最後の将軍
The Last Shogun

徳川慶喜の生涯
The Life of
Tokugawa Yoshinobu

原作: 司馬遼太郎
英訳: ジュリエット・カーペンター
英文和訳: 小芝 繁
本書紹介と翻訳者の言葉
01. 大望 10. 蛤御門の変
02. 将来の将軍を育てる 11. 家茂の死
03. 好機を逸する 12. 気のいい酒好き
04. 安政の大獄 13. 大失態
05. 殿中へ 14. 15代将軍
06. 敵を知り己を知らば 15. 降伏の決断
07. 思い切った行動 16. 大坂へ撤退
08. 慶喜のだまし技 17. 逃亡と余波
09. 運命の歯車 原作者のあとがき
15. 降伏の決断
 慶喜は京都で薩摩と長州の面々が将軍職廃止の案を練り上げていると察知した。彼は信頼に足る情報を得た。徳川政治の際立った特徴の一つは、洗練された機密情報収集能力だった。京都守護職の会津藩主はスパイや自身の命令一下で動く幕府の浪人グループ新選組を頼りにした。慶喜が信頼する配下の原市之進は、内密情報を得るために手の内のあらゆる手段を使った。こうした全ての者の情報源は薩摩の動きの特異性を浮き彫りにした。しかし、この綿密な機密情報網が取り上げ損なったのは、薩摩と長州の秘密同盟で、土佐の坂本龍馬の仲介で前年に結成され、幕府転覆のための戦闘となれば、この2藩がそろい踏みするということだった。それでいて、蚊帳の外の者たちにでさえ、薩摩の次なる行動は、その種の何かが起こりかけていることを強く示唆していた。

 兵庫問題が解決した後、土佐の山内容堂は、薩摩と長州の憂国の士が手を携えていると受け止めた。近いうちに京都で武力衝突が起こると彼は見て、それによって幕府の運命は決まると予想した。容堂は寛大で、慶喜や幕府には譜代大名たちより忠誠だ。にも拘らず、慶喜側に立って戦い、幕府と運命を共にしようとはしなかった。
 彼自身の藩である土佐が一番乗りした。戦国時代ならば、表向きには中立を保ちながら、幕府を横から援護する、それが彼のできうる戦略だったろう。さらに、土佐軍大将の板垣退助を含む自藩からの幹部級は明らかに西郷らと結託していた。全てが来るところまで来ており、容堂のようにいかに部下に厳しい者でも彼ら家臣の中の過激分子を(いさ)めることはできなかった。
 今や幕府を救う手立てはない。容堂は国家の状況に絶望した。
 ちょうどその頃、1867年8月初め、土佐の家老で長崎から京都に行っていた後藤象二郎が仰天の話に興奮しながら帰ってきた。彼は霊験あらたかな腹案を持っており、それは、彼に言わせれば、徳川幕府を絶望のどん底から引きずり出し、薩摩と長州を静めさえする急場のどんでん返しだった。それは幕府の支配を天皇に戻す案で、坂本龍馬が編み出し、後藤は熱狂的にほれ込んでいる。しかし後藤は坂本の名を一切口にせず、全て彼自身の考え方として容堂に伝えた。皇居と幕府の分担を含めて、現状の政治体制を一体化するために、慶喜は降伏しなければならないだろう。しかし徳川家は生き残り、事実上、この革命の最大立役者として現れることになろう。
 「なんと、すごい! あんた、やったね!」、膝をポンと打ちながら容堂は賛成の大声をあげた。今や薩摩と長州に翻弄されている土佐が、この2藩に恩義を与え、国家的にも優れた実力藩に飛躍する道筋だ。とてつもない政治才能だ。

 残された全てはこの案に慶喜の承諾を得ることだった。容堂は後藤に京都へ戻るよう命じた。彼は大坂まで藩の蒸気船で、そこから京都へ上り、坂本と合流して、薩摩や他の友好藩、及び幕府で慶喜が最も信頼する家臣たちを説得して回った。
 慶喜はこのこと全然知らなかった。彼の情報網は役に立っていなかった。9月11日に彼の最側近原市之進が反外国の狂信者たちに殺害された。将軍家の旗本の中には慶喜の奇怪かつ不可解な行動と彼らが見た事どもで原をなじり、長く彼を嫌っている者がいた。忠誠なる水戸藩の武士なのだから、彼が慶喜に退くよう何とか勧めているに違いない、彼らはそう憶測していた。将軍の家臣2人が殺害に加わっていた。彼らは原の邸宅に朝立ち寄り、〝水戸の者だ〟と名乗り、中へ押し入った。原は髪を整えているところで、彼らは刀を振りかぶって彼を殺し、はねた首を引っ下げて逃げ去った。原家の勇敢な若者が追いかけて、彼らの一人を突き倒した。
 事件を聞いて、慶喜は肩をしゃくり上げて手で顔を覆い、黙って涙を流した。暗殺者たちは江戸城雉橋門外で彼の第一側近中根長十郎の命を奪い、次いで京都で平岡円四郎を殺し、そしていま、原市之進が同様に殺された。
 慶喜の反対派は彼の殺害を控える代わりに彼の最側近たちの首をはねた。この3人の死は、慶喜の江戸を離れてからの政治行動が殆どの者にずるくて不可解との印象を与えた。

