最後の将軍
The Last Shogun

徳川慶喜の生涯
The Life of
Tokugawa Yoshinobu

原作: 司馬遼太郎
英訳: ジュリエット・カーペンター
英文和訳: 小芝 繁
本書紹介と翻訳者の言葉
01. 大望 10. 蛤御門の変
02. 将来の将軍を育てる 11. 家茂の死
03. 好機を逸する 12. 気のいい酒好き
04. 安政の大獄 13. 大失態
05. 殿中へ 14. 15代将軍
06. 敵を知り己を知らば 15. 降伏の決断
07. 思い切った行動 16. 大坂へ撤退
08. 慶喜のだまし技 17. 逃亡と余波
09. 運命の歯車 原作者のあとがき
09. 運命の歯車
 1863年12月6日、慶喜の二度目の京都行きは、幕府の蒸気船〝ハンド丸〟にて。最近の出来事は幾分慶喜に味方して起きていた。江戸滞在中の9月に起きた政治騒動の結果、長州勢は、7人の尊王皇族とともに首都を離れ、皇居を尊王過激派もぬけの空にした。しかし、別の頭痛の種が芽生えた。それは薩摩で、会津藩と組んで長州を首都から追い出し、今や首都の唯一最大勢力だ。ちょうど昔の源平盛衰記を思い出させる。
 (源氏は、引き潮の如く首都での勢力を平家に取って代わられた後、1180-85年は源頼朝の統率のもとに巻き返した。遂には東日本全体を支配し、軍事国家を樹立し、それから700年近くに及ぶ日本武家社会の時代を開いた。)

 慶喜が出発したすぐ後、渋沢栄二郎と従弟のキサクが平岡円四郎宅を訪ねた。平岡はその時すでに京都にいる。
 彼らは排外部隊結成の企てに失敗し、今度は京都へ行って情勢を自らの目で確かめようという算段だった。道中いざこざが起きないよう、彼らは平岡円四郎のにわか臣下を望んだ。平岡はすでに承諾しており、もし留守中に彼らが来たら、望みをかなえてやるよう言い残していた。二人は厚遇を受けた後、陸路京都へ発った。

 到着するや、彼らは慶喜やその取り巻きが泊まっている東本願寺の近くに宿を決め、平岡に通知した。
 その日から、二人はあたかもれっきとした一橋の家臣のように東本願寺境内をひっ切りなしに歩いた。平岡は二人に一橋家の本来の家臣になるよう強く勧めた。平岡によれば、一橋家では大名は家臣にはなれない。だから相談相手がいないのだ。江戸から同行したのは将軍家軍事教習所の200人と水戸藩の10数人及び一橋家の家臣のみ。「だから兵士は少ないし、役に立ちそうなのはいない」、と平岡。
 これは大変なことだ、と渋沢は思った。彼らが、彼のように前歴が百姓で、外国勢撃退・幕府転覆を目指して武装蜂起を企む者を取り込もうとする何よりの証拠だ。
 平岡は、慶喜の日常の食事について渋沢に話した。好みは豚肉。彼を喜ばすために、出入り自由な横浜港から豚肉を届けるよう言い張る男が、真の排外思想の志士、つまり神の国に正気をもたらすものとして評価されうることが本当に可能か?

 「驚くかね?」、平岡は若者をじっと見つめながら尋ねる。明らかに若者を啓発し、慶喜のように考えさせようとし、若者はこれに倣った。平岡は続けて、「殿は何より乗馬が好きだった」、と。
 慶喜は、毎朝夜明け前に、愛用の駿馬〝稲妻〟の洋式鞍にまたがり、2~3時間稲妻並みの速さで疾走した。彼は洋式の乗馬を愛好した。
 京都での幕府部隊長であるタカシ大隅藩主に猟犬ポインターを数匹もらった後、すぐに飼いならすコツを覚え、日ならずして師匠をしのいだ。少なくとも豚や馬に関する限り、慶喜は明らかに頑強な排外思想の忠臣が忌み嫌う西洋かぶれだった。

 慶喜はまた写真撮影されるのを好んだ。二度目の京都入りを祝って撮った写真では、ソファに儀式ばって座り、後ろは10数丁のライフル銃が並べて立てかけられていた。平岡は説明する。「志士たちはこれを見たら大騒ぎするだろうが、ライフルや4ポンドの鉄砲は国を救うための武器だと、殿は誓うだろう」、と。
 平岡は殿への敬意を込めてこう締めくくった。「どうだ、殿はあっぱれな素質の持ち主ではないか?」
 渋沢は、外国勢撃退。幕府転覆ののろしを上げる一方で一橋家に対する忠誠を誓うというどうしようもない矛盾と、それでも平岡が慶喜について話した事柄に段々と虜にされる思いを肌で感じた。

