最後の将軍
The Last Shogun

徳川慶喜の生涯
The Life of
Tokugawa Yoshinobu

原作: 司馬遼太郎
英訳: ジュリエット・カーペンター
英文和訳: 小芝 繁
本書紹介と翻訳者の言葉
01. 大望 10. 蛤御門の変
02. 将来の将軍を育てる 11. 家茂の死
03. 好機を逸する 12. 気のいい酒好き
04. 安政の大獄 13. 大失態
05. 殿中へ 14. 15代将軍
06. 敵を知り己を知らば 15. 降伏の決断
07. 思い切った行動 16. 大坂へ撤退
08. 慶喜のだまし技 17. 逃亡と余波
09. 運命の歯車 原作者のあとがき
12. 気のいい酒好き
 慶喜はしぶしぶ将軍にされた。
 1866年8月29日。前の将軍家茂は大坂の病床で息を引き取った。家茂の終焉に驚き慌てて、幕府はその死を秘密にし、こっそりと慶喜を後継に推薦した。宮中はこの推薦を当然として了承し、松平春嶽と他の有力大名は慶喜に同意を懇請した。しかし慶喜は強く固辞した。

 何の見通しもなく時は過ぎ去る。

 表向きには、家茂はまだ将軍であり、公式文書は彼の名入りで公表されたが、事実として家茂の死体は、うだる暑さの中で、大坂城内に隠されていた。

 「どうすればいいのだ?」、孝明天皇は悲嘆にくれ、怒りを込めて叫んだ。病的に保守派の彼は、幕府支持では抜きん出ており、現状の宮中幕府組織を熱烈に支援している。日本の日本たる所以は将軍がいてこそ、と彼は信じていた。彼の見立てでは長州は反逆藩で、反逆をもって足場を固め内戦をあおり、外国勢は外側から日本を凝視しており、何かあれば真っ先に占領しようと構えている。こんな時、〝野蛮人鎮圧総司令〟本部がもぬけの(から)でいいのか?
 しかしどんな理由であれ、慶喜は屈しなかろう。
 幕府にはほかに適切な人材がいない。その任務に対する何らかの伝統的な考えの持ち主もわずかいたが、取るに足らなかった。江戸大奥の女たちが期待してる田安亀之助はまだ幼児だし、田安家当主の父慶頼は馬鹿だった。尾張の大名徳川慶勝はもはや歳も歳。事実上、慶喜の他に誰もいない。慶喜自身も鋭く目を光らせた末、よくお見通しだった。それでもまだ、誰彼の別なく彼の確固たる信念は、将軍職拒否。二言は絶対ありえない、だった。それもそのはず、大名の間ではときに、〝頑固一徹〟と言われていた。

 多分の話、慶喜は強い個性を有していたから、彼に対するあだ名はいくつもあり、〝頑固一徹〟は中でも一番好意的な名だった。京都を敵視する江戸の旗本は、裏で彼を〝二面男〟と呼んだ。彼が宮中と親しい関係にあり、それはいつ徳川を裏切るやもしれぬという意味合いだった。彼らの内々の話し合いでは、彼を公式名の一橋家当主とは絶対に言わず、常に〝二面男〟と囁きあった。あだ名の由来は、勿論彼の出が水戸藩だからで、頭脳明晰で機敏という印象が余計にこの名を確からしくしていた。
 もう一つ、将軍が野営する際の取り巻き連中や江戸の庶民たちによって評判になったあだ名〝豚喰らい〟だ。父の水戸斉昭や日本を神の国呼ばわりする水戸学者連とは違って、慶喜は洋食にあこがれ、食卓にまで反映されていた。牛肉や豚肉が毎日彼を喜ばせようと横浜から届けられた。このあだ名は、四つ足獣の肉を食べて自分を傷つけているとの意味合いで、とんでもない侮辱だ。家康の時代からずっと、だれも徳川家を結び付けての軽蔑的なあだ名を下々から浴びせられるなんてありえなかった。
 慶喜に家茂の後継になることを熱心に勧めている松平春嶽は、慶喜に新しいあだ名をつけた。「彼は〝気のいい酒好き〟として知られている」、と。普段このあだ名は酔っぱらってろれつが回らず人を罵倒するような男を指す。しかし別の意味もあった。宴会で十分に飲んだと言い張る男が、それでもまだ無理に勧められると、今度は驚くほどの量を飲み続ける、そんな男だ。誰かが無理に勧めない限り、威勢が良くない。見たところ、春嶽の言う〝気のいい酒好き〟は、この後のタイプだった。

