那古寺の歴史
養老元年(717)、元正天皇がご病気のおり、僧行基がこの地を訪れ、海から香木を得て千手観音菩薩像を彫刻し平癒を祈願したところ、たちどころに天皇のご病気が治られ、その報謝にと建てられたのが那古寺の始まりといわれています。
その後、慈覚大師が訪れ修行し、1200年頃には慈円上人によって真言密教の霊場となり、鎌倉時代には石橋山の合戦に敗れた源頼朝がこの地に逃れ、再興を期して七堂伽藍を建立しました。
さらに当山第二十一代の別当には里見義秀、第二十三代には里見の熊石丸が就任するなど、里見氏とは深い関係を持ち、寺勢は大いに栄えました。
しかし、元禄十六年(1703)の大震災で塔堂は全壊、那古山のすぐ下まで迫っていた海岸線は隆起によって後退してしまいました。徳川幕府は1759年に現在の地に再建を命じ、明和年間(1764-1771)に落成しました。
大正十一年に本堂の大改修が行われましたが、翌年関東大震災により半壊しました。が、十三年には復旧、その後、仁王門や鐘楼堂を建立、多宝塔、阿弥陀堂も修復し、現在にいたっています。
山号の「補陀落」とは、観音信仰の中心地で、「眺望も絶景で海に臨んで花咲き、鳥もさえずる極楽の境地」を表しており、ご詠歌の「岸うつ波を見るにつけても」は、寺の参道のすぐ下に打ち寄せる波を見ながら詠んだものです。
坂東三十三霊場の結願寺
「観音様の三十三の救いにおすがりすることが極楽へいくため」ということに発する観音巡礼は、関西の「西国三十三霊場」、関東の「坂東三十三霊場」に、「秩父三十四霊場」を加えて、百観音巡礼へと発展していきました。
坂東三十三霊場は、鎌倉の杉本寺から始まり、相模・武蔵・上野……などを経て、結願寺の那古観音で終わる1,360キロの道程です。
源実朝の時代に札所が成立したといわれ、その当時から現在にいたるまで多くの人々が巡礼によって観音様と結縁しています。
観音とは「様々な世の音を観て」相応の救いをするところから、本尊には千の手や、、十一の面、千の目などを持つものが多く、那古寺にも千手観世音菩薩像が奉安されています。
|