最後の将軍
The Last Shogun

徳川慶喜の生涯
The Life of
Tokugawa Yoshinobu

原作: 司馬遼太郎
英訳: ジュリエット・カーペンター
英文和訳: 小芝 繁
本書紹介と翻訳者の言葉
01. 大望 10. 蛤御門の変
02. 将来の将軍を育てる 11. 家茂の死
03. 好機を逸する 12. 気のいい酒好き
04. 安政の大獄 13. 大失態
05. 殿中へ 14. 15代将軍
06. 敵を知り己を知らば 15. 降伏の決断
07. 思い切った行動 16. 大坂へ撤退
08. 慶喜のだまし技 17. 逃亡と余波
09. 運命の歯車 原作者のあとがき
06. 敵を知り己を知らば
 その頃、排外信奉の農夫がいて、幕府を目覚めさせようと江戸郊外の高崎城乗っ取りを企てた。彼は武蔵国血洗島村の富裕農家・渋沢家の長男で、幼名を栄二郎といった。後に名を栄一と改め、日本資本主義の父として知られるようになる。

 農業の他に、渋沢家はあい玉の販売という分のいい商売を営んでいた。あい玉はツユクサを発酵させた玉房で、玉につぶして染色に使う。事実、その地域で同家は大金持ちに属し、苗字帯刀と武士の特権を許されていた。栄二郎は小柄・丸顔で、つやつやした黒髪の所為ねんで、侍の身なりになれば、見栄えがさえた。慶喜のその頃のある日、慶喜に信頼のある平岡円四郎の自宅に呼ばれたとき、彼はまさに侍としてもてなされた。

 その頃慶喜は罪を許され、将軍お守り役に就いた。平岡はすでに国外追放から召喚され、慶喜の指南役・右腕として復権していた。そんなことで、彼は相応の評価を受けていたのだ。「一橋公に近づける唯一の道は、平岡円四郎に認められること」、血洗島からの若者はそう断じた。

 幼年の頃から栄二郎は父母の家業を助けてあい玉の生産・販売を行い、度々信州まであいの葉っぱを探し求めて旅した。しかし剣術を学ぶための江戸への旅では、彼は商人姿を排して、侍の衣装に身をまとった。彼はNorth Star Lone Blade school 塾長の海保ほんぺいを師匠とした。

 彼の考えはこうだ。「軍を立ち上げるためには、一橋公の個人的な肝いりが欠かせない」。慶喜の広く知られた評判が礎だった。渋沢栄二郎23歳、慶喜25歳。

 武蔵国の農民の気性は激しく、喧嘩は日常茶飯事。彼らは農民だが、殆んどが剣を操れた。この持ち味を生かしたものの中には近藤勇や土方歳三がいて、彼らは将軍家を信奉する剣士グループである新撰組を作り上げていく。

 しかし渋沢は思いもよらぬ大胆な企みを持っていた。彼の野望は彼自身のような血気にはやる若者を集め、1862年の冬至の夜、高崎城攻撃ののろしを上げることだった。それによってコノシロを拠点にして関東八ヵ国の兵士を鼓舞し、外国勢駆逐を旨とする軍団を作り上げようとした。彼らはこぞって、鎌倉街道を麻痺させ、横浜港を攻撃し、目前の外国勢を虐殺し、日本の国土に居座っている海外勢に何が何でも幕府を立ち向かわせようとしていた。

 渋沢は一人で企てたのではない。隣の中瀬村に住む桃井儀八(もものいぎはち)という田舎儒学者が彼と緊密に連携し、同日に予定しているもう一つの企て、上野(こうづけ)(現、群馬)にある別の城・沼田城攻撃の志士を募った。