 開国に向かっての立場はどうであれ、慶喜は国を混乱にまみれた現状から脱出させてくれるように思えた。そして渋沢にはもう一つの思惑があった。いまや世間の耳目を集めている一橋家だ。その家臣という頼りどころを得ることによって人生を通して重要な何かを成し遂げられるかもしれない。渋沢は平岡の勧めを受け入れる決心をした。

 唯一の問題。それは彼の世間体が農夫だということ。そのことが慶喜と接する足かせになっている。
 気にするな、となだめる平岡にはある考えがあった。渋沢のことを前もって平岡が慶喜に話しておく。そしてある朝早く、慶喜が外で乗馬訓練するのを渋沢が松ヶ崎で待って、慶喜がそこを通るときに走り寄る。
 渋沢は笑い、「豊臣秀吉じゃないですか!」 戦国時代の武将の一人が口をついた。

 翌朝、渋沢は計画を実行に移した。
 松ヶ崎は京都の北で、その名は周辺が赤松に覆われていることによる。毎朝慶喜は馬にまたがり、京都の南側から中心部を経由して、松ヶ崎まで走行する。50人の兵士と、20人の部下が付き添っている。兵士は幕府の銃兵と幕府軍事教習所の剣道有段者たちだ。彼らは京都で勇名をはせている新選組を別にすれば、間違いなく日本でも最も強力な護衛隊だ。

 夜明け前に渋沢と従弟のキサクは竹藪に隠れ、慶喜と取り巻きが馬で走ってくるのを待った。遂に東の空が白んできたころ、彼らは蹄の地響きを聞き、渋沢は藪から出た。取り巻きたちは駆け抜けていった。「すごい速さだ!}、渋沢は驚愕してキサクに言った。
 二度失敗した。三度目は一隊を必死に追いかけた。護衛隊がすぐに大声で引返し二人を取り囲んだ。
 渋沢は刀を鞘ごと地面に放り投げ、ひざまずいて慶喜の方向に頭を下げた。慶喜は手綱を絞り、鞭で渋沢を手招きした。その姿は渋沢には輝かしく見え、あたかも歴史の大舞台に登場する人物だった。
 まさに夢うつつの状態で渋沢は慶喜に近寄り、話しかけた。その場に応じた彼最高の賛辞を発したはずだが、何を話したか後になると一言も覚えていない。
 彼が言い終わると、慶喜はかすかにうなずいて、平岡と話すことにすると軽く答え、馬の首を行き先に向け走り去った。それが全て。が渋沢はこの高貴な人物に喜んで一命を捧げようと熱意を込めて思った。
 翌日、渋沢は平岡に会いに行き、几帳面な慶喜がすでに彼の禄高を含めて詳細了解済みであることを知った。彼は禄高4石の内部護衛として召し抱えられることになっている。禄高は2人分として十分だ。京都での住家もそれなりに与えられる。
 翌年初、彼は昇進し、旅では初めて縦長の駕籠に乗れる身分で、戦国時代とほぼ同様の局地戦を念頭にした感があった。

 二度目の今日と舞い戻りで、慶喜は、国を治めるにあたって、宮中、皇族、諸大名の全てを掌握し絶対的な権威の座に着こうとした。大混乱から抜け出す唯一の方策のように見えた。
 京都に着くや、慶喜は東本願寺を引き払い、若狭の酒井家に属する空き家に住まうようになった。

 新居で長居を意図した舘に生死を共にしたいくらいの悪友3人と頻繁に会合を持った。越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城、薩摩の摂政島津久光だ。土佐の山内容堂もその一人だが、彼は心変わりすることもあり予想のつきづらい人物で、会合への参加はまれだった。

 「〝将軍お守り役の舘での会合〟と呼ぼう」、と慶喜。
 出席の4人とも大藩の藩主だ。他のどんな藩主であれ、彼らほどこの国の状況に精通した人物はいなかった。慶喜はこの会合を、宮中と幕府のどちらも監視する政治的絆の構築の場にしようとした。しかしまだ彼ら4人とも頑固一徹だ。すぐに意見が分かれた。最ものんびり屋の春嶽でさえ、慶喜に疑念を抱きはじめていた。「創意だけで国を治めることができると彼は思っているのか?」とブツブツ文句を言う。「彼はよこしまな企みを有り余るほど持って来ている。言葉に惑わされてはならない」