 こんな舞台が重大局面でほの見えた。家茂の死後、丸々1週間たち、春嶽は二条城近くの慶喜の邸宅を訪れた。午前10時だった。
 邸宅は小ぶりだ。春嶽が玄関を入ったとき、そのすぐの部屋に大老職の板倉勝清がいた。彼は慶喜を何とか説得するためにその部屋に居続けている。その朝、気温はすでに暑い。果てしのない慶喜説得で疲れ切り、板倉は襟を緩めて座っていた。その恰好は大名としてはいただけない。そばで家臣がうちわであおいでいた。
 春嶽の訪問に驚き、板倉は慌てて襟を正そうとした。が、春嶽は止めた。「いいんだよ。気にするな」と言い、素早く彼も着物の襟を緩めた。「無茶に暑いね」と言いながら。この男、相手にうまく合わせる和やかな度量の持ち主だった。
 板倉はヨーロッパの首相と同レベルの大老職。「いい話が出ましたか?」と尋ねると、板倉は落胆をもろに表し、「全然だめです」と。「一橋公は〝はい〟の言葉すら忘れてしまっているようです」
 しかし慶喜と板倉の話し合いの模様を詳細聞くにつれ、春嶽は微笑んだ。「貴殿のそこまでの話で、いいところへ来たじゃないですか、と私は言いたい」、と春嶽。
 「本当ですか?」
 「勿論。私は真剣ですよ。彼はいわゆる気のいい酒好きです。十分飲んだ後でももう一杯を欲しがる。十分時間をあげなさい。彼は戻ってきますよ」

 しかし、気のいい酒好きたちは普段そんな自身の癖を知らない。慶喜の今もそうだ。要請に対する拒否は絶対に策略ではない。むしろ、拒否するのが彼の義務だと感情的に認めていた。慶喜の知性をもってすれば、この現状はあまりにも見え透いていた。いま将軍になればどんないいことがあるのか?
 第一に、将軍として彼が統率することになる江戸の者たちにあまり敬愛されていないことは誰よりもよくわかっていた。そのとおりで、彼らは真っ向から反逆しかねそうだった。一旦将軍になれば、幕閣は職務怠慢を始めよう。慶喜にとってさらに厄介なのは、そう考えているのは将軍臣下だけではないのだ。水戸家でさえも、藩斉昭派は、もし慶喜が将軍となれば、身の危険にさらさようことを知らしめるために、必要に応じて武力で差し止める用意がある。

 それよりももっと恐ろしい状況が京都で浮かび上がっていた。豊後藩主阿部と伊豆藩主松前は前もって老中職を解任されており、両藩の家臣たちは慶喜の部屋の扉に中傷のビラを貼った。慶喜は京都駐在各藩合同会議でこの一部始終を聞かされており、世間にはこう流布された。「もし一橋公が将軍になり、彼への忠誠を誓わされれば、我々は武士として一日たりとも生き続けるわけにいかない。そんなことが起こるとすれば、我々は刀を引っ下げて一橋邸を襲う」。
 これまで将軍に推挙された誰一人としてこのような敵対に晒されたものはいない。
 「私は心底将軍になりたくない」、慶喜は最側近の原市之進に打ち明けた。しかし原といえども、慶喜が思いの丈を言っているかを疑った。その朝、春嶽に会う前に、慶喜は原にこう言った。「ありえない。もう徳川幕府の命運は尽きている。崩壊もほど近い。あと1年か、それとも2年以内、と私は思っている。いま将軍になるということは、それこそすでに火の海となっている燃え盛る建物に向かって真っ逆さまに転落するに等しかろう」。
 不運にも、彼は将来をこれほどあからさまに見通していたのだ。
 「いま将軍になれば何ができるかね?」と彼は尋ね、原は理解した。日本がもはやこれまでの旧式制度を続けるわけにいかないことは見る目を持つ誰にも明らかだ。1853年に至るまで、京都の皇居は純粋に装飾的役割を果たしてきた。が、しかるべき藩や人物によって後押しされた結果、皇居は、今や最悪の事態たる国家行政への拒否権を行使できるようになった。行政の二枚看板だ。幕府は海外政策一つでさえ何もできず、身動きが取れなくなっている。