 いずれにしても、有能な部下を奪われた徳川慶喜は早くも州へhh状況に疎くなった。天皇実権を返す案にしても、後藤と坂本が実力大名や将軍家の者たちを説得することに成功してしばらく経つまで知らなかった。勇気を奮い起こして慶喜にこれを知らせたのは監査役の永井尚志(なおむね)だった。開けてみると彼の恐れは無用だったが。永井が驚いたことに、慶喜は怒るでもなく動揺するでもなかった。むしろ、彼の表情は奇妙なまでに朗らかだった。この知らせを済ませた後、永井は将軍の激怒を恐れて、隣室でひれ伏していた。慶喜は「わかった」とだけ言って、あとは何も口にしなかった。
 慶喜は永井にそう言わなかったが、疑いもなくこれは彼の生涯を通して最高の喜びに位するものだった。第15代徳川将軍になって以来ずっと、その職が刀の刃の上でバランスを保つことよりももっと危険だと見做し、政権を天皇に返すことがこの苦境を脱するに足る道だと思っていた。自身がもはや絶望的な罠にとらわれたのだから。この政治権力という重荷を皇居の塀を超えて天皇の膝の上に投げ入れ、すぐに江戸へ帰ってしまおう。それしかないと思った。分割線まで考えた。つまり、「今後皇居は思いのまま振舞ってください」。しかし殺害された原市之進にだけは、この内密の考え方を打ち明けていた。他のだれに対しても、おくびにも出していなかった。
 彼は賢明だ、慶喜は容堂の洞察力に内心感動してそう思った。が、その洞察力が容堂ではなく別の土佐男である坂本龍馬だということは知る由もなかった。容堂も坂本には会っていない。

 容堂の代理として、後藤は裏方で疲れを惜しまず働き、遂に薩摩の半ば了解を得、天皇の政権復活を促す書簡を公式に幕府に提示することに成功した。その日は1867年10月29日だった。
 しかし薩摩は一方ではこの考え方に不本意ながら了解の態度を見せつつも、武力蜂起の最終段階にあった。たまたま後藤の書簡と同日に、長州の隠れ連絡役である品川弥二郎がこっそりと京都に入り、薩摩陣営に身を隠した。
 薩摩陣営での疑わしい行動の数知れない報告が会津と新選組の耳に届き、それらは新しい側近の永井尚志によって慶喜に知らされた。いますでに慶喜は事実上将軍としてふるまっていない。ただ何かが起こるのを待っているだけだ。神門辰五郎や彼の江戸火消し部隊でさえ、慶喜のスパイもどきで遊郭やその他ここかしこに行き、耳をそばだてた。とはいえ、だれもなんの変わったことも見いだせなかった。
 なおかつ、間違いなく何かがもやっている。慶喜は決心した。「これが薩摩を切り捨て、彼らの野望をくじく唯一の方法だ」と、上位大老の板倉勝清に主張し、この考えがいかに有利かを知らしめようとした。後藤によれば、これ以上の徳川に有利な案はなかろう。何せ、政権の無用な役割を取り外すだけで、土地も兵力も元のままにするのだから。後藤は坂本の案の(とげ)ある部分を取り去り、幕閣各位をうまく言いくるめうる内容にしてあり、慶喜も気に入った。
 それでも、皇居はどう出るのだろうか? 馬鹿げた考え方、と彼は思った。皇族の無能と皇居の哀れな低収入を思えば、彼らは国の行政を司ることができるなど、決して望みえないだろう。国を守るべき兵士一人も軍艦一隻もない政府などだれが聞いたことがあるか?