 慶喜はどうだろう。彼は島津久光を決して信頼していなかった。薩摩藩は、徳川幕府をつぶして自らの政府を打ち立てるために宮中の力を利用している、と彼は疑っている。それは幕府の全員が抱いている疑念であり、長く薩摩の過激派の政治的策謀の説明になっていた。
 その頃は、宮中は薩摩の手の内だった。天皇の最も信頼する3人(中川宮、前摂政近衛忠ひろ、現摂政二条斉敬(なりゆき))は、薩摩藩から大量の金銭的恩恵を受けている事実上の操り人形だ。生活費は劇的に高騰しているころだ。勢力、金力、農作物において、薩摩の京都乱入は確かに異常だ。
 日ならずして、〝将軍お守り役宅での会合〟は寄り合い仲間内の意見相違で瓦解し、一方で薩摩久光と支持者たちは、思いもよらず彼ら自らが開国論者に変身して、天皇と宮中に説諭説得していた。

 当初慶喜はこの展開を知らなかった。ある日頃合いを見て大老酒井忠績(ただしげ)と取り巻きの幕閣にこう言った。「外国勢撃退はもはや不可能だ。出来っこない政策をゴリ押ししあう宮中と幕府の諍いを黙認するよりも、むしろ今こそ開国に向けて明瞭な断を下してはどうか?」
 誰も答えない。
 「なぜ黙っているのだ?」、慶喜は怪訝な目つきになる。外国勢の圧力を絶え間なく受けている幕閣たちだから、彼らは自身の意見にいち早く応じるだろうと、慶喜は踏んでいた。
 しばらくして、酒井が口を開いた。「殿は薩摩の最近の動きをご存じですか?」
 薩摩勢の舞台裏工作は、天皇の取り巻きたちの考えをうまく海外貿易・開国寄りに方向転換させえたようだ。
 大老の意見はこうだ。幕府が、ある時は長州過激派側に付いたり、次には薩摩の外国勢に寛容・厚遇派側に、といった行動をとるならば、全ての権威・権力がはく奪されよう。さらに、いま政策転換すれば、薩摩の勢力をこれまでになく舞い上がらせることになろう。もし慶喜が自身の思いにどうしてもこだわるならば、幕閣全員をして職を辞することになろう。

 そう聴いて、慶喜は知らず扇子を落とし、動転した様子で口をつぐんだまま座り込んだ。いつもなら、笑い飛ばして、彼らを頑迷な時代遅れで、馬鹿げて狭量だとし、こう叫んだだろう。
 「だから徳川幕府の権威はこのように地に落ちてしまったのだ!」
 しかし彼はその立場にはいなかった。彼は自身重大な岐路に立っていると自覚していた。もし彼が薩摩と同じく開国を主張するならば、彼に疑いの眼差しを向けていた者たちは、それ見たことかと、言い合うだろう。彼が薩摩と同じ穴の(むじな)で、権力掌握を目指しているという噂が渦巻くこととなり、裏切り者として追放されよう。それとは逆に、薩摩と真っ向から対峙して、排外主義をもろに出すと、幕府の信用・信頼を得よう。幕府の頭目ではあるが、彼はただの一度も彼らに心からは受け入れられていなかった。彼は政治的に最も賢明で都合のよい方策を選んだ。理念はそっちにのけて、自身の立ち位置を強化すること。

 「よろしい。横浜を閉じよう」、心は揺れながらも慶喜はこう宣した。
 横浜港閉鎖は長州が力を盛り返して以来、排外過激派いつもの主張だった。何度も幕府に圧力をかけた。開業中の港を閉鎖し、外国領事館や商館を海に投棄するようなことがあれば、間違いなく外国勢を蜂起させるだろう、と慶喜。いまや敵は薩摩だ。
 彼らは宮中を味方にしたかろう。慶喜は松平春嶽と伊達宗城の考え方を求め二人の共感を得ようとしたが、薩摩勢がすでに二人に近づき考え方も取り込んでいたことを知って驚いた。慶喜は自ら破れたりと認めた。

 それから慶喜は平岡円四郎と原市之進を使わして、中川親王ら宮中の考え方を打診させ、天皇の勅令が出されるのは時間の問題であることを知った。またしても彼は自分が外に追いやられ孤立していることを知らされた。
 憤慨満面に敗北感をかみしめて、慶喜の思いは、まず長州が、そして今や薩摩が自分たちの勅令を出しているのだ、ということだった。許せない。事実上、日本はいま無政府状態なのだ。