 英国の外交官たちはこの異常事態を見て、ヨーロッパ風の見立てで、日本国の政策とやり方をこう説明した。日本の君主は皇居に住まい、将軍は単に皇居から統治をゆだねられているだけだ、と。だから、将軍を日本の王冠の座と理解するフランスは間違っている。この意見は横浜居留地の新聞に公開され、薩摩と長州の者たちとの共同作業だった。さらにこう言う。将軍は全国大名のトップの座でさえもない、と。
 不幸にも、このヨーロッパ風の見立てを最大理解している人物は慶喜だった。彼はこの見立てを概ね的確をした。豊臣秀吉も徳川家康も徳川家と関係のない大名たちのトップだったし、専制君主でもなかった。両者とも他の領主たちによって封建制度の頂点、つまり関白または征夷大将軍、に位置するように推挙された。彼らの勢力が最高度に盛り上がったとき、将軍は実際の君主のように他の大名を統率したが、幕府の権威が廃るとともに、統率力も弱まり、事実上将軍が単なる最高位であり、統治者ではなくなってきた。その傾向は長州に対する二度目の懲罰遠征で明らかになった。薩摩は幕府の要請に従わず、兵士の派遣を拒否した。厳密に言って、将軍からの命令は君主の命令と同じからず、だからだ。薩摩藩は今回の不服従を不忠行為とみなさなかった。明らかに将軍は究極の統治者能力を欠いていた。
 先導者として成功するには強い戦闘力を要する。慶喜にはそう思えた。戦闘力は3世紀にわたって徳川家に300の家臣を従えさせた。家臣たちは徳川の武力の威光の下で生きてきた。しかしいま、その力は悲しいかな衰えている。未だ続いている長州征伐で、幕府部隊は外様藩にまずくも37万石相当を取られている。敗戦の報は長州の戦場から届いていた。将軍職は最後に残された力をも失いつつある。慶喜には、そんなときに将軍になることが何を意味するかは分かり切っていた。「裏切り者として歴史に残ることになろう」、彼は原にそう言った。

 徳川幕府は崩壊の運命にあったが、終焉は枯れ木が風に倒されるような、そんな単純な予想通りではなかった。では、予想通りならば、どうだ! たとえ一日だけでも将軍になり、歴代の大物たちに仲間入りという栄光を得るという、それこそ素晴らしかろう。しかし歴史の教えでは、権力崩壊は樹木のような平和裡にというわけにはいかなかった。彼の出処である水戸家、学者に囲まれたゆりかご、はただただその信念を強めた。水戸流の歴史の味方は彼の理性的な気性と折り合いがよくなかったが。彼の考え方や各種出来事の理解は、歴史が根底にあった。そして彼の把握する歴史には、弱り切った権力が自然成り行きの平和的大団円に生き残るといった事例はなかった。新しい何者かが地平線上に現れ、天皇を崇拝し、旧来の権力を反逆と決めつけそして国中からの支援者と一緒に攻撃を仕掛ける。慶喜は、もし将軍になれば、さしずめその攻撃の標的となろう。
 「もしそうすれば、大馬鹿者になろう」、彼は意気込んで話し終えた。すべてをじっと聴いて、原市之進は慶喜の聡明さに思わず息をのんで頭を下げた。その彼の胸を打ったのは、将軍になることについて慶喜が全面的に反対はしていないということだった。容認されそうな人物は限られているが、仮に他の誰かが将軍になったとすれば、慶喜が不快感を表すことは明らかだろう。事実、原は中川親王と松平春嶽の両者に話した通り、慶喜を推挙するに妥当な主張を展開していた。
 原は変わった男だ。水戸では熱烈な尊王攘夷派だったが、慶喜の側近になると同時に宗旨替えし、開国の必要性を確信した。彼は古い仲間の武田耕雲斎らを打ち首の刑に処するよう慶喜をけしかけた。とどのつまりはさらに一歩踏み出して、尊王(天皇崇拝)論をも破棄するに至った。