 その上に坂本の案では、新政府は国内の全ての取り引きは米国式に2院制の議会で運営されよう。後藤は、その案の提示で、慶喜が議会の議長に就任することになると暗黙のうちに示唆した。その場合、慶喜は政権を奪われたことにならなくなる。新政府は、土地、資金、人材、兵力、その何一つないままで、何ができるのか? 彼らは徳川に頼らざるをえなかろう。徳川は400万石と10数隻の軍艦と1万人の兵士を有するのだから。
 だって、権力の移行で劣勢の情勢に立たされるのは誰かと言えば、それは皇居そのものだ、慶喜はそう言った。何年にも亘って彼らの手の内で苦しんだ後、彼はこれからの展望を魅力的と思えた。他方、土佐の案が何の変更もなく了承されるとは思えない。どんな変更がなされようと、彼か彼らのやり方でやっていくしかなく、彼らが作り出す環境に適合せざるを得ないだろう。いずれにしても、今や薩摩の策謀から身をかわすために、彼らはこの案に同意すべきだ。これが慶喜が板倉に主張した神髄で、板倉は何の反論もできず、不承不承に折れた。
 それは幕府を説得しただけだった。慶喜は事の成り行きを直接彼らに説明し、納得してもらおうと言った。板倉は、本件賛成しかねると思いつつも、卑しく平伏した。「殿の言われる通りでお願いします」と。もし彼自身がこれを切り出すとすれば、多分殺されよう。しかも彼はそれに要する説得力の持ち合わせもない。だから国中で最も弁舌の立つ話し手・将軍慶喜にお願いしますと頼むほかに何の手立てもなかった。
 「自分で彼らを説得する」、期待を込めて眉を吊り上げ、慶喜は言った。不思議な性格。徳川幕府最高位を自ら投げ出そうとするときに、慶喜はその深刻な状況での感情を表し損ねていた。彼をいま動かしているのは何の鑑賞でもなく、別次元で脱兎のごとく来た興奮だった。彼は自身で配下に自らの考えを独特の弁舌で説明し、彼らを同意させるだろう。勿論慶喜自身、松平春嶽が彼の性格について受け止めたこんな気持ちを知るわけがなかった。「彼は相手の気持ちを忖度しないで自身の努力だけに依存するような過ちを犯しかねない」と。

 この年11月7日に、慶喜は、京都にいる全ての幕府家臣を二条城の中央大広間に招いた。彼らはこれから何が起こるのか息をのんで待った。
 そして最後に慶喜が入室して椅子に腰かけた。同時に彼らは彼に向かって平伏した。慶喜は天皇への大政奉還の書簡を側近に読ませ、それが済んで話を始めた。弁舌さわやかで力があった。

 「これ以外に望みは持てない。…家康の偉大な遺産をこれからも継承する唯一の道だ。…
 「反逆者どもが待ち伏せて、徳川倒壊を目指しているとの噂がある。彼らがいかに多くとも我々は容易く撃退できよう。が、そんな騒動が皇居すぐの通り道で許されるわけがない。
 「いまのままでこれからもと言う者もあろうが、それは不可能に近い。いまもままを続けるためには、単なる権力の放棄以上にもっと思い切った改革が必要であろう。しかしできることは限られている。何であれやり遂げるためには、私が旗本・大名両制度を廃止せざるを得ないだろう。しかし両方とも私自身の身内だ。そのみんなを捨てるということは、自分の骨肉を引っ張り出して粉々にし切り刻むよりつらい……。
 「現状は、同様に、洋式の戦力に大変化している。将軍家臣も海外へ使節団として派遣されている。皇居から見れば、彼らは家臣の家臣で、2階級下の家臣たちだ。日本がこのように第2の階層代表を世界の王位に差し向けることは礼儀に反する。それが一旦、政府法令の出処が一つになれば、徳川の家臣が海外に派遣されようと、彼は天皇の命により行動するのであって、日本政府のれっきとした代表と言うことだ。そこには何の変則も違反もなかろう。
 「いまや各藩主は各自で戦闘を行っており、それは戦国時代のときと同じだ。幕府の権威はすたれ、各藩主は招集されても集まらない。こんな状態で日本ができることは、300藩をバラバラにして、小さな地所だらけにすることだ。もし徳川家が政府権力を天皇にお返しすれば、統一も復活しよう。この案でこそ国土の平和と秩序が保たれよう。300年以上前に家康はこのことを念頭に置いて将軍制度を打ち立てた。いま、同じ目的で、私は権力を放棄する。神聖な先祖と同じ目的だ。彼が作ったものを放棄することで、私は彼の思いを遂げる」。