 渋沢は必要な武器を手に入れ、同志を彼の旗印のもとに勢いづかせるため、しばしば江戸へ旅した。江戸・神田の刀剣商である梅田屋新之助が刀・槍・鎖帷子(かたびら)を提供した。
 若い渋沢の企てを聞いて、平岡円四郎は叫んだ。
 「お前、気が狂っている!」 渋沢の答えは、
 「全然そうではありません。幕府にばれたら捕らえられることを百も承知であなたに打ち明ける理由は、あなたを信じているからです。あなたに骨折っていただいて、私たちを一橋公の臣下にしてほしいからです。俸給はいりません。名前だけでもいいですから、私たちを臣下として受け入れていただければそれで結構です。私の号令で動く勇敢な兵士40~50人と一緒です。一橋慶喜公に何らかのことがあれば、私たちは報復に命を惜しみません」
 「ちょっと」、と平岡。彼はすでに単なる外国勢排除が答えになると信じてはなく、慶喜同様開国論の支持者だった。しかしもしこの狂信者と排外一辺倒の愚挙で意気投合でもすれば、即刻彼は外されることになろう。そう解っているから、彼はこの客に同意のふりをした。「なんでも頃合いがあるんだよね。しばらく待ちなさい」、と若者をなだめた。
 渋沢は当然落胆した。「結局平岡(うじ)は日和見になり果てた」、と。
 「君は何を言ってるんだね?」
 「江戸中が言ってることですよ。一橋公が将軍お守り役になってからでさえ何もしていない理由は、あなたが彼をたきつけないからです。あなたは事実開国主義者で、彼の目を曇らせている」
 「そんなことはない」、と平岡はきっぱり言い、また来なさいと、国のために死を惜しまない志士として敬意をもって最大丁重に扱った。同時に、「わが方に思いを同じくしてくれれば」と、内心思った。

 渋沢のような男が必要とされる(わけ)があった。間もなく慶喜は京都に永久的に駐在することになり、家臣の必要に迫られる。一橋家は幕府から10万石を得ているとはいえ、いっぱしの藩ではなく、徳川の分家だ。平岡自身のような家臣はいたが、藩主に忠誠を誓う大名臣下と違って、彼らは将軍からその時に限って臣下として与えられた旗本で、彼らの仕事は本来城の守護ではなく、事務的なことだった。
 京都で慶喜はすぐさま忠誠と能力のある中心が必要となろう。他の家臣たちと一緒になって国のことの議論ができるものだ。そうでなければ、京都で一橋家は各藩各様の動きから埒外(らちがい)に置かれよう。
 「あの男のような血のたぎった男が欲しい」。平岡はそう思った。
 国は気が張り詰めている。平岡は知人の清川八郎が認めた浪人軍隊の結成を思わせるメモ書きを思い出した。
 「異常な勝利を得るためには異常なる人物を取り立てよ」

 慶喜は京都へ発った。当初は側近たちに囲まれていく予定だったが、その後変更した。
 他の者たちよりも前をを行きますと伝えられた。理由は、京都で治安関係をつかさどる永井なおむねが絶望を秘めて老中に書き送った〝東の都での一触即発の危険状況〟によった。皇居の都は事実上独立の政体になっており、薩摩と長州の支配下にあった。
 そんな状況下で、彼のような身分の低い治安担当は将軍の権威をひけらかすには不十分で、だから幕府存続のためには一橋公が即刻来京することだ。「こちらでは江戸の威力は日増しに衰えています」、と永井。「宮中と幕府の間に友好的雰囲気ゼロの溝がどんどん深まっています」
 「薩摩、長州、それに他の外様藩は宮中寄りで、いざとなれば脅威です。もし一橋公や他の老中級が早急に京都へ来て天皇に忠誠を誓わなければ、それこそ終わりです」

 この書状は江戸城をパニックにした。老中たちはこぞって慶喜がすぐに江戸を発つようにせかした。彼は快く応じたが、信頼に足る有能な側近がいなかった。徳川家の生まれではないから、慶喜は自分が欲する人物の提供を幕府に頼むのをためらい、その代わりに水戸藩に私的依頼をするよう決断した。彼は、水戸家の最側近である武田耕雲斎を自邸に呼び寄せ、こう話した。
 「随行してほしい者たちだが、最近の不穏な状況を知っており、右往左往することなく、私に助言ができ、いざのときには私のためにしも惜しまない人物が10人ほど必要なのだ」