 「天皇崇拝は精神論であって、政治的綱領ではない」、彼はこの言葉を好み、「宮中の連中がどこまで傲慢になろうが、私の目の黒いうちは彼らに幕府に対して指一本触れさせない」。
 原市之進は追随を許さない教養と能力の持ち主だった。こうした授かりものにあずかった者たちは特別の主義または信念への献身によってよりもむしろ彼ら自身の限界について度重なる試練によって最大の動機付けを得る。原の野望に限界はなかった。彼は慶喜を将軍にしなければならなかった。これが成されれば、国中の統治は彼、原の手に帰することになる。
 でありながら、慶喜は迷い悩んでいた。ちょうどフグを食いたい者がその毒を恐れているように。将軍職からその〝毒素〟を取り除く何らかの方法を見出すことが原の役目であり、極め付きの難題で、彼の全身全霊を要求している。
 原には、慶喜も彼に劣らず夢中になって同じ問題にはまり込んでいるように見えた。その朝、食後、彼は原を呼んで「そろそろこの話止めにしないか?」、と言った。彼の言いたかったのは、政治力の主張を断念しようよ、だった。これは、深慮の末に彼が到達した結論ではなかった。というよりも、彼は何とか自分の思いが叶えられないかと、漏らしていたのだ。他ならぬこの信頼する側近となら心を開いていた習慣なのだ。まだ思いを果たしたい段階にありながら、彼はあたかも確固として結論に達したかのように、「他に道はない」と付け加えた。

 彼は徳川幕府から政権をはく奪しようと提案している。その権力を虎に例えるとすれば、間違いなく本物の虎が死んでいるのだ。仮にそこまでいっていないとしても、死と同然で、内臓の九分九厘は使い物にならず、鼓動も聞こえづらい。この死体同然の虎に命を注入することはヘラクレスのような超人資質の持ち主の仕事だ。路上に放ったらかしにする方がよい。宮中か薩摩に見つかるように。いずれにしてもそうするのが得策だ。壁際に追いやられたら、ただ一つ残されているのはこれまでの考え方を変えて頭の体操の離れ業だ。この場合、徳川家が一大名になり下がることが条件だ。市之進はこの考えをどう思うか? 慶喜は知りたがった。
 「んん~ん」、原は声を失う。数秒間、彼は凍えた感じで息も継げず、慶喜を凝視し、見る間に玉の汗が額を蹴破ったかのごとく浮き出た。「もし私に言わせてもらえば」、と彼は言葉を選ぶ。「殿は時々あまりにも遠くが見えすぎるのです」。言い換えれば、慶喜は船外に出てずっと遠くを見ている。原の見立てでは、政治はいま直面する現実にもっと近づいて対峙することを要求している。慶喜自身徳川の皇族で、それでいて彼は徳川の政権の将来を冷静に話し、何の私的な意固地さも責任感もなく、ちょうど一般の武士や学者が為すように、歴史のまな板にそれを乗せて冷徹に解剖している。
 こんなことあってはいけない。慶喜自身がいつ何時でも次の将軍になりうる立場にいて、あたかも知ったことかとそれを退ける、それは最もあってはならないことだ。
 それで彼は水戸藩の出だから、自身の考えをぶしつけに郷里に押し付けようとする。「不幸は殿の舞台裏で始まるという」、と。言い換えれば、上司は、その最側近であろうと、絶対に不謹慎な言葉を滑らせてはならない。なぜなら、そんなことすれば、言われたものは不幸を被るだけだから。「殿がいま私に言われたことを他のどなたにも漏らしてはダメですよ」、と原は慶喜を諭した。
 「わかった」、慶喜は顎を撫でて、顔にマスクを当てたそぶりをした。自身に潜むこの欠点を自覚し始めたようだ。政治を司る者として、彼の心の内は鋭すぎたのかもしれない。もし自分の思いを自身のみに納めれば全てよしだろうが、馬鹿者たちとの話し合いになるといつでも心の底をぶちまけざるを得ないようなのだ。ということで、彼の心の内は広く遠くまで伝わり、おそらく不要な誤解の種をまき不必要な敵を生み出すことになろう。

