1.近況 2.快食、快眠、快便
3.外との接触 4.旅行
5.怪獣の棲む講堂物語
5.怪獣の棲む講堂物語
(小説と60代の思い出)

 11年前(2006年)に初稿を仕上げ、その後改訂を繰り返してきた長編小説「怪獣の棲む講堂物語」だが、昨年(2016年)春にその英訳を思い立ち、1年がかりで何とかゴールにたどり着いた。英文タイトルは"The Auditorium Where Monsters Live"とした。
 和文は自身の朗読で約10時間。それに対して英文は、テスト朗読で11時間を超える。英文自体幼稚で誤訳も多かろう。原文とあわせて独りよがりの産物だが、思い入れは大きい。
 その英訳作業の間、秋に故郷和歌山県新宮市へ父母の墓参に出かけ、それを紀行文にしたり、年末年始にかけては友のスペイン・サンチャゴ巡礼を英文エッセイに仕上げたり、途中かなりの小休止はあった。そんなことで、自分としては超長編でもあり、訳文に一貫性を欠いているところもあろう、と気にかかっている。

 人生終盤の節目と言える「喜寿」の今日この頃≠ニ言えば、たった今まで尾を引いてきたこの小説と、そこに行き着いた60歳前後からの思い出を書きたくなる。
 ということで、このエッセイに場を借りることにした。長文・駄文を気にせず、思い出すままに綴ってみる。

(1) 保養所でのシニア・パソコン教室

 還暦(60歳)手前の今から20年近く前、脳梗塞後遺症による弱い左半身のリハビリも兼ねて、山歩きに夢中になっていた頃。
 国家公務員共済組合連合会(KKR)に勤める女性山仲間が、いつになくまじめに話しかけてきた。
「いま私たちは、各地保養所での泊りがけシニアパソコン教室≠講師・機材ともH社にまかせているのですが、講師がなかなか都合つかないようなのです。ですのでこれから、私たちが自前で新たに講師を募ることになりました。小芝さんはパソコン教室をやってますし、夜の夕食懇親会も苦にならないでしょう? できれば応募をお願いしたいわ。ご興味あれば、詳しくお話しさせていただきます」
 同会が運営している全国各地の保養所に、2泊3日のパック旅行で来られる定年退職者のご夫婦、そのシニアの皆さんを対象に、中一日をパソコン教室&夕食懇親会としている。どうやらその世話役の任を引き受けないかということ。

 ぼくとしても、還暦を機に、早めながら会社の第一線を退く決心をした頃で、渡りに船と、誘いに応じることにした。
 幸い審査に合格して、H社が行っている実際の教室を見学したり、予行演習も終えた。しばらくして伊豆長岡の保養所が皮切り。何とかやり遂げると、同行の担当者も気に入ってくれ、以降半年に2〜3度のピッチで声がかかるようになった。

 毎回1週間、温泉地の保養所に滞在して、入れ替わり来られるシニアの方々各10数名との出会い、ふれあいを楽しむ。

 パソコン教室は従来の教材を徐々に自分流に変えて、質問をより重視し、講座は必ず時間内に終えることを自分に言い聞かせた。
 夜の懇親会は、和やかをモットーに、参加の皆さん全員の興趣を第一義とした。これも時間延長のないようお名残り惜しや≠ナお開きを心がけて。
 いずれの回も何とか受講の皆さんに好評をいただいたようで、その都度役割を果たしたとの満足感を味わうことができた。

 伊豆長岡に都合三度、水上に二度赴き、KKR担当者の信頼も得られたようで、
「次は琵琶湖の湖畔に出かけていただきたいのですが。先生の故郷に近い南紀白浜も考えています」
 彼はそう言って勇気づけてくれた。紹介者の女性山仲間も大いに喜んでくれていた。
 それがあっけなく、ぼくのほうから突然お断りせざるを得なくなった。

(2) 12月クラブとの出会いとパソコン教室辞退

 還暦翌年、2001年春先のこと。大学後輩で、ぼくがホームページに力を入れていることを知る如水会(OB団体)幹部が、「12月クラブ」にぼくを紹介した。
 「12月クラブ」は、H大学(当時、T商科大学)の同期会で、ぼくの大先輩であり、全員80歳を超える。
 彼ら(352人)は1941年12月に、太平洋戦争勃発のあおりで、他の大学同様、翌年3月の卒業を強制的に12月に繰り上げられ、即兵役となった。
 卒業時から戦中・戦後にかけて彼らが残した文書資産は膨大で、かつ時代背景が鮮明である。それらが幸いにも幾つかの文集にまとめられている。
 彼らはこの年、卒業60周年を記念してホームページを立ち上げようとしていた。そこに文集群にある各自の作品それぞれの見出しだけでも掲載し、如水会館図書室に置く文集書籍への橋渡しを考えているとか。そして12月の記念総会でこれを披露しようとの意図を秘めている。

