Part1 Part2
Part 2
 今度は真剣に調べる。マニラの米国事務所へ提出すべき用紙(Form)は、十種類程度だ。
 が、手元の書類に致命的問題が見つかった。提出期限が半年たって切れたとの通知を一昨年に受け取っている。
 恐る恐るマニラへ電話を入れる(無料)。フィリピンの女性らしき声が日本語で応対してくれた。
 一週間か十日後に、三年前と同様の封書を受け取った。よく読むと、ぼくだけでなく、妻にも配偶者として応分に支払われるようだ。
 
 予想外のこと:
 裕福でもないくせに、ぼくはずぼらだから、ふところは妻にまかせている。一応ぼく名義の銀行口座があるから、本件は全てその口座に振り込んでもらうよう、M銀行で確認のサインをもらった(つもりだった)。
 このフォーム一枚で、妻の分も同じ口座に振り込まれるものと思いこんでいた。(間違いだった)。
 妻の社会保障カードが見当たらない。もともと社会保障番号を受け取っていなかったか?
 妻が米国から年金を受け取るには、それが必須である旨、ボルチモアの本部から指摘があり、妻は赤坂の米国大使館へ出向かざるを得なくなった。なんとか関係部署の証明文書を受け取って、これをマニラへ送る。
 半月して、ボルチモアから彼女の新規社会保障カードが届いた。(ここら辺のボルチモア・マニラ間のスピーディな事務連絡には感心した)。
 
 若干手こずりながら未完のフォームを満たし、マニラの事務所へ一式を送って数日後、手落ちがないか確認の意味で無料の電話をかけた。
「全て完了しましたよ。二、三ヶ月後に年金支払いの通知があるはずです」
 ホッとして、その夜は妻と外で乾杯した。金額はスズメの涙ではあるが、手続きは案ずるより産むが易し、だった。
 
 早かった。二ヶ月後の八月初めにボルチモアから封書が郵送された。いわく「八月三日にぼくの分を前四ヶ月分と七月分の二つに分けて、ぼくが指定したM銀行口座に振り込む」
 同時に妻の分が米国の小切手で届いた。
 ここで「予想外のこと1」のケアレスミスに気づく。説明文をちゃんと読めば、こういうことにはならなかったはずだ。
 マニラからファックスで所定の用紙「Direct Deposit Sign-up Form(Japan)」を取り寄せて、ぼくの分をやったと同じ要領で作業し、マニラへ書留でエアメールした。
 十日して妻宛に、「九月分(十月初め支給)より、所定の銀行口座へ振り込む」旨の通知が届いた。
 妻の分も含めて全てが完結したことに胸をなでて、再び外で乾杯したのだった。

 どこかの国で年金問題が深刻だ。かくいうぼくたち夫婦も対岸の火事ではない。
 大した期間ではないが、二度海外生活を味わい、四十八歳で大同特殊鋼をやめて、自分の会社をつくった。
 この過程は一般サラリーマンと比較して、一応イレギュラーだから、年金額についていらぬ心配をしていたが、船橋の社会保険事務所で、夫婦とも「間違いありません」との応答を受け、ひと安心した。
 それに比べて…………
 
 米国社会も建て前と本音の落差には、滞在中に、しょっちゅうとまどい、憤り、悩まされたことである。
 が、こと年金においては、
 当たり前のことかも知れないが、ありがたいなあ、素晴らしいなあと感じいった。(これもぼくと知り合いだけの幸運なのかなあ)。
 特記点をあげると、
 提出用紙全てにわたって、ぼくでも辞書を引かずに理解できる英文。
 電話のテキパキした対応と親切さ。
 書類送付の速さ、スムーズさ(先方の不手際がなかったということ)。
 三年間にわたって頭のどこかにこびりついていた、自分のためなのに煩わしいこと。なんとかハッピーエンドになったので、書き残した。
ニューヨーク駐在当時の写真
朗読(6:59) on
<Part1 「社会保障年金始末記」おわり
Part1 Part2
上記とは無関係だが……
浦安に古き潮の香たち葵  恵美子
再朗読(2023.05.24) 13:38
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