。ツタが絡まる雑木林、竹林、苔むす石畳、熊野灘を見晴るかす眺望は、いつ来てものどかな熊野路である。

 この2月末(2001年)、単身三輪崎(和歌山県新宮市)に帰郷した。初日は雨傘を要したが、翌日から見事な快晴に変わった。
 その3泊4日の旅を帰りの電車でメモした。ふくらませて以下に記す。 

……………………

 帰郷の理由は、あとで記す従兄(いとこ)の葬儀と、母の見舞いである。
 母は佐野・蜂伏(はちぶせ)の病院にいるが、容態(ようだい)がよくない。なにせ91歳の高齢に加えて、何年も寝たきりだ。最近は重度の病が併発している。

 帰ろうと思っていた前日、強い発作が起き、急きょもう一泊追加した。
 幸いいまは安定を保っている。医師の診断ははかばかしくないが、今日明日の問題ではなさそうだ。
 弟も、
「いったん帰んなあれ。付き添っていればよくなるというわけでもないから」
 義妹も、
「まかせておいてください。この前からいっても、当分大丈夫のようですから」
 二人の言葉に甘えることにした。 

…………

 弟が勤めの学校に戻りがてら、新宮駅前のホテルまで送ってくれた。
 名古屋行き特急”南紀6号”は新宮発午後1時半で、いま10時半。発車までなんとか、高野坂を歩く時間はある。
 近くの店でポンカンと市木ミカンを一山ずつ買って、那智勝浦行きバスに飛び乗った。

 ”新宮高校前”、”南谷”を過ぎて”広角(ひろつの)”で下車。ここから10分ほど海に向かって歩くと、熊野古道高野坂広角口≠セ。新宮側の入口で、ここから熊野灘の海を見ながら西へ向かうと、1時間半ほどで三輪崎口≠ノ着く。
 快晴に加えて春を思わせる陽気。黒いウォーキングシューズにラフなダスターコートのいでたち。それにチロリアン・ハット。これは何年か前に市内仲ノ町(なかのちょう)で買ったもので、こげ茶のデニムだ。気に入っている。いずれにしても山道を歩くにしては奇妙だが、危険な出で立ちではない。

 マリンブルーとはこの色なのか。長い渚の王子ヶ浜に打ち寄せる白波を一層引き立てている。広角口≠ゥら古道に入る前に、紀の国線の線路を横切って砂利の砂浜に下り、しばし海景色に見入った。
 母はもうそんなに長くないだろう。苦しまずに終わってほしい…………

王子ヶ浜

 さて従兄のこと。
 今日は火曜日(2月27日)だから4日前になる。夕方、和歌山県の故郷三輪崎に住む弟から千葉県浦安の自宅へ電話があった。
「落ち着いて聞いてえよ。親戚のM兄さんが死んだんや、ついさっき。新宿のT病院で」
 驚いた。それも故郷ではなく、東京の新宿で。
「わかった。すぐ病院へ行くよ。2時間もあれば着くから」
「おおきに。そうしてくれる? じゃあ」

 その夜遅く、Mさんの遺体は奥さんと二人の息子が付き添って新宮へ発った。ぼくは翌日早朝、東京から名古屋経由で新宮へ。16:40、新宮駅で弟が出迎えてくれた。

 千葉・浦安に住んで30年になる。故郷とは疎遠のぼくに不人情との声も漏れ聞こえる。やむをえない。とくに母が高齢で寝たきりになってからは、事実上弟夫婦にまかせっきリになっている。

 一族郎党の冠婚葬祭もそうだ。長男として、弟夫婦に足を向けられない。
 今回葬儀参列は、Mさんの死の顔に接するまでもなく、弟から電話があったときに決まっていた。
 M兄さんは特別の人だ。ぼくにとっては当然のことだった。

 Mさんは10才も上だから付き合いといった経験はない。ぼくの結婚のとき、披露宴で司会を務めてくれたくらいが身近な思い出だ。で、なぜMさんの冥土(めいど)行きを見届けようとしたのだろう。
 理屈で割り切れない情動ともいえるが、心は素直な思いだった。
 弟は、すべて了解といった表情で新宮駅改札口に出迎えてくれ、いつものにこやかな顔でぼくに声をかけた。
「疲れたやろ。すまんのう」
 …………
 しいてMさんとぼくたち兄弟との関わりをぼくなりにいえば、

 ぼくの母方は10人の兄弟姉妹、父方は8人。両家とも末っ子の例外を除けば、おじさんおばさんたちは小学校もろくろく行っていない、貧乏漁師の子供たちだった。父にいたっては小学校にすら行かなかった。
 Mさんは母方本家の長男だ。気の毒だが貧乏世帯で、当時旧制中学を卒業できたのは親が抗(あらが)えないほど学業優秀だったからだ。
 その後山奥の村で小学校の代用教員をしながら、国立和歌山大学に入った。同僚教員として知り合ったいまの奥様の支えがあったことは後に知ったが、それでも苦学と努力の典型だった。

 幼いぼくたち従兄弟(いとこ)には”雲の上の人”と映ったが、他面彼は”学問”を別世界から身近に引き寄せてくれた。「M兄さんがよう、”大学”に入ったんやで!」、いとこたちが畏敬の念で言い合った。
 彼は一族にとって道なき道を開拓し、ぼくたちの道しるべとなった。半世紀前の話である。
   

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〔そして・・〕
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