1. T商科大学卒業記念アルバム
2. 卒業25周年記念アルバム
3. 卒業30周年記念文集
4. 卒業40周年記念文集(波濤)
5. 卒業50周年記念文集(波濤U)
6. 12月クラブ通信(季刊文集)

 これら書籍を一覧しただけで感動し、思わず衝動的にその内容すべての電子化を口走ってしまった。が、誰がその作業を?
 行きがかり上、引き受けざるを得ず……。正直、自ら進んで引き受けたのだった。望んだわけではないが、助っ人は現れず。唯我独尊で、ドン・キホーテよろしく、大山に向かって槍をかざすことになった。

 5月になってあと半年と少し、「昼夜兼行でも記念総会までに間に合うかどうか?」。心配がつのった。
 最大これを妨げるのが、2〜3ヶ月毎に丸々1週間留守せざるを得ない「温泉地保養所でのパソコン教室」だ。
 尋常ならざる熱意は、一方で歓迎されるとはいえ、KKRにとっては無責任の極みで、迷惑この上ない。
 担当者に土下座し、事情を誠心誠意説明した。突然のことで、彼の驚きと失望たるや! 当然了解するはずがない。憤懣やるかたない表情あらわに席を立った。
 後日彼から電話で、「パソコン教室は当分中止することにしました」と、通知があった。女性山仲間は残念がりながらも、やむなしとしてくれた。
 ……

 さて、文集の電子化作業。記念総会までに完全電子化したい。
 連日連夜これに明け暮れ、眼医者のお世話になるやら、脳神経内科からは「面倒見ませんよ」……。
 夏のある朝、東陽町のオフィスへ行こうとメトロ東西線浦安駅の階段踊り場で失神した。気づいたら駅員室のソファーに横たわっている。間もなく救急車が来て、浦安順天堂病院へ。
 主治医のT先生があきれ顔で、診てくれた。
「あれだけ注意していたのに。気持ちはわかりますが、こうなっては元も子もないでしょう」。
 最近のぼくの事情を知る先生は、同情よりも厳しく注意に徹した。
 それでも幸い、結果的にはわれながら生まれて初めての使命感とも思える目的を果たすことができた。12月12日の記念総会で、電子化した先輩たちの文集作品を晴れがましくスクリーンに投影したのだった。

(裏話)
 膨大な文集をぼくひとりの手作業でできるはずがないこと、いかなぼくでもわかっている。左手指に難のある身で、器用にタイピングできるわけでもないし。
 Eタイピスト≠ニいう文字認識ソフトを購入した。思った以上に認識率が良い。文集のそれぞれをスキャンし、パソコンで再現する。ところどころ間違いもあるが、これの修正作業は手入力よりはるかに楽だ。
 この裏技がなければ、折角の情熱も藻屑と消えたこと、理の当然である。
(あれから15年余り。このソフト、どこへ行ったのだろう。見当たらない。)

 その意固地なほどの作業を12月クラブの方々はじっと見つめていたのだ。一切の見返りを拒否したら、記念にと、当時としては珍しいソーラーの置時計を授かった。

(3) 中村先輩

 そのお一人。12月クラブの初代会長で、今もその中心である中村達夫氏。当クラブの幹部としてはじめてお目にかかってから、記念総会でホームページ披露に至るまで、好意あふれるまなざしを向けてくれていた。
 年明けて、如水会賀詞交歓会に無理やりぼくを誘った。「名刺をたくさん持って来なさい」と言って。
 以降少なくとも月一度は半ば強制的にお誘いを受けることになった。ほとんどが同窓仲間の各種会合。そこで、「僕たちのあのホームページを作ってくれた方だよ」と、みんなにふれて回る。
 中村先輩は如水会では有数の重鎮だから、お集りの皆さんは、ぼくをおろそかにしない。お陰で商売(業務ソフトの販売・指導)のほうも忙しくなった。