 慶喜は反抗に出た。まず、薩摩支持の中川親王を口説き落として横浜港閉鎖の指令を得ることに成功した。島津久光、松平春嶽、伊達宗城は強く抗議し、春嶽は激怒のあまり、一橋公は正気を失ったのだとの私見に及んだ。3人は慶喜と会い、問い詰めたが、結局は、即彼らの方が守勢に転じた。
 「あなたたちは間違っている」、と彼は歯に衣着せずこう話した。
 「人もあろうに、春嶽殿。どういうことだ。あなたは大老のとき、港の閉鎖を強調していたではないか。忘れるはずはない。まあ、それは昔のこととしよう。いまこの現実を見てみなさい。横浜や他の諸港の開港によって物価は吊り上げられ、人々を塗炭の苦しみに追いやっている。明らかに開港は害をもたらした。もし3港のうち横浜岳を閉鎖することにすれば、どこのだれが騒ぎを起こせるだろうか?」
 彼は超過激派の様相で、前の長州勢にも負けないほどの勢いだった。
 3人は互いに顔を見合わせ、慶喜の明らかな大変身に驚き、一言もなく去った。しかし、島津久光は慶喜の策を覆すべく自身の策に固執した。彼の目標は、中川親王が横浜港閉鎖を無効にする命令をなすべく権力を用いたのだということを知ることだった。親王は命令をひっくり返して島津を支持し、その結果薩摩の策謀は功を奏した。宮中関係者のだれも罰せられなかった。

 この時すでに将軍家茂は京都に戻って二条城にいた。慶喜は城内の応接室にいるから、家茂はそこに来て、一杯を誘った。松平春嶽、伊達宗城、島津久光も呼ばれ、家茂自身その4人と酌み交わした。将軍が自邸に戻った後、島津は慶喜ににじり寄り、小声で話しはじめた。
 その朝、彼の腹心高崎長太郎は中川親王邸に呼び寄せられ、そこで聞かされたのは、横浜港閉鎖が誤った命令によってなされたものであり、事実上天皇のご意思ではないのだから、死文書とみなしてほしい、と。
 「殿も知るべきだと思いましたので」、と島津は結んだ。
 慶喜は言葉を失って3人を見つめた。こんな無体な侮辱を味わったことはない。彼自身だけでなく、幕府そのものをも侮辱している。中川親王を通して出された皇居勅令は、薩摩勢にとっては本物ではないか? ではどこに対して間違いなのか?

 彼はこれをやり過ごすわけにいかなかった。いまこの時、国に対するこのような干渉をやめさせなければならない。彼がこのような輩を追い出して、皇居による幕府へのいかなる命令をも責任をもって引き受けられなければ、国の病は回復不可能となろう。
 彼は立ち上がって言った。「私は今すぐ親王に会いに行く。ついてきてほしい。彼自身の口から聞こう。他の3人はいやいやながら立ち上がり、慶喜が彼らを引きずっていく形で城を出て、中川親王邸へ向かった。

 これまで何年にもわたって、当時は獅子として知られた親王は、排外主義の熱烈な支持者だった。安政の大獄後、彼は幕府擁護に回り、今は宮中で薩摩派の張本人だ。この突然の来客の意味合いを彼はすぐに読んだ。ゆがんだ会合を避けようと、彼は慌てて酒・肴を用意させ、歓待を装った。慶喜は、彼のやり方に納得し、それをうまく利用することにした。
 「猪口は小さすぎる」
 そう言って、給仕に酒を別の湯飲みに入れさせた。その頃はあまり酒をたしなまなかった慶喜が、この夜それほどまでにがぶ飲みしたことで、3人はうろたえた。急に酔いが回り、慶喜の腕も足も真っ赤になった。
 そんな中で彼の目は輝いた。皇居勅令撤回の書状をほのめかして慶喜は言う。
 「今聞いたことは、まことですか?}
 追い詰められて、親王は何とか逃れようと、こう言いかけた。そんなこと薩摩に言った覚えはない、と。が、島津久光がそこにいたので、どうしようもない。しばらくして黙りこくった。
 「謝ってすむことではありませぬぞ!」、と慶喜は怒鳴った。
 「あなた様は日本という国をもてあそぶつもりか?」
 大波のごとき雄弁がこの不運な親王を直撃した。彼の声は常にかん高かったが、それでも劇的効果をも(もよう)させるようなかすかな抑揚があった。彼は生まれながらの役者だ。間をおいて、もう一段声を張り上げ、ののしった。
 「薩摩の不埒な企ては国中に知れわたっている」

