九十九王子 古道小話 南紀熊野表紙
 

「熊野古道ガイドマップ」(世界リゾート博記念財団)

大斎原(おおゆのはら)

 《本宮大社は元々大斎原に在った。明治の頃(明治22年)大洪水で流され、いまの高台に引っ越した、とのこと。平安時代、その大斎原の本宮大社の二つ手前「伏拝(ふしおがみ)王子」でのエピソード》

おおゆのはら 伏拝(ふしおがみ)王子に、和泉式部供養塔と伝わる笠塔婆がある。これは和泉式部が熊野に参詣した際、にわかに月のものが始まり、ここから社殿を拝んだという伝説にちなむ。

 式部がわが身のけがれを嘆き、詠んだ歌。 

晴れやらぬ身の浮雲のたなびきて
月の障りとなるぞかなしき

 その夜、熊野権現が夢に現れて詠んだ歌。

もろともに塵にまじわる神なれば
月の障りも何かくるしき

 式部は熊野権現の温情に感謝し、参詣を果たしたという。

小栗判官と照手姫

 中世の話。
 小栗判官が美しい少女に化けた大蛇と交際している・・・、そんな噂が広まり、怒った父によって小栗は常陸国(茨城県)に流された。
 ここで小栗は絶世の美女、照手姫の話を聞き、手紙を書き返事が来るや否や彼女の実家である横山大膳の館へ押しかけ、照手姫の婿になるが、大膳らに毒入りの酒を飲まされ、廃人と化した。

 照手姫は熊野権現の導きによって荷車に小栗を乗せ、湯の峰温泉まで運んだ。ここで49日の湯治をし、小栗は体の自由を取り戻したという。

鼻欠け地蔵

 湯の峰温泉から本宮大社へと向かう大日越えの道端に、鼻欠け地蔵という風変わりな名前の地蔵がある。由来、次のとおり。

 左甚五郎が本宮大社の社殿修理のため本宮に滞在していたときのこと。甚五郎は毎日弁当のご飯が少しずつ足りないことに気づき、弟子を咎め、罰として小型のカンナで弟子の鼻を少しかすめた。
 翌日、弟子が姿を消し、地蔵の鼻が欠け、血を流しているのが見つかった。弟子は工事の無事を祈り、毎日地蔵に弁当のご飯を供えていたのだった。

花山法皇

 寛和(かんな)2年(986年)、藤原一族の陰謀で出家をそそのかされ、不意打ちのような形で皇位を奪われた花山法皇は、那智の滝上流にある二の滝の近くに円成寺という庵を結び千日も篭って修行された。そのときの歌。

木の下を住処とすればおのずから
花見る人となりぬべきかな

花山法皇
花山法皇行在所跡(円成寺跡)

 ここまで来れば参詣者でにぎわう那智の滝前とは別世界。傷心の法皇が木の下を住処とし、このような寂しい場所で夜露をしのんでいた。
 修行が終わり、法皇は那智山、那智の滝の霊験に感謝し、弁阿上人を先達に西国三十三ヶ所観音霊場巡礼の旅に出られ、各地で御歌(みうた)を詠まれた。これが御詠歌の始まりで、那智山青岸渡寺は霊場巡礼の第一番札所となった。

平維盛

 平家の悲運を一身に背負うかのように四国屋島の陣を脱出し、紀州に上陸した三位中将、平維盛(これもり)は、今は出家して高野山にいる滝口入道時頼を訪ねた。
 出家を請う維盛に時頼は、平家再興に力を尽くしてこそ武士の道だと諭す。そこで維盛は祖父・清盛以来つながりの深い熊野三山に援軍を求めるため、巡拝の旅に出た。しかし三山はすでに源氏の配下にあることを知り、頼みの綱が切れると同時に、命運も尽きた。

 熊野最果ての地、那智の浜から渡海上人のごとく、維盛は小舟に乗せられ熊野灘に旅立った。時に寿永3年(1185年)3月28日。享年27歳。

新宮城

 市街地の北、熊野川を背にした高台にある新宮城(丹鶴城)。今では石塁に面影を残すのみだが、歴史は江戸時代にさかのぼる。
 徳川家が入国する前は浅野家が紀伊国(和歌山県と三重県紀南地方)を統治、その重臣・浅野右近大夫が新宮に派遣されていた。このとき熊野川の河口に石段を積んで築いたのが新宮城のルーツといわれている。
 しかし、1615年、幕府から「一国一城令」が公布され、築城の途中であった新宮城も壊される。だが2年後には再建が認められ、1618年、新たに紀州徳川家の附家老・水野重中が入府、15年かけて城を完成させた。城の形は二層から三層の天守閣(台)が中心をなしていたという。水野家は代々江戸在住の家老を勤めつつ約250年間新宮領を支配した。

 その後明治維新で新宮藩が誕生し、さらに廃藩置県で新宮県となるが、ほどなく和歌山県に編入、新宮城の建物は用をなさなくなり、ついになくなる運命となった。
 現在新宮城は公園として整備され、春には桜の名所として多くの人でにぎわう。また、石塁の残る城跡に立てば、太平洋が一望でき、そのすばらしい眺めは今も昔も変わらない。

徐福の墓

 JR新宮駅から100mほど東にある、中国風の楼門がひときわ鮮やかな徐福公園。クスノキの巨木と天台烏薬(うやく)に囲まれたこの公園内に、はるか昔中国からやって来た伝説の人、徐福の墓がある。

 徐福(じょふく)は、今から約2200年前、中国を統一した秦の始皇帝に仕え、その命により、東方にあるという不老不死の霊薬を求め、新宮に渡来したと伝えられている。
 数百隻の船と数千人の男女、金銀財宝とともに、まだ見ぬ東の国を目指し、船出した徐福。彼はこの地で「天台烏薬」という薬木を発見するが、温暖な気候、風光明媚な土地、そして何より地元住民の暖かい友情に触れ、ついに新宮を永住の地と定めた。そして土地を拓き、農耕、漁法、捕鯨、紙すきなどの技術をこの地に伝えたという。

 じょふくの墓

阿須賀神社の御正体

 熊野川河口にある円錐形の山、蓬莱山を背景にした阿須賀(あすか)神社は、新宮市内で最古の歴史を持つといわれる。
 昭和34年(1959年)、紀伊半島を襲った伊勢湾台風によりなぎ倒された蓬莱山の老木の根元から、貴重な仏像などが出土した。それは、神仏習合の時代、社殿に飾られていた懸け仏、御正体(みしょうたい)である。御正体の初期のものは銅鏡の裏に本地仏を線刻したもので、室町時代あたりの作となれば仏像を貼り付けたような形となっている。

 出土点数は約200点で、阿須賀神社の本地仏(ほんじぶつ)・大威徳明王の他、熊野三山の本地仏も見られ、この神社が古くから熊野三山と同様に崇拝されてきたことがうかがえる。

朗読(13:16) on
 
<熊野古道「九十九王子」 熊野古道・高野坂>
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