最後の将軍
The Last Shogun

徳川慶喜の生涯
The Life of
Tokugawa Yoshinobu

原作: 司馬遼太郎
英訳: ジュリエット・カーペンター
英文和訳: 小芝 繁
本書紹介と翻訳者の言葉
01. 大望 10. 蛤御門の変
02. 将来の将軍を育てる 11. 家茂の死
03. 好機を逸する 12. 気のいい酒好き
04. 安政の大獄 13. 大失態
05. 殿中へ 14. 15代将軍
06. 敵を知り己を知らば 15. 降伏の決断
07. 思い切った行動 16. 大坂へ撤退
08. 慶喜のだまし技 17. 逃亡と余波
09. 運命の歯車 原作者のあとがき
16. 大坂へ撤退
 将軍は全ての身分を捨て去り単なる庶民になり下がる、それが大久保一蔵の考えだった。慶喜に富裕な徳川の所有地を天皇に返還するように強いることは、大名はおろか一文無しの浪人に帰してしまうことになろう。
 「これから彼がどうなるのか、あんたは何も知らない。彼はじたばたせずにいつもの生活を続けていくかもしれない」、大久保は京都の皇族である悪友の岩倉具視にそう言った。二人は市内の茶屋で落ち合うことにしていた。岩倉はそこへ行くとき、侍姿に変装し、兜をかぶっていた。
 「そうなるかも」、岩倉はそう言って肯く。この二人の賢明な策謀家でも、慶喜の独創あふれる戦略、彼らの最も秘密裡の腹案をかぎつけ、彼の手の内を彼らに披歴するその見事な才知に敬服した。明らかに、慶喜は現在の政治状況がもたらす遥か先までの影響を把握し、押し寄せる大波に逆らうよりもむしろ共感を得たいとし、そこで彼と徳川家が被るであろう損害を最小限にとどめる方を選んだ。彼の日常の行動規範は、流れに逆らって泳ぐよりも、流れに任せる。そうでなければ、1ヶ月前に、外部の圧力に左右されず即座に権限委譲したあの勇気ある偉業をいかにして成し遂げられたか?

 「この男、キツネのようにずる賢い」、西郷隆盛は驚いて声をあげていた。
 「ではあれ、これには確かに二の足を踏みそうだ」、岩倉は試案ありげに首をかしげる。地位も地所もなくなれば、将軍は浪人であり、名なしとなろう。「天皇の命を受けようと、彼は何の抵抗もしないで唯々諾々と全てを放棄するとは思えない」。
 慶喜は、自らの意志で大政を皇居に返還して、つまるところ、歴史上前例のない国家行事を果たした。自ら成したことの重大性を知る彼はこうした要求を呑み込むことはあり得ない。
 「うん、しかし慶喜の輝かしさは」と大久保(心の中では弱さと言いたいところだが)は、「皇居への恐怖の表れだよ」。
 事実、慶喜ほど皇居の敵になるのを恐れた者はいない。それにもまして、彼は裏切り者と名指しされることを恐れた。でなければ、これほど沈着冷静な男が、いかにしてこのように感情丸出しになったのか? 彼の偉大な先祖である徳川家康はそのような弱みはなかった。そんなことの一切ない家康はまるで自由人だった。その家康と違って、慶喜はあまりに多くの読み手の時代に生まれ、慶喜自身家康よりずっとずっと世間ずれしている。だから、彼自身が何かに書かれるのではないかと心配せざるを得なかった。将来の歴史家の見立ては何より彼を心配した。少なくとも一つ、彼は水戸家の出だ。中世の将軍足利尊氏を万世一系の天皇の敵としてなじるあの水戸学創始者たちの系統である。水戸藩士として、彼はその思想を叩きこまれてきた。足利尊氏の二の前になるのではないかと恐れている彼は、裏切り者と見られてはならないとの思いに取りつかれていた。