 武田は承知して厳密に調べ上げた結果、8人を選んだ。その中にはいずれ慶喜の戦略をつかさどることになる原一之進、梅沢孫太郎、梶誠二衛門が含まれていた。
 渋沢栄二郎が平岡円四郎に会っていたとき、すでに慶喜は江戸を発っていた。ちょうど京都への途中だった。

 1863年の年初、慶喜(現・中央大臣)は京都に入った。宿は東本願寺だ。3日後に、天皇の指南役たる近衛家や他の高官職を訪ねはじめた。
 その行列は京の人々に対して伝統を伴ってアッと言わせた。彼は駕籠に乗らず、馬上だった。さらに、彼は大胆にも排外主義者たちが忌み嫌う洋式の鞍にまたがり、若者や給仕も含めて付き添いの全てが馬上で、あたかも幕府お抱えの洋式騎兵隊を率いていた。
 総勢50人の馬上隊列だ。とどろく馬の(ひづめ)で大通りは時ならぬ大騒ぎとなった。今日の市民は「これは尋常な殿ではない」と感嘆し、大名や皇族は「どういうことだ」と、言葉を失った。

 京都に来るずっと前から、慶喜はいっぱしの評判を得ていた。それは父の側近で会った著名な水戸の学者・藤田東湖(1855年の安政大地震で死去)の言葉で広まっていた。本圀寺に泊っている水戸家臣によれば、それは、
 「彼は父以上だ。彼のような先を見る人物は、現れるとしても数少なかろう。国はかような人物を欠いているから、誰にもチャンスがあるとしても、当地の手綱が彼の手にゆだねられる日がきっと来る」

 藤田東湖は排外急進派によって理想化されていたから、この賛辞は、京都に集まっている尊皇派浪人には特別の言葉だった。
 慶喜が到着して間もなく、長州藩の集合場所で一人の若者が興奮して自身の膝をポンとたたいた。彼は日下玄瑞(げんずい)で、長州きっての過激派リーダーだ。彼は声を上げて、「わかった。どんな人物かそこへ行ってこの目で確かめよう」、と。
 長州の寺島忠三郎、肥後の轟武平と川上玄斎は飛び上がって一緒したいと叫んだ。玄斎は〝殺し屋玄斎〟として知られている。これまで将軍派や開国論者をを何人殺したかは言わないまでも。

 木靴の音高く、腰の朱鞘(しゅざや)を輝かせて、日下らは慶喜の泊る寺院に着き、応対した者に名刺を渡して面会を請うた。彼らのこうした行為そのものが今の京都の混乱を表していた。普段なら彼らのような下級家臣は、慶喜のような将軍家幹部に直接面会できるはずがない。しかしここでは彼らは皇族の館を巡り歩き、脅したりすかしたりして、とどのつまりが皇族をお供え物か彼らの身内のように扱った。
 彼らは全く場所柄などわきまえなくなっていた。皇居では我が物顔。浪人たちの酔った勢いでの馬鹿話が翌日宮中命令となって広がることもあろう。幕府が天皇の一言一句に一喜一憂している現状では、玄瑞のような成り上がり者が厚かましくも、慶喜の宿の入り込み、面会を要求するといったことは驚くに当たらなかった。

 江戸ではありえない、と慶喜は思った。京都は違う、と。そして皇居のあるこちらでの現実に彼が同化するのに長きを要さなかった。
 「入れてやりなさい」、と彼は支持した。心身ともに頂点の26才、彼にはその者たちとの面談が不調に終わるといった恐れはいささかもない。それよりも彼らの脅しを粉々にして毒気を中和できるとの思いを楽しんでいた。
 しかし側近は彼をとどめた。付き添っている幕府護衛長の岡部は厳しく反対を唱えたので、慶喜は思い直し、病気だと彼らに伝えさせた。
 彼らは退去を拒否した。遂に岡部は自身で彼らを受け入れ、隣接している小さな部屋に通した。