 同席者は青くなった。島津久光は袴を強くつかんだので手の甲の血管が盛り上がって震えている。春嶽と宗城も、久光同様に問題の〝不埒な企て〟に関わっているから、慶喜の激怒のかわすことはできない。春嶽は、興奮したときにいつもやるのだが、下唇をなめて湿らせている。38才にして白髪交じりの伊達宗城は、10才も若い男の強圧的な叱責をどう受け止めるべきか迷っている。
 酒の入った湯飲みをテーブルにおいて、彼は無表情な眼差しで小部屋の隅の黒っぽい置物に目をやっている。それは花模様で、16花弁の菊の花だ。

 慶喜は自身の痛烈な発言による周囲のショックを気にしていない。
 「すべて、貴殿が薩摩の不埒な企てに耳を貸したが故に、ご自分の言葉を裏切り、この恐怖極まる悪事を野放しにした。もし薩摩の者の言い分が受け入れられれば、将軍お守り役はうそつきとされ、わが国日本は崩壊する。そんなことにならぬようにと、国に良かれと、私は貴殿を刺して自分も死のうと、そのためになまくら刀を持ってきた。しかしいま、貴殿は、現状はあの時と違うと、認識しているように見える。そういうことにしよう。これ以上の深入りは止めた。これだけは言っておこう。天皇の恐れ多い宣言、勅令、信書が変更を加えられて、一人の宮中幹部がそれを自身の権力に上乗せして大名家臣に自身の個人的見解の流布に利用できるようになれば、国はたまったものではない。今後幕府はいかなる場合も、天皇のご承認や許しを求めることなく、自分らが良かれと思う方向に国家経済をもっていくだろう。解ってくれますか?」

 慶喜は一呼吸おく。親王は肩を落とし、一言も言えぬまま座った。慶喜はそんな彼をじっと見つめた後、後ろの3人に向き直って吐き出すように言った。
 「貴殿たち3人だが、日本中で一番の大馬鹿者で最悪のならず者だ」

 3人は信じられないといった様子で顔を上げた。300年に亘る徳川の世を通じて、彼らほどそんな無体な叱責を受けた大名はいない。慶喜は皮肉屋でも賢ぶり屋でもない。彼は信念をもって腹の底から訴えているのだ。3人はそれぞれ賢明さと愛国心を誇りにしていたであろうし、疑いもなく彼らの意図は最良だった。が、彼らは一国の大原則を踏みにじってしまった。それは、国の諸事における権威は幕府に依拠しなければならないのに、彼らは自分たちの思惑を促進するために宮中最高貴族の馬鹿な連中と意気投合して語らい、その結果国の方向をかき乱しているということ。
 彼らの英知が彼らを危険に陥れた。同時に、彼らは幕府の全くの敵ではないのに、彼らの諸行動がただただ徳川幕府の威信をずり落とすだけだということを理解できていなかったという、極め付きの知恵遅れだった。慶喜には、日本の唯一の希望は国全体の考え方と行動を統率することだった。その思いにおいては、この3人は、長州のいかなる過激派よりも更なる脅威を国の将来にもたらしてしまった。しかもそれは彼らだけではなかった。

 慶喜は顔を上げ、中川親王を直視した。この男、天皇の最側近、は、何においても最大の通せんぼだった。慶喜は怒りと侮蔑をぶつけようとの覚悟だったが、皮肉っぽく話すことにした。
 「聴かせてください。貴殿がこの3人になぜ信頼を寄せているのかを。何? そうだ、ここにいる島津久光は貴殿の金づるですね。それが貴殿をそのように組みしやすくしているのだ」
 意味は明瞭。彼は薩摩から金品の面倒を見てもらっていたから、何でも言われるままだったのだ。親王はいきり立った。が、慶喜は言う。
 「自分をかばわないでください。明日から彼に代わって私が面倒を見ましょう。だからこれからは私に従ってください」
 情け容赦のない皮肉で、彼は、親王が貪欲一辺倒の破廉恥な悪党だと示唆した。慶喜はますます呂律を乱してこう繰り返す。
 だからこれからは、二度と私、将軍お守り役を鼻であしらってはいけません。この馬鹿な3人と絶対に一緒くたにしないでください。忘れちゃダメですぞ」
 そう言って、慶喜は前に向かってつんのめり、テーブルをぶつかって壊した。皿は粉々に割れ、醤油は飛び散り、酒の銚子も飛び落ちて割れた。慶喜は土間に横たわって動かず、明らかに泥酔していた。彼はいかにもこのような泥酔を見せたかったのだ。万一この血も涙もない言い草が後々彼に付きまとうようなことがあれば、彼は、強い酒を飲みすぎて自分を失ってしまい、何を言ったのか全然覚えていないと、いつどこででも言えよう。