 慶喜はやっとそこで立ち上がり、絹の袴をサラサラと音させて、春嶽の待つ応接間へ向かう。彼は性懲りなくまたやって来ていて、将軍職を慶喜に強要するのだ。
 慶喜がいつものとおり床の間を背に座ると、春嶽は公式通り彼に向かってひざまずく。そして少しずついざり寄って、小鳥がさえずるようなすがすがしい声でこう言う。「もう時間がありません。ご決心なさいましたか?」。
 「ダメだね」
 まるで望みなし。もはや将軍になりてなし。幕府はこれからずっと無法状態だ。原市之進との会談もその時一瞬の反省も忘れて、慶喜は現状の的確な判断に向かって一歩踏み出している。
 「ダメって、どういう意味ですか?」、春嶽は戸惑いながら聞き返す。
 「考えてごらん。いまの権力構造は時代遅れだ。誰もうまく操れなかろう」
 徳川家康によって戦国時代の大混乱を終わらせるべく作られた制度がまだ生きているのだ。260年の及ぶ遺物が。外国勢とその彼らが持ち寄った見慣れない数々と付き合うために、こちらが依拠する制度はその制度以外に何もなくいかなる努力も報われない運命にある。新しい現実は新しい仕組みを要する。これが彼の論旨だった。
 春嶽は聞き上手だ。ほとんど自らはしゃべらず、時々慶喜がいいことを言うと深くうなずく。慶喜は勢いを得て、ますます多弁になる。
 「それで、我々は旗本制度を生かせる(すべ)はあるか?」、彼は追及した。
 非常に微妙な問題だ。2世紀半にも亘って、旗本は何もしないできた、と慶喜は指摘する。おそらく武士が仰せつかった義務が幕府の警護だとすれば、事実上旗本は為すべきことを何一つ為していない。現在の武士は銃を背負い、大砲をぶっ放す能力を要する。しかし旗本が頑として譲らないのはこんなことは下級の足軽の仕事であり、銃を手にしてのいかなる訓練をも拒絶している。とどのつまりが、一般庶民から新規の歩兵を募集しなければならなくなっていた。勿論春嶽が気付いているように、幕府のフランス式歩兵及び大砲隊はともに募集による。彼らは長州征伐にも駆り出された。が、旗本は? 彼らは江戸で馬鹿天国を謳歌し、俸給をむさぼっている。世界中のどの国でも何万という俸給泥棒とさらに何万という新しい応募者を養うことはできなかろう。財政破綻は見え透いている。これだけでも幕府の崩壊には十分だ。旗本は国を食いつぶしている。
 「あぁ」、春嶽は返答を迫られた。確かに明晰な頭脳の持ち主は慶喜の言わんとすることを難なく受け止めていた。徳川幕府救済の唯一の道は、幕府が自らを見直し、封建制度をやめ、西洋式の権力集中政府、例えばフランスの現権力者ナポレオン三世の政府らしき政府を作り上げることだ、と言っていた。そうなれば、当然300もの大名がこぞって失職する。「彼は的を射ている」、と春嶽は思った。彼自身禄高32万石の越前藩主だ。