 この全ては、同様の法令を司る大久保一蔵のよく知るところだった。幕府の皇居内各種事務所を取り払い、その用地を天皇の勅令通りに没収されさえすれば、慶喜は地位をはく奪され、衣装もはぎとられ、一介の庶民になり下がろう。大久保はそう確信する。
 しかし、大久保はこう付け加える。慶喜自身は何のためらいもなくそうするだろうが、8万人の彼の軍隊は戦わずして降伏しないだろう。将軍家の土地は4万石とも8万石とも言われている。もしその全てが皇居に返還されれば、将軍配下の者たちは、見捨てられ、無一文の着のみ着のままで路上に放り出されるということになろう。彼らはそんな仕打ちを受け入れるだろうか? 大久保は大袈裟に疑問を呈する。勿論さにあらず。疑いようもなく、彼らは謀反を起こすだろう。「それから」と彼は言葉を継いで、「我々が必ずしなければならないことは、彼らを天皇の敵と宣言し、大名たちに彼らの掃討を要請すること、それが最良の策だ」。
 「なるほど」と岩倉はこう添える。第一に宮中を改革しなければ」。しかしどのように? 彼自身まだ下級の廷臣だから、そんな〝勅令〟が発せられるのを知る力はない。さらに、彼は自分の回りに皇族は3人もいない、幸運にも、若い明治天皇の母系祖父で元国家評議員長の中山忠能(ただやす)は岩倉の考えを取り入れ、そのお陰で天皇の勅令が滞りなく発せられた。もしそれが見かけ上天皇の意見と見なされれば、宮中の改革は岩倉の下絵通りになされるはずだ。

 その後数日間、岩倉は案に没頭した。間もなく慶喜の余分な無理を通す適材と適切な制度を考え付いた。まずは、うっかり者で心根の優しい有栖川王子を政治諸問題の責任者とし、その下に、いかにも言われた通りそのものずばりに行えるような人物として、仁和寺でお告げを受けておりいずれ仁和寺王子として世俗の人生を送ることになる宮中の王子を置いた。さらに各部署への適材として、元国家評議員会議長の中山忠能、彼の幼友達である中御門経之(なかみかどつねゆき)、そして三条実美だ。加えて、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽、薩摩の島津茂久(もちひさ)。これらの人物は全て、岩倉による取りあえずの政府の要職に、実質、自らの意思で就任した。
 彼は大久保にこう説明する。「彼ら全てにおいて、春嶽は一番弱そうだ。山内容堂は波風を立てそうだが、彼一人だけだ。残りの者たちが彼を取り巻けば、心配に当たらない」。1868年1月3日、これが制定され、同時に明治維新が成立した。

 その前日、「殿、聞かれましたか?」、板倉勝清が慶喜にこっそり尋ねた。慶喜の名はリストにない。統治権力の座を辞する前に、慶喜はこう宣言して、板倉と他の京都の家臣を安心させていた。「維新後も私は新政府の国家行事に出席し、全ての大名と共に天皇のために尽くす。今とほとんど変わらないだろう」、と。それでも、不思議なことに、彼の名はない。
 「わかった」と慶喜はそれだけ言い、内心この背後に薩摩と長州勢の策謀のあったことが分かっていた。彼らは再三再四彼の裏をかいたのだった。彼はひらめきが速い。だまされたことを嘆いて時間を無駄にするよりも、図表をよく調べ直し、これからの行動を決める。板倉は慶喜の移駐を理解し損ない、彼の性格を誤解して、殿は悲しんだりも怒ったりもできないのだと嘆いた。
 「土佐の戦略家たちは薩摩の戦略家たちに負けたのだ」と慶喜は言って、そこで何が起こったのかを分析した。土佐にとっては京都で12月、将軍(徳川)偵察班に暗殺された活動家の坂本龍馬と中岡慎太郎の死は大打撃だった。あの暗殺以来、薩摩と長州の連絡網は途絶えた。が、勿論慶喜はこの二人に言及していない。二人とも土佐のために行動したというよりもむしろ国を憂う愛国者だった、と認めている。彼の考えでは、土佐の戦略家は後藤象二郎だ。この数週間、後藤は山内容堂の命を受けて徳川家を救済しようとこちらへやって来た。しかし薩摩や長州と違って彼は皇居との接触が乏しく、だから最後に大久保に屈した。今や皇居は薩摩派と長州派で満ち満ちていることは、慶喜の目に明らかだ。

 新政府の高位要職に就くことになっている山内容堂は、総合任命式の前日京都に到着し、大仏という宿に泊まっている。後藤は市内の状況や慶喜がこれからどうなるかの噂を伝えたが、話を終える前に容堂は怒りを爆発させた。
 「島津の野郎は何を企んでいるのか! 奴はずる賢さではキツネだ。彼は天皇制の復活を、戦力での幕府倒壊を隠すことに利用している。明日式典に出席すれば、俺は何とも多勢に無勢。彼らにかなうはずがない。それが天皇の命かどうかはどちらでもよい。俺は一人の兵士も出さない。それで決まりだ」
 大声でわめいて、彼は酒を要求し、その夜は泥酔して過ぎた。翌朝も、宮殿へ行かねばならないのに、また飲みはじめた。遂に部下に説得され、輿に乗って宿を出た。
 慣習に従って会議は日が暮れてはじまり、夜を徹して翌朝の日の出ころまで続いた。容堂はその間、慶喜に代わって、感情を高ぶらせたまま話し、最後にこう宣言した。「2,3の皇族のやっている事どもは、ずる賢くて陰険だ。彼らの考え方は若い天皇を彼らの傘の下に引っ張って来て、その権力を強奪していると思っている」。そこに居合わせた皇族の一人はあとでこう書いた。「容堂は激高しており、しゃべり方は横柄で無礼な態度だった」、と。

