自身の「中高年の元気!」とは別に、ボランティアとして制作を引き受けた外部HP(ホームページ)が幾つかあります。そのうち思い出に残るものを披露したくなりました。 |
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まず、在住の浦安市で所属した二つの団体。それぞれでHP制作に関わりました。
その一。
シニア団体「AAネット浦安」の会員として、数年間HPを担当しました。中で、自分なりに力を入れた報道が四つあり、いずれも現在、会員専用のウェブサイトでアーカイブとして保管されています。
これからもAAネットの活動の一面を有意義に伝えるものと思い、また制作者としての懐旧の意を含めて、ここにも掲載させていただくことにしました。但しこちらは会員の大写し写真やお名前を差し控えます。
他に二つ、「日本語講座」と「総合フォーラム」です。市の主催した催しにAAネットが協賛したもので、いずれもぼくにとってはやりがいのあるイベントでした。
その二。
2009年5月から数年、浦安市国際交流協会(UIFA)の文化交流部会に所属しました。
部会のイベントをほぼその都度お披露目してきましたが、思い入れ深い三つをここにも掲載させていただきます。但し、写真や表現は少し変えて。 |
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話を次に進めます。
吉野賢三氏の「BGM Saloon」。氏のMIDI音楽をまとめました。
MIDIは「Musical Instrument Digital
Interface」の略で、「電子楽器デジタルインタフェース」です。
吉野氏がギターを主とした各種楽器で演奏した曲を、このMIDIという規格に沿って電子データ化したものです。他のフォーマットに比べて容量が非常に軽いこともあって、インターネットで重宝されています。
「BGM Saloon」の場合、これが電子音楽? と疑うほど、氏の温和な表情・生き方が各曲を通して伝わってくるはずです。
「中高年の元気!」は、その開設当時から、BGMのみならず、氏のご好意に支えられてきたことを申し添えます。 |
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私の最大思い入れ深い外部HPは「十二月クラブ」です。
2001年の春から暮れにかけて作業し、ウェブサイト開設にこぎつけました。
1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争勃発に伴い、翌年3月の卒業を繰り上げさせられ、即兵役となった、大学母校先輩352人(卒業当時)の諸文集をまとめたもので、感動がぼくをここまで夢中にさせたと、いまも自認しています。現在もこのHPは発展的に如水会で運営され、関係者によって新たなトピックが毎月加えられています。
あの時の原版がわが家の古い外付けハードディスクに見つかったのを機会に、ぼくをこの作業に至らしめた忘れ