 春嶽がよく知るように、慶喜が口にした考え方は、薩摩や他の西側の大名たちに広がっていた。その発祥元は勘定奉行の小栗忠順(ただまさ)だと言われていた。彼はこの考え方を米国旅行中に習得していた。ある者によれば、彼は外国奉行の栗本鋤雲(じょうん)の影響を受けていたと言い、またある者はフランスタイシノレオン・ロックスから直接教えられていた、と言う。噂によれば、慶喜はその考え方を支持していると言うが、春嶽は慶喜とロックスにほとんど接点がないから、決してそうとは思っていなかった。が、ここにおいて、どうやら改宗者ならぬ、疑いかかっているようだ。
 「彼がいやいやでも認めるなら、それが正解だ」、と春嶽は思った。慶喜はフランスが好きだとして知られていた。そして一度はフランス語学習を始めさえした。彼はまたフランスの兵器や軍事訓練にあこがれ、フランスの政府機構と歴史について聞きたがった。イギリス大使のパークスや他の大使たちが将軍を〝殿下〟と名付けたのに対し、ロックスだけは〝陛下〟と呼び、家康からの子孫は日本の王冠を戴いていると確信していた。ロックスが国家再興について彼の考え方を慶喜に授けたのは言うまでもない。
 春嶽の知識はこれほどではなかったが、振り返ってみると、ロックスは、ナポレオン三世の執事として、自らをそんな状況に同化できる心理的用意ができていた。彼の(あるじ)チャールス・ルイス・ナポレオン・ボナパルト三世が置かれた状況は慶喜自身の現状に似通っている。有名なナポレオン一世の甥として、彼は、実の兄とナポレオンの子息レイクスタド公爵が同様に若死にしたため、跡を継ぐことになった。ナポレオンの時代はフランスでは終わり、歴史の影に追いやられたが、ナポレオン三世は軍隊を結集して自身を皇帝だと宣言した。そのことで彼は捕らわれ、米国へ追放されたが、1848年の革命後、国会議員になり、sのご大統領になり、遂には1852年、国民投票で皇帝に選ばれた。ナポレオン三世は、外交に留まらず日本に非常に興味を持ち、幕府の現状に同情した。日本にやって来て将軍に彼の今までを参考にするよう話したわけではないが、ロックス大使を通して彼は近づいた。
 全てが結構なことだった。
 春嶽を心配させたのは、小栗らのこのやり方は間違いなく強力な西側各藩を怒らせるだろうということだった。小栗の考え方、それは評判の噂によると、徳川家による中央政府権力を打ち立てるために二度目の関ケ原の合戦(家康を統治者に祭り上げた1600年の合戦)を期待していた。幕府のフランス式軍隊は大いに拡大し、相手が長州であれ、薩摩であれ、土佐であれ、春嶽の越前であれ、他のどこであれ、全ての反幕府勢力を根絶するために動員されるはずだった。それによって一撃のもとに封建制度を崩壊させ、新しい徳川政権が発足することになろう。これを聞いて揺るぎない親幕府派である土佐の山内容堂さえ憤って畳座敷をひっぱたいた。春嶽はその時そこにいた。
 そんなうわさが広まりはじめたとき、薩摩の幕府に対する態度が突然変わった。こんなこと、反徳川の外様しかやらない、と春嶽は思った。がここで慶喜は厚かましくもそんな危険なやり方を彼に話している。
 「私は徳川傍系だから、それはそれでよい。が、もし他の大名がこれを聞けばどうなろうか?」、そう思い、話をそらそうとした。そうしながら彼は慶喜をいさめようとした。しかし慶喜は、春嶽の心の内を早くも読んで、顔で彼をとどめた。そして手まねで、邪魔しないよ、と春嶽に示した。結局は気の弱い皇族の春嶽は、黙ってうなだれた。その頭上で慶喜は続ける。
 「もし徳川幕府が崩壊の運命にあるのなら、我々は次の将軍を選ぶべきではない」。ここで彼が意味した〝我々〟は、徳川一門だった。彼の時代が終わるまで、春嶽は驚くことなくそうした言葉を思い出せなかった。慶喜の分析はまるで彼が近代法学に通じているかのごとく、論理的で鋭かった。論理的に言えば、将軍の存在は背景に優れた軍事力があり、最高の(あるじ)たるその地位は面前で忠誠を誓った全ての大名の支援を得た名称であり、かつ実質を伴っている。家康がそうだった。もし軍事力が時の経過とともに衰えでもすれば、大名たちは将軍を彼らの主だとあがめる責務から解き放たれよう。先例で云えば、戦将織田信長(1534-82)だ。彼は足利将軍を見捨てた。自分たちの新しい主を選ぶ権利は大名たちにあったのだ。
 「なに? 大名が将軍を選ぶ?」、春嶽は驚きを隠さない。
 「そうだ。我々は大名たちにまかそう」、理論家の慶喜は断言した。