 日下玄瑞は熱弁を振るう。「昨今において、開国の是非についての議論はどっちつかずのままだ」と。日下は23才で、熱情のとりこだ。彼はあたかも中国の古典を大声で詠むかの如く、とりわけ重厚味をもって意見をまくしたてた。この日の彼の言い分はこうだ。幕府は天皇の明白なご意思に基づいて、外国勢の国外追放を実行するよう至急決断すべきだ、と。もしそうしなければ、天皇に逆らおうとする裏切り者として、国中の非難を浴びるだろう、と。

 このことを聞くと、慶喜は満足げにうなずいた。慶喜が思っていた通りだ。彼らの度外れた排外の表現は将軍打倒の言い換えなのだ。彼は、「彼らと過激な議論を続けることはできない」と言い、そして岡部を通して、来訪者をさらにあおるとしか思えないようなあいまいな返事をした。

 「俺たちはそんな無駄話をしに来たのではない」、と日下。彼らは夜更けまで強情にそこにとどまって、慶喜に外国勢駆逐について今ここでその時日を答えよと、それこそ無駄な強要を押し通した。最後に館を出しなに、彼は捨て台詞をはいた。「一橋公は国の希望の星で、高位の職と皆の尊敬を謳歌していると聞いていた。来てみるとどうだ! 言い逃れとどっちつかず。中流の者たちと何ら違わないではないか。もしこれが本当の一橋公なら、将軍自身が京都に来ても同じで、幕府は外国勢駆逐の意思など持ち合わせていない。あいつらは宮中を馬鹿にしているだけだ!」

 慶喜はこれらの志士たちがなぜこうまでに横柄なのかが分かっていた。学習院、同志たちの塾だ。1573年まで続いた室町将軍時代以来、宮中は政治問題を議論すべき研修の場がなかった。先月この危機状況を憂えて29人の皇族がこれに対処するために選ばれ、学習院の部屋を使って会合を持った。ほぼ全員が排外過激派の温床たる長州と考えを同じくし、リーダーは三条実美と姉小路公知(きんとも)だった。二人とも日下玄瑞らに支配され、断続的に偽の勅令を受け取っていた。
 岡藩の忠臣小川弥右衛門が自宅監禁の罰に処せられたとき、藩主は京都から弥右衛門を解放せよとの勅令を受け取り、驚いてそうした。書状は学習院の皇族と志士たちの共作による模造品だった。

 京都へ来て8日目に慶喜は馬にまたがって学習院を尋ねることにした。最近日下らが彼の宿舎に押し入ったことは、彼の我慢の限界を超えていた。そのような横柄さを今後一切止めさせるべく誓い、新式のライフルを装備した騎兵隊を率い、靄がかった曇り空の下、北に進み学習院に入った。
 表面上は儀礼訪問だが、正午になっても去らず、持参の弁当を食し、とりとめのない雑談を続けた。

 「天皇が望んでおられるのだから、外国勢駆逐は為さねばならない。お分かりのとおり、敵を知り己を知らば、百戦危うからず、です。今日は敵について話したい」
 この前置きで、彼は世界の状況の話を進めた。しかし皇族たちはそのようなことに全く無知だから、茫然として口をつぐんだまま、聞き役に徹した。
 最後に彼はこう言う。
 「私は軍属だから、外国勢を追い出すべくあらん限りの力を発揮したい。これによって全世界を敵に回すことになるから、銃声や大砲の轟音が日本中の山や谷を越えて響き渡ることになる。みなさんの殆んどは長州人、〝外国勢を追放せよ〟と最初に叫んだ藩だ。そして今、銃声が轟くことになり、ここで慌てふためいても逃げ出すことはできなかろう」
 そう言ってから彼は固く口を結び、部屋の者たちすべてをじっと見据えた。彼の眼光らんらんたる表情に驚いて、だれ一人声を発しなかった。臆病な幕臣ばかりを見慣れていた彼らは、ここに一人すごい人物がいることに驚愕した。

 慶喜は、しかし、排外思想に欠かせない論拠を大っぴらに批判しないよう注意を払っていた。もしそうしたら、即座に不忠義者めという雄たけびが沸いて、将軍を巻き添えにして彼は崖っぷちに追いやられ、これが間違いなく徳川幕府崩壊につながっていくことを百も承知だったから。