 意識を失い冷たく床に横たわる慶喜の姿にみんなあっけにとられた。
 「どうしようか?」、春嶽がそっという。
 玄関まで運ばねばならない。付き添いたちにやらせることもできようが、慶喜のようなえらいお方をそんな下級武士に粗末に扱わせてはならない。いや、いまや慶喜に馬鹿者呼ばわりされる3人だが、彼ら自身でそうするしかなかった。
 「そんなことできぬ」、怒り満面で島津久光は断じる。力持ちならぬ春嶽が意識のない男の横に腰を下ろし、抱え上げようとする。伊達宗城は、いかめしい顔をさらにいかめしくして春嶽を助け、無意識男を後ろから支える。

 この出来事があって、慶喜は支持者たちに見放された。が、慶喜は孤独を恐れてはいなかった。彼は、周囲を何ら気にせず、ひたすら京都での権力強化一途だった。
 しばらくして慶喜が知ったのは、島津が極めて重要案件を摂政に願い出たことだった。大坂湾の防御だ。彼はこう提案した。海岸に列をなした砲台を設け、そのぐるりに多数の兵を配置することによって、外国戦艦が押し寄せて首都への侵攻を目指しても、薩摩勢が撃退できるようにしておく。
 しかし幕府も他藩も薩摩の思惑を別の意味に解釈した。彼らが見るに、首都からすぐそこの大坂に薩摩が兵力を配置する唯一真の理由は、彼ら薩摩が一大クーデターで首都占拠のチャンスをうかがっている、ということだった。二条城はこの噂でざわめいた。

 多分そうなのだ、と慶喜は自身認めた。薩摩は間違いなく内心そんな思惑を秘めている。彼は権力掌握することによって、彼らの幕府継承という野心を壊滅しようとした。
 その考えにより、彼の側近平岡円四郎が宮中に出向き、とりわけ中川親王と話した。慶喜が厳しくののしったあの夜以来、一橋家が金銭のやりくりを引き受けていたから、親王は同家の要望を受け入れ、摂政ですら(あた)わぬ天皇自らの勅令を得ていた。同時に薩摩勢を遠のけるべく、慶喜は宮殿警護の役職授与を申し入れ、これも了承された。公的には、慶喜は今や〝海上総司令官・宮殿警護統率〟なのだ。京都と大坂での地位格上げをなした。しかし世論はまだ素直に従ってはいない。

 幕府内ではこんなことがささやかれている。「これから殿はどうするのか、何も知らされていない。結局、京都はすでに会津藩主の松平容保公が守護職だし」。
 江戸では一橋公の〝謀反〟企てが大っぴらに議論され、とくに名指しは避けたが、慶喜に対する反感が沸き上がっていた。彼は将軍職を亡くし、自らを天子とする素振りだから、みんなは彼を〝二面殿〟と呼んだ。
 彼のもう一つの呼び名は〝豚食い〟。これは明らかに敵対的だ。彼が野獣肉好きであるばかりでなく、そんな常識外れの男が意味不明の裏切りを予感させる奇妙な生き物だからだ。事実、幕府のだれも慶喜を良しとしていなかった。ただ一人、老中首座の板倉勝清を除いて、彼ら全てが敵だった。

 薩摩の者でさえこんなでたらめな噂を広めていた。彼は野心的な造反者にして、〝打算的な策謀家で、こんな人物は初めてだ〟、と。人によってはデマを流すだけに留まらなかった。例えば、京都での薩摩のリーダー大久保一蔵。彼はそのようには疑わなかった。

 慶喜は新事務所を構えるや否や、平岡を呼んで兵力部隊を形づくるよう命じた。一橋家もまた兵力を必要としていた。
 慶喜の新しい任務は彼に少なくとも京都駐留の大藩の兵力と同程度の人数を要求した。結局大掛かりな募集をなすところを、平岡は水戸から人を調達した。その間に彼はうかつにも世間の疑念を深めてしまった。慶喜は水戸藩の排外派と結託して京都乗っ取りを画策し、国をわが物にしようとしていると思われた。慶喜と同じ穴の狢である中川親王でさえ平岡に警告して、大勢の排外過激派である水戸部隊を首都に駐留させれば、不信をあおるだけだ、と。

 大名たちは次々と京都を去りはじめた。初夏には春嶽も宗城も久光も彼らの領地に帰り、首都ではこれまで数年の緊張が衰えはじめ、全てが行き当たりばったりの様相になった。
 これが慶喜にはお似合いで、薩摩勢のささやきは、「京都は砂漠同然だ。長州の思うつぼではないか」。前年の撤退以来、郷土で雌伏していた長州勢は、今や首都での失地回復をすべく内々に裏工作をしている。
 浪人や行商人などに変装して、彼らは大勢で都に潜入し、市中大量虐殺の任を帯びている。彼らによる犠牲者の中で最も有名人物は会津の松田鼎と中川親王の側近高橋けんのじょうで、見知らぬ敵に、天の刃だとの罵りと同時に突き殺された。