 先輩はどの会合でもスーパーニッカ・オンザロックが定番だ。いつしかぼくもくだけた場ではたしなむようになった。
 ……が、折角の老先輩の好意も、社交性に欠けるぼくにとっては苦痛だった。どこも、概ね一家言持つ人たちで、なじめる場ではなかった。
 学生時代を通じて、学業に身を入れず、スポーツや文化活動にも無縁のぼくにとって、母校は、経歴の1ページではあるが、愛着を覚えるような思い出には乏しい。彼らの話題について行けないのが当然だった。
 が、先輩の周囲は常に華やいで、開けっぴろげだから、知らずぼくの気持ちも和らいだ。
 どの会合でも、先輩は演壇に立つ。スピーチはユーモラスで、一同を惹きつけて離さない。
 こんな先輩もいたのか……。ぼくに、遠い母校を唯一身近にさせた。

 先輩は学生時代、ボートのコックス≠ナ鳴らした。
「ボートが僕の原点なんだ。全てはそこで学んだ」
 そう述懐し、「コックスは、競漕時の司令塔たる舵手≠フ役目が仕事の一部だ。クルーの生活管理が大部分を占める」、と強調した。
 先輩の裏方に徹した頑張りも支えになってか、当時のボート界では、大学・実業団あわせて、T商大に並ぶべきものはなかった。在学中、昭和11年から16年まで、四度(よたび)全日本制覇を成した。第2期黄金時代として、学園の歴史で語り継がれている。

「部活動はさぞかし厳格で苦労されたのでは」
 ぼくの問いに、先輩の答は意外だった。
「僕たちの合言葉は、『漕艇とは何ぞや。ボートを漕ぎて遊ぶことなり。遊ぶというは愉快に遊ぶことなり』だった。青春を謳歌したんだよ」
 商大端艇部は、隅田川で汗を流し、夜は浅草でおだを挙げた。60年も前のことだが、思い出してはぼくを浅草に誘った。
「ここはね」
 当時をとどめているところでは、説明に熱がこもる。記憶を頼りに路地を巡り歩いた。
 歩きながら、母校の歴史を語る。ご自身の逸話を種々織り交ぜて、話は尽きない。学問とスポーツの重要さを強調する。
 ぼくが生まれた昭和15年(1940)の東京オリンピック≠ヘ欧州大戦勃発のあおりで幻と消えたが、実現していれば、ボート競技は、彼ら学生と囚人の混成作業によって出来た埼玉県戸田のプール・コースで行われたはず。そこに商大の仲間とともに先輩も出場していたかもしれない。事実、同年の戸田コース初の全日本大会は先輩たちT商大が制しているから。

(4) 「怪獣の棲む講堂」と先輩

 中村先輩との親しいお付き合いさ中の2004年5月半ば(だったか?)。
 いつもの如水会館14階のラウンジ「Ikkyoクラブ」で、スーパーニッカ・オンザロックをたしなみながら、先輩は異なことを話し始めた。

 数日前に国立(くにたち)のK講堂で改修記念コンサートがあり、画家のF女史と楽しんだ。女史はコンサートよりもホール内のそこら中に刻まれた妖怪・怪獣群に驚き、先輩に話し込む。聞きながら、先輩はハッと別のことがひらめいた。
 講堂ファサード上部に飾られた4つのレリーフ。上の大きいのが校章のマーキュリーで、突端が翼状の杖に蛇が2匹巻き付いている。すぐ下で横に並んだ3匹の動物は、中国風の戯画で鳳凰、獅子、そして龍。大学ではそれら4つの紋様を合わせて四神像と呼んでいる。中国神話の四霊獣。朱雀、白虎、青龍、玄武だ。

 その翌日から先輩はこんな「??」に取りつかれていると言う。

1.講堂には内外とも、なぜ怪獣がはびこっているのか?
2.一番見栄えのいいところに、なぜ奇妙な四神像が配されているのか?

 先輩はそこまで話して、対面するぼくを見つめて、
「自分なりに調べてみたいのだ。協力してくれるね」

 7月下旬、東京が摂氏40度を超えた日。先輩とF女史にお供して、K講堂を内部も外部も、くまなく歩き回った。大学側も施設課長が自ら作成した資料をもとに説明してくれるやら、係長が講堂内部全てを案内してくれるやら、ご好意に感謝した。
 それにしても、どこもかしこも怪獣たるや。

