あの日(4月29日)上野公園をあとにするとき、彼と名刺交換した。1ヶ月と少したってメールが来た。「初の屋内コンサート」の宣伝である。
 アルトサックスによるフュージョン系(ロック+ジャズ)のコンサートだ。この手の音楽はぼくにとって、20、30代ならまだよかったが、いまは喫茶店でだれかとしゃべっているとき、BGMで聞こえるまではよい。それもしょっちゅうは困る。自分から進んで聞き耳を立てることはありえない。フュージョンという言葉すら、最近Yさんに教えてもらうまで知らなかった。
 一人で行く気はさらになし。話のついでにYさんに、
「興味ありますか?」
 水を向けると、
「行きましょうよ」
 気軽に応じてくれた。
 
 Yさんは電電公社(現NTT)にいたとき、仕事のかたわら社内バンドのベース奏者でもあった。その関係もあってか、クラシック以外は何でも屋である。
 強いていえばジャズ、ラテン、タンゴが得手で、そのジャンルのLP、CDをずいぶんお持ちである。津田沼のお宅にお邪魔しては特上のオーディオ環境で聴かせていただいている。
 ぼくはクラシック音楽一筋だ。声楽を除けば何でもよい。器楽のソロからオーケストラ曲まで。パブロフの条件反射ではないが、クラシックの何かが聞こえると心が落ち着く。バロックから、バッハ、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、マーラー、ショパン、バルトーク、ウェーベルン、武満徹……。要は何でもいいのだ。
 Yさんに感化されて、ジャズの一部(クール、モダン)はときどき聴くようになった。その他は全部ダメ。演歌や今様のポップスは無論、歌謡曲、シャンソン、イージーリスニング、ロック……全てが概ね雑音である。ビートルズと石原裕次郎は別枠としておこう。

 Yさんと一緒だし、まあ励ましということで、メールの誘いに応じることにした。
 以下はその夜(6月25日)、結構楽しんだコンサートの一部始終である。 


 
サロン・コンサート 梅雨の夜空にアルトサックスが吼えた。窓を破って、雨滴に光るネオンサインを貫いた。
 重低音の響き。哀愁の調べ。バーラウンジは酔って揺れた。
 Kensuke N、ストリート・ミュージシャン。今夜は、彼の室内独奏会デビューなのだ。

 もの静かな男。小太り、訥(とつ)弁。どこからあんなパワーが爆発するのか。でいて、丁寧な演奏。心と気合がこもっている。頼もしく、大きく見えた。 
 
 6月25日、7:30pm。銀座のスナックにて。
 狭い店内は、メール案内だけで参集したいわば内輪の50人ほどで埋まった。ロック、水割り、ワインが各テーブルに並び、客はサックスに聴き入る。ときどきウエイターがお代わりを運ぶ以外は邪魔がない。アットホームでいて、適度な緊張がただよっている。
 ぼくはYさんと一緒にいる。Kensuke Nは、彼の肥えた耳にどうか?
 9:00pmまで、たっぷり1時間半、Kensuke Nは小休みもしなかった。ときに感情豊かに、ときに力強く、うつむきかげんに目を閉じてサックスを奏でた。

  • Saving all my love for you
  • Ellie my love
  • New York City Serenade
  • My heart will go on
  • Greatest love of all
  • Georgia on my mind
  • Twilight in upper west
  • Without you
  • Through the fire
  • Hero

 概ねピアノと電子音楽の伴奏付だが、ぼくはソロのほうが気に入った。
 下戸のYさんは、付き合いの水割りグラスを掌(たなごころ)でもてあそびながら、結構楽しんでいる風だった。 

 ぼくはもっぱらクラシック音楽だから、Kensuke Nのジャンルはぼくにとって、「どちらかといえば……」なのだが、正直、身を乗り出して聴いた。
 各曲のメロディは耳新しくないが、聴くにつれ、それらを超える魅力を感じた。数年前、小集会で柳家花禄(小さんの孫)が「紺屋高尾」を演じたときの印象と同じだった。伸びる!
 だからYさんの感想が待ち遠しかった。
 帰りがけにYさんは彼のCDを買っていた。そして、
「よかったね!」、ニコッとして言った。
 ジャズファンを自認するも、フュージョン系はほとんど口にしない彼が、ごく自然に誉めた。
「あとは運と出会い、それにスタイルですかね!」
 駅への道、雨傘越しにYさんは言った。
 確かに気負いはある。初演のせいもあろうが、でなければ若さの特権は廃(すた)る。これを超えた向うにKensuke Nスタイルが待っているか。
 彼、今年初めまで大手自動車メーカーで生粋のエンジニアだった。40才手前。ぼくがD鋼をやめた年より10才は若そうだ。手に職(当然!)もあるし、ぼくほどアホウでもなさそう。 グッド・ラック!
 
 帰宅を急いだ。テレビはサッカーW杯・韓国vsスペインが後半のデッドヒートたけなわだった。 


 実はその夜、ぼくも同じCDを買っていた。あくる朝聴きかけて途中でやめた。前夜かなり興奮し酔いもした同じ曲どもである。
 あの興奮はうそのようだ。アルトサックスの甘ったるい音色でムードを必要以上に盛り上げているように聞こえる。嫌みな空回りだ。
 あの感動はかぶりつき臨場感の産物だったのか。代わりにバッハをかけてほっとした。
 ほどなくYさんから電話がかかる。
「昨夜はありがとう。よかったですね。たいした期待はしていなかったんだけど、並じゃないですよ、彼は。あとは運ですね、昨日も言ったけど。いまCD聴いてるんですよ。なかなかじゃないですか。気持ちがこもってますよ。レパートリーをもっと増やして、世に出て欲しいですね!」 

〔ストリート・ミュージシャン〕
おわり
2003.06.08
朗読(9'45") on
Part1
上野公園にて
Part2
サロンコンサート
再朗読(2023.04.06)
「ストリート・ミュージシャン」
part1 part2 total
7:17 9:19 16:36
 
第30話 第32話
Close  閉じる