 幕府もまた独自の下検分をしていた。1864年7月8日、スパイの浪人たちが首都中央部の池田屋に集まってきたとき、既に新選組は待ち伏せており、大勢を殺害・捕獲した。
 この事件は国中の志士を激怒させ、彼らは慶喜が黒幕とみなし、最大の敵意を彼に集中した。ビラが市中に張られ、慶喜を首謀者だと告発した。

 「一橋公の裏工作で、捕らえ殺した相手は天皇に忠誠を尽くす正義の味方たちだ。彼の住処を火の海にしよう!」

 別のビラは、

 「これまでの事件は全て彼の手による。一橋派わが帝国の最大の敵だ。遠からず天罰が下されねばならぬ」

 10数日後、平岡円四郎は京都を発って東に向かった。夏の炎暑に拘わらず、彼はきちんとした正装で、片手に閉じた扇子を携え、直立歩行していた。同行は付き添い2人と部下の川村恵十郎。彼は田舎の武家の子息で、平岡が甲斐に逃げ延びていた時に知り合った。平岡が再び世に出たとき、この若者に一橋家に仕えるよう勧めた。頭より腕の立つ川村は平岡の行くどこにでも同行した。
 彼らが堀川橋に差し掛かったとき、路地裏から平岡に向かって声が上がった。平岡は誤ってその方向を振り返り目を向けた。暴漢たちは躍り出て道をふさいだ。一人が脱兎のごとく襲いかかって刀を振り下ろし、平岡の右肩から左肋骨にかけて斜めに切り裂いた。建物の木の塀に彼の血が飛び散った。一刀両断、彼は即死した。
 すでに川村恵十郎は暴漢に向かって鞘を払い、切り伏せ、返す刀を別の暴漢の頭めがけて振り下ろした。彼がそうしている間に残りの暴漢たちは平岡の付き添い2人を殺し、散るがごとくに去った。道は真っ暗で、傷を負った川村は暴漢2人を追ったが途中であきらめた。
 2人は堀川通へ逃げ、遂には花屋の前で息が切れてつんのめった。一人はその場で切腹し、もう一人は刀を上下さかさまにして自分の喉を突き刺した。2人はすぐに息絶えて道に横たわった。刺客暴漢としては名誉の死で、この事件はぐるりで長く語られることになる。

 慶喜がこの惨事を知ったのは夜半過ぎだった。その夜同室にいたのは江戸から来た切れ長黒目の女性で、名はおよし。
 外のおびえた叫び声で、慶喜は蚊帳の中で着替え、腰に刀を差した。素早い。どの側近もそんなに早く身支度はできなかろう。
 「三位さま」、とおよし。彼女たちが普段口にする慶喜の呼び名だ。彼女もすぐに着替え、音をたてぬよう気を付けた。「何事?」
 慶喜は何も言わなかった。通りに張られてある多数のビラは慶喜の死を欲するもので、この騒動とは関りがなさそうだ。彼は暗殺団がこの建物に侵入したと思ったが、遂には別室で真実を知った。平岡が死んだのだ。

 「誰がこんなことを?」、彼の問いにまだ答えられるものはいなかった。朝になって散乱した死体を調べると見当がついてきた。
 慶喜は部屋に戻ったが、まだ肩で息をしていた。落ち着こうと、ローソク2本に灯をつけた。お由は何気なく帰ろうとしたが、彼はまだ部屋にいてほしいと頼み、この江戸商人の娘に向かって、明るいところでは絶対に見せたことのない傷心と恐れいっぱいの表情をはばからずに見せた。
 「平岡は私の身代わりになって死んだのだ」、そう言って慶喜は泣き、手で顔を覆った。しかし次に発した言葉は上流の生まれ育ちを示した。「彼は死を望んだのだ」。上司のために死ぬことは侍の証であり、今回のこれもそうだった。が、依然として疑問は残る。「殺したのは誰だ? どの一団の者か?」
 どこでどんな言い争いであれ、慶喜や平岡に敵意を持つ連中には困らなかった。慶喜を裏切り者とする幕府旗本、薩摩の政敵、そしていま長州の政敵。もはや慶喜に盲目的に従ってくれるのは。およしただ一人だった。そして多分彼女の父、江戸の消防隊員だ。