 しかし、夜が更けるにつれて、容堂は徐々に岩倉に根負けしてきた。最後に彼は、これ以上あらがっても無駄だと判断し、押し黙った。彼は精いっぱい頑張った。彼の沈黙は、幕府が3世紀に亘って続いた後、慶喜の降伏に課せられた過酷な条件を暗黙了解することを意味した。松平春嶽に対しても、それは同じだった。こんな議決がなされた。春嶽に尾張藩主と一緒に二条城へ行ってもらい、慶喜にこれらの条件、彼が容認した事柄、を受け入れるように勧める役目だ。またもや、これまでの何度もと同じで、慶喜の生涯において肝心な決断を迫られたとき、春嶽はいつも使者役を仰せつかった。

 慶喜は城にいた。
 同様に城内には、命を投げうってでも幕府を守ろうとする兵士たちが会津と桑名からはせ参じていた。春嶽は普段の姿で城に入り、大勢の兵士がたむろする中を通り抜けると、彼らは怒りの叫びをあげた。「薩摩と土佐が徳川家を倒した!」。そんな叫び声を無視して、春嶽は無理やり進み、間もなく将軍に対面した。
 慶喜は春嶽の話をよく聞き、それが終わるとこう繰り返した。「それ、天皇の勅令なんだね? それなら衣服を整えなければ」。そして彼は部屋を出て、夕刻まで自室にこもった。2時間ほど彼は深く考えた。板倉勝清に相談。しかし板倉はその時すでに頭がもうろうとして、もはや話し相手にもならなかった。
 慶喜は再び現れた。「私は将軍を辞する」と言い、「それからまだ別の要求があろう」と付け加えた。
 前夜春嶽は慶喜に代わって熱弁を振るい、遂には2つの意味ある譲歩を引き出していた。一つは、全ての役職をはく奪するのではなく、最上位の役職のみである。もう一つは、天皇に返還されるのは徳川家の地所4百万石すべてではなく、半分の2百万石とする。
 「私はどちらにも異議はない」と慶喜。しかし徳川の地所が実際に4百万石だと広く知れ渡った考えに異議を持ち続けている。幕府の地所収入は年間半分の2百万石だ。だから彼に2百万石を差し出せという勅令は全ての地所を取り上げるということに他ならない。時間をおいて湖の命も渋々受け入れることになるが、この時の国民の動揺を鑑み、返事を遅らせた。時が経って動揺が収まってから彼は天皇に応諾を伝えた。

 国民は事実動揺している。江戸では譜代大名が寄り集まって、皇居から賜っていた地位を放棄すると意見一致した。「そうすることによって我々は宮中との関係を断つ。我々はこぞって徳川の家臣として死にたい」、彼らは宣言した。江戸にいる幕府の洋式部隊の隊長たちも時代替わりの行事で激高し、命令を待つまでもなく部隊を整え、隊員たちを戦艦に乗せて江戸から京都に向かおうとした。これらの部隊は全部で5千人とも1万人とも言われている。
 京都駐屯の幕府派部隊としては、5千人が幕府の直接指揮下の兵士や旗本だ。それに会津から3千人、桑名から1千5百人。合わせて幕府側は総勢1万人弱。一方、薩摩は2千人程度。同月、1863年以来初めて、長州部隊が大手を振って首都入りし、今も市郊外に野営している。その数1千人強。この2藩合わせて3千人。もし徳川部隊が彼らを相手するとなると、、数の上では圧倒しているから、簡単に撃退できようし、多分一晩で薩摩・長州連合体をせん滅することになろう。そんなわけで、徳川方諸部隊は城門内になだれ込み、戦闘開始を強力に要求した。慶喜は戦闘勃発を恐れ、弊社の外や城門内の全ての兵士に命令して門を閉じた。小隊長たちを集めて、彼は厳しい命令を課した。
 「聞きなさい」と、彼は小隊長たちに声を()らして叫ぶ。「徳川慶喜が切腹して果てたとなれば、その時はお前たちの好きなようにしなさい。しかしまだ私が息をしている間は、私の命令に従いなさい。荒れ狂う部隊などあってはならない」
 この場で一同の感情が激高して、何人かが城内の部屋でしゃがみ込み切腹した。死体はどこかへ運ばれたが、血だまりはぬぐわれないまま。群衆の中だからどの死体も特定できない。宮殿を歩き回るごとに慶喜はそうした無名の死体による血の海を見て、内心大災害は避けられないと思った。
 会津藩主で京都守護職の松平春嶽はこの数日彼の傍に居続けている。その春嶽に向き直って、慶喜は彼を見つめながら尋ねた。「私がどう感じているかわかってもらえるかね?」。いずれにしても大災害が起きそうになれば、天皇に大政奉還する代わりに、京都駐屯中の薩摩部隊を撃退し、江戸から大挙して自身の部隊を来させ、京都の市全体を軍の統治下に置くように決心したであろう。そうなれば、勿論彼は裏切り者と名指しされ、少なくとも必ずや内戦が勃発しよう。それは徳川幕府の崩壊に帰するはずだ。薩摩の挑発に乗らないと決断し、慶喜はぶれることなくひたすら自身の主義主張を貫くことに決めた。