 大学を無為に過ごしたぼくには、それまでこの講堂にも何の関心もなかったから、先輩の調査からして実感がわかない。が、先輩はこの時点で何らかの確信に基づいて更なる探索を決意したようだった。それから先輩は物の怪(もののけ)にとりつかれたように実地調査に邁進した。関係各所への訪問・面談、資料の収集・精査。
 11月下旬、彼行きつけの浅草のそば屋に、その間付き添った関係者を集めて、「K講堂とファサードの四神像」のなぞ解きを行った。

 調査で得た成果の一部始終をライフワークたる論文に仕上げようと意気込んでいた矢先、先輩は動脈瘤破裂という決定的な病に伏せた。
 病院のベッドで
「すまんが、僕の願いをかなえてくれないか」
 この調査の全てに付き添ったぼくに、先輩は一方的に後を託した。

 先輩のように確信をもって論文に仕上げるのは、いかに言っても不可能。やむなく「信念・技量ともに危なっかしいのは重々承知。ウソと誤解交じりなら」と、小説まがいにしたのが、この「怪獣の棲む講堂物語」だ。2年近くを費やした。
 中村先輩がこれほど親しく付き合ってくれたことへのぼくの心からの感謝であり、自らは大きな記念碑。受けねらいを排し、ひたすら自分のために書いた。

 それでも、小説のイロハもわからない身。
 浦安市の中央図書館で開かれていた文章作成講座でM先生の熱意あふれるご指導にあずかった。
 その講座で知り合った新進の作家O氏。その献身的な薫陶にはただただ頭が下がる。2週間に一度喫茶店で落ち合い、毎回時間を気にせず朱を入れてくれ、小説の各場面で(思いもよらぬ)違った発想を伝授してくれた。
 「お役に立つかも」と、2冊進呈してくださった。『新選組血風録』(司馬遼太郎、中公文庫)……「沖田総司の恋≠フところだけでも、読んでみなさい」。それに、『文章の書き方』(辰濃和男、岩波新書)……「ぼくは全て暗記していますから。最低3回は読みなさい」。
 そしてもうお一人がT医師。浦安順天堂病院脳神経内科長でぼくの主治医だ。ペンネームを持つエセイストでもある。ご要望に応じて手渡した大部の原稿を丹念に読んでくださり、定期検診の都度貴重なアドバイスと心強い励ましをくださった。

 平成18年(2006年)11月19日付で、中村先輩はこの小説をご自身のエッセイと合わせてハードカバーの書籍とし、米寿記念として私家版200部を出版してくれた。書名は「私のK講堂」。ぼくの小説は第2部で、当時の題名は「ロマネスクと四神像」だった。
 翌年2月、先輩は旅立たれた。

 思い出の写真をここに残す。
12月クラブ卒業60周年記念総会(2001年)
日本寮歌祭(2004年)
「怪獣の棲む講堂物語」関連
中村達夫先輩とぼく
(5) 英訳と原文改訂

 とりわけ70歳前後から、英語習得という見果てぬ夢を追っていることは前段でも触れた。
 聞く、話す、読む、書く。一筋縄ではない。「聞く、話す、読む」は、出不精や根気の衰えが原因してほぼ挫折。危うく残った「書く」の向上を目指して、数年前まで国内紀行文を主体に英訳に励んできた。量だけは自慢したくなるほどに増えている。
 そして昨年春、「怪獣の棲む講堂物語」英訳への挑戦を決意。何度かの中断を経てこの4月2日、一応の訳出完了。都合1年以上かかった。

 苦労した。内容のどこも思い入れが深い分、ぼくの実力では満足のいく英訳は到底無理。と言って断念する気はさらさらない。あるところはすっとばかしたり、舞台を変えたり、写真で代用したり、……。読みやすくなければとの理屈もこねて、テスト朗読も。

 英訳中、原文に幾つか齟齬(そご)が見つかった。つじつまが合わなかったり、加筆修正したい個所もある。2週間ほどかけて原文改訂。これで4度目だ。改訂の結果悪くなったところもあろうが、それはそれでよし。
 H大学キャンパスのK講堂に巣食う怪獣たちとのかかわりも、これで店じまいにしよう。「人生アガリ」まで、他にやりたいこともあるし。

朗読 30分20秒
総朗読時間 1時間3分05秒
< 3&4 喜寿、今日この頃と、怪獣の棲む講堂物語
おわり
2017年5月7日
1.近況 2.快食、快眠、快便
3.外との接触 4.旅行
5.怪獣の棲む講堂物語
再朗読(2023.08.26)
雑記帳第103話
「喜寿の年、今日この頃」と
「怪獣の棲む講堂物語」
part1 part2 part3 total
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