 何時間も話を繰り返した後、最後に彼はこう言った。
 「ご異議あるならば、遠慮なく申し出なさい」
 誰も申し出ない。
 すぐに驚きが広がり、次いで催眠術をかけられたように彼らの意識はもうろうとなった。「我々はあの弁舌さわやかさに酔っぱらった」、一人がこの独特の会場模様を報道陣にこう語った。

 「ありがとう、それでは。天皇に政権をお返ししよう」、全員に目を向けて満足そうにうなずき、慶喜はこう言った。彼が立ち上がって部屋を出てそれから10分間、みんな魔法にかかったままだった。それから大声が飛び交い、全員長老と監査役の回りに群がった。が、事は終わっていた。彼はあえて異議を許したが、だれも茫然自失から目覚めなかった。そしてかれが「ありがとう、それでは」と言って、部屋を後にすべく立ち上がったとき、だれも目覚めていず、彼の袖をつかんで引き止めるゆとりはなかった。

 「明日、全ての藩の前家臣を招集されたい」、と慶喜は命じた。これは驚きだ。家臣たちは将軍に謁見できる資格はない。幕閣一同で話し合ったあとで国中の大名を招集する方がもっと要領を得ているだろう。大名たちは個別に将軍と対面する資格があるのだから。しかし慶喜は首を横に振り、こう言った。「大名に何ができるか?」。
 権力が大名から皇族に移譲されてしまっていることを彼は知っていた。今なすべきことは彼ら家臣たちに訴えかけ、世論を彼の側に引き入れることだ。翌日、閣議は所要の手続きを終えた。

 11月8日午後、30以上の藩から40人以上が二条城に集まった。慶喜は結論とそれに至った経緯を説明した。最後にこう言った。「もしどなたでもこの案に異議があれば、これから個別に会して話し合いたい」。
 みんなは将軍のすさまじい自信に、一瞬にして未だかつてない驚愕を受けた。彼はこの討議のために喜んで個別会談を許した。薩摩、安芸、土佐、備前、宇和島、5藩の6人が彼の誘いの応じた。その中には、薩摩の小松帯刀と土佐の後藤象二郎がいた。その小会合で、怖いものなしの後藤は、それでも将軍との初めての体面に圧倒されて、額にも首にも大汗した。彼らはどんな異議も唱えることができなかった。一言も発せられず、慶喜にただただ平伏するのみで、彼の決意をもろ手を挙げて称賛した。慶喜はこの機会を捉えて、別の異な言葉で締めくくった。
 「いや~、何か話したつもりだが、覚えていない」
 何年か経って明治時代の終わりころ、慶喜は自伝編集者の質問に、そんな即興で答えた。
 6人はただただ平伏し、慶喜の勇気を称賛し、讃え続けた。
 彼らは夕暮れまで城を去らなかった。この案の提案者たる後藤は、そのあと摂政に謁見したため、発案者の坂本龍馬が彼の独創案の運命やいかにと宿で待ちわびているのに、時間はどんどん過ぎ去った。ただ一点、坂本は落胆し、流血騒ぎは避けられないと仲間に語った。しかし最終的に後藤から急ぎの報告が届いた。その知らせを受けて、坂本の興奮は頂点に達し、ドサッと横倒しに倒れ、顔をしわくちゃにした。将軍職を放り投げさせるための何年間かの葛藤の後、彼は感情をもろに出してこう言った。「この日、将軍のお気持ちはどうだったか! そうなされたこのお方はなんと勇敢な方か! この素晴らしいお方のためならいつでも命を投げ出してみせる」。
 しかし日ならずして、坂本自身が京都で幕府の暗殺団にしてやられてしまった。何年かたって、慶喜は明治維新関連の文献を読むのを楽しんだ。城の外で起こっていたこんないろいろな出来事を後で知ったのだった。

 2日後の11月10日、大政奉還案が公式に皇居に承認された。事は終わった。
 というか、むしろそれから、様々なことが起こりはじめた。
 薩摩の流血クーデターの企みはうまく防ぎえたが、一団はまだあきらめていなかった。逆に彼らは遅れるのはどうしようもないと受け入れ、好機を待っていた。ただ待つのではなく、武力蜂起のチャンスを求めて、幕府を挑発するあらゆる機会をうかがっていた。彼らは浪人たちを江戸に行かせて、将軍の町で放火、家屋倒壊、略奪等、非道の限りをやらせた。なお悪いことには、彼らは慶喜に可能な最大の処罰を与えるよう皇居をあおり、大政奉還のみならず、職務の撤廃と広大な徳川の用地没収を要望した。