 春嶽は明らかにバランスを崩して、何も言わない。彼はどんな返事も浮かばないのだ。慶喜の言葉はそんな命令口調で発せられ、それは急所をえぐるがごとくで、彼を完膚なきまでにした。しかし慶喜の言の理論的枠組みは反ばくを許さない傑作だった。春嶽は異議を唱えられなかった。どうしようもなく、「殿は全ての大名を集めるつもりですか?」、とだけ言った。
 慶喜は肯いた。勿論300の前大名が一堂に会して議論し、主を選ばなければならないだろう。権利は彼らにある。
 これを聞いて春嶽は、出口が見えたと感じた。大名の中には大勢の馬鹿、全くの大馬鹿がいますよ、と彼は指摘。そんな彼らは、ただただ混乱に陥って、目的そのものを失わないだろうか?
 「大名たちはそんなわからん馬鹿たちにかまわず、断を下すということもあろう」、と慶喜。選ぶ権利を有する者たちはお互いの納得ずくで推挙するものを決めることになろう。このやり方で選ばれた将軍はもはや将軍ではなく、大統領と言ってもよかろう。ナポレオン三世は1852年にクーデターを起こし、その結果一般国民投票で750万の投票を得て、10年間の大統領に推挙された。多分このことがいまもって慶喜の腹の底にある。
 彼は続ける:
 「春嶽殿、貴殿がおっしゃるように、大名は全て賢者とは言えない。しかし馬鹿どもはここから彼らの里に帰り、賢者のみが残ることになろう。彼らはこぞって将軍を選び、そのあと、それぞれグループ分けして、望むべき将軍政府を打ち立てるためにその政府の在り方についての熟考段階に入る。そしてこういうことになろう。幕府閣僚の大半を解雇、事務方を削減、旗本二重を供与、江戸城の護衛は足軽に至るまで全ての者が兵士になる」。
 春嶽は極めて安堵した声を上げた。これは小栗の考え方とは全く異なる。大名は残ることになろう。政府の諸事は選ばれた将軍と有能な大名の組織によって共同で営まれることになろう。「そうだ」、と春嶽は内心で、「これが徳川家とわが国を救う唯一の道のようだ」と納得して肯く。
 彼は頭を上げ、いざり寄ってこう言う。「どうぞお答えください。選ばれて先頭に立つお方、それがあなたになるとすればどうなさいますか? まさかあなたはそんなときでも断られることはないでしょうね!」
 「勿論ないよ」、慶喜はすぐにほほ笑んだ。「私は常に理屈に従う。もしそんなことになれば、私は喜んで承諾しよう」
 「そう伺えてほっとしました」、と春嶽は胸をなでおろし、さらに別の案件を取り上げる。徳川家当主の継承だ。彼はこう聞いている。慶喜は、大老の板倉勝清に告げたところによると、将軍職は引き受けないが、徳川家の当主になることは承諾する、と。徳川の家系は私的なものと、慶喜は理屈づける。徳川幕府が崩壊しようと、徳川家に影響を及ぼすことはないし、誰かが跡を継いで、これまでどおり先祖代々の(まつりごと)を執り行うことになろう。こちらは公的な将軍職と違って私的事項であろう。慶喜は高度な理屈やで、二つが別々であると主張して譲らない。
 常識の持ち主として、春嶽にはこれは屁理屈だ。将軍と徳川家の当主は本質的に同一人物であり、当初の家康のときから誰一人として別々だと考えたものはいない。それでいて春嶽はこの大の理屈やとこれ以上議論しようとは思わなかった。しかし、彼が言ったことを確からしく受け止めたかった。
 「あなたは徳川家の当主を継ぐとおっしゃっています。心変わりすることはないですね?」
 「私はどうしてもそうありたいとは思わないが、そうしなければ先祖代々に足を向けることになる。拒否する理由が私の中に見当たらない。だから不承不承に徳川家の当主になることには同意する」
 「本当ですか?」
 「そう、本当だ」、と慶喜は断言する。
 その言葉が彼の口から出るや否や、春嶽は勢いよくうなずいて叫ぶ。「何とうれしいことを伺えたか、言葉にできません」、と。

 これを自分だけに留めてはなるまいと、すぐ彼は別室に引き下がる。そこに座って今か今かと待ちわびていたのは板倉のみならず、病気を押して病床から這い出てきた松平容保とその弟松平定敬(さだあき)もいた。春嶽は部屋に入ると急いですべてを話した。
 彼らは一同目を見合わせた。
 そのあとすぐに会議がはじまった。慶喜の論理は彼らを引き付けたが、理解しずらそうだ。が、一つ明らかなこと。それは、彼は次の将軍になることを嫌がっていない。彼らがこぞって受け止めた印象だった。
 「なんと、なんと」、と正直居士の松平容保。
 「春嶽殿の彼の見立ては間違っていない。彼はその上〝気のいい酒好き〟だ」