 江戸を発つ前に、慶喜は平岡円四郎と黒川嘉平に頼んでいたのは、遠くにいてホームシックになっては困るので、江戸市中の女性を連れて行きたい、と。そのような依頼はあり得ないことだが、慶喜はそうするしかなかった。妻美賀子焼きもち焼きだから、もし彼が殿中の女性のだれかを伴いたいと言えば、それを知った彼女がどんなことをするかは見え透いている。
 慶喜は女性なしでは一夜ですら眠れなかろう。それは間違いなく父斉昭からの遺伝だ。しかも彼は京都の女性に何ら興味がなかった。理由の一端は、妻が京都っ子で彼女を通してうんざりしていた。慶喜は一度江戸行商人の娘たちに興味を示していたのを黒川が覚えていて、即友人の消防士新門辰五郎に連絡を取った。あの時慶喜は辰五郎と知り合いになっていた。

 京都で慶喜は消防士の必要を感じ、辰五郎を呼び寄せた。消防士は、このチャンスを逃すまいと、余命を慶喜にささげる決心をした。仲間200人を選んで同行させ、幕府の蒸気船に乗って西を目指した。現状、彼は慶喜の邸宅の防御責任を負い、同士を抱え、その中から20人の隊員を選りすぐって洋式歩兵の訓練を受けさせた。

 夜が明けて、係が散らばった死体の詳細を報告した。みんなが驚いたことに、彼ら2人は水戸の家臣で、林忠五郎と荏原定四郎で、最も過激な排外主義者だった。
 「水戸の者? 彼らが?」、慶喜は呆然とした。彼の出もとの水戸藩の家臣でさえ、彼に反旗を翻したとすれば、その辺の60を超えるすべての地域はもはや彼を支援しているとは言えなかった。

 平岡の死後、こんなうわさが一橋家臣の間で広がった。一橋家のだれかが曲者だとの思いで行動している排外主義の一団が、まずは原市之進宅に入って全てが始まったのだ、と。原はかつて自身を大老武田耕雲斎の継承者とし、頑固者で攘夷の狂信的信奉者として知られていた。慶喜はその勇敢さと叡智を気に入り、彼を自身の師匠とすべく水戸家の了解を得た。
 しかしその実、師匠は慶喜の方だった。原市之進は慶喜の相談相手になるどころか、慶喜信奉のとりこになり、頑固一徹の排外主義を捨ててしまった。排外主義はある意味理論的純粋さを有したが、実践的思想でないことは明らかだった。

人知れず原は開国論者になった。京都駐在の水戸藩愛国者は早くも彼の翻意に気づいた。「市之進はキツネ野郎だ」、と彼らは言い、狡猾な企みで慶喜の地位を利用していると糾弾した。これらは、彼らが慶喜の不可解な、急転換する政治的離れ業をなるほどとする単なる呼称だった。こぞって原宅に押し入り、かつての同志を非難した。遂に、彼らの告発に逃げ場を失った原は、自分は裏切り者ではないと(わめ)いた。「わかった。それで、誰が?」、狂信的告発者たちは迫る。名前を出さなければ、間違いなく原自身がすぐその場で殺されただろう。答えを迫られて原が叫んだのは、「平岡円四郎だ」。

平岡が惨殺された後、古歌が女性の手でビラに書かれ、慶喜の邸宅内の木の枝につるされた。

世は運命の歯車
常に回っている
良きにつけ悪しきにつけ
どちらもその番がある
必ず回ってくる

 前に一度、平岡側で同様の軽率さゆえに、江戸城近くの雉橋門外で中根長十郎の死を招いた。平岡はその付けを身をもって支払わされた。
 中根の死が平岡への道を開いたとちょうど同じで、平岡の死の報いがいまや原にやってこよう。匿名の家臣が女性の手で意を込めて認めた詩は、原が同じ運命にあることをかばう何物もないことの的を射たお触れだった。
 「運命……、か?」、慶喜はつぶやきながらビラを見つめ、それが彼への中傷を意味しているのかどうか、いぶかった。そしてこのことは彼の心から去った。誠意ある殿として、弱みも敗北感もあるはずはない。弱みと敗北感に対するすべての責めは、むしろ、彼の相談相手に帰した。これは封建社会の主たる栄光を含め、主従関係の(おきて)だ。生まれ育ちが封建社会の殿であり、無類の感受性を有する慶喜でさえ、この一件では同じ考えだ。政治の舞台で彼の離れ業が人命に関り、路上に忠義な戦略者たちの死体を散りばめたそのことが、彼の理解を超えていた。