 「それが彼らに対抗する唯一の道だ」、と彼は結論づけた。松平春嶽も誘惑に乗る愚劣行為と感じた。彼が同意の肯きを見せると、慶喜は突然こう提案した。「大阪へ行こう」。この大軍隊が京都に駐留している限り、思わしくない不測の事態が起こる危険性があった。彼らは去らざるをえなかろう。
 「首都から逃げ出そうというのですか?」、容保は青ざめた。すぐに元に戻って、彼は決然とこう言う。将軍の兵士たちはそんな命令に絶対従わないですよ、と。徳川家臣の中には慶喜を殺害するとすごんでいる者がいることを彼は承知している。彼、慶喜がいまの大混乱の真の源だ。徳川家を見限ったあの水戸将軍だ。だからこれまでの将軍たちの名誉を重んじて彼を殺害しよう、と。彼らの考え方はおかしい。が、今が異常なのだ。だから見たところ彼らは驚くほど多くの見方をバックにしている。徳川家の忠実な兄弟は一瞬たりとも慶喜の傍を離れなかったのは、間違いなく彼が危険をよく理解していたからだ。もし万一、兵士の中の不満分子が城に殺到すれば、彼は会津部隊と共に彼らを打ち負かす用意ができている。
 この中で慶喜は当然何も知らなかった。会津部隊は大阪城へ行くことに反対するだろうと彼は予想し、そこまでは間違ってなかった。彼らほど薩摩を嫌っている者はなく。彼らほど京都での(いくさ)で死を覚悟しその意を決している者はいない。もし大坂城への退却を命じられれば、彼らは疑いもなく怒り心頭で死ぬだろう。
 慶喜は彼らを懐柔する案を持ち出した。彼は自身の案の身を信じた。内心彼の信頼に足るのは彼自身であり、配下でもなく、会津の忠臣でもなかった。これから内々で会津の頭目に会う、と容保に話した。会津の老公で京都での部隊長である田中土佐を呼び、膝突き合わせて、「心の底をぶちまけたい」と言った。そして彼に大坂への撤退を話し、田中は同意した。

 田中派兵士たちの野営に戻り、その案を説明したが、小隊長の佐川官兵衛と林権助は怒り狂って聞く耳を持たなかった。彼らは殺気立っていた。慶喜がこれを聞き、その2人を呼び寄せ、まずは彼らの憤慨をもっともとした。「勇敢な兵士こそあがめられるべきだ」と。そして声を低くして続ける。「しかし、私には大坂へ撤退しようと思う理由がある。今はこれ以上は為せない。これを漏らしてしまうと私は負ける。こんな問題にこれ以上かかずらわないで、私に任せてくれ」。彼はそう説得した。
 二人の胸は高鳴った。将軍の言葉を、彼らはこう解した。彼は、西日本で最大の要塞である巨大な大坂城に立てこもり、最後まで京都と闘うつもりだと。彼ら二人は急いで自陣営に戻り、みんなに話した。会津の前部隊は了解し、京都を去ろう、すぐに、できるだけ早く、とまことに勇み立った。
 慶喜はその報告を聞いて満足げにうなずき、「よし、彼らは落ち着いてくれた。何よりだ」と言った。しかしそれから彼は飲んでいた茶碗を置いて、数秒間沈思黙考。策略にたけた才知の持ち主が、常に専念するのは自軍の退却で、前進凱旋と無縁なのはなぜか? 間違ったところに生まれあわした、と彼は自らに言った。それから再び茶瓶ごと持ち上げて飲み干した。最後の一滴を飲み終えるまでに、そんな馬鹿げた悲嘆は彼の頭から消えていた。やることは山ほどある。今晩中に京都を出るのだ。そう決心し、準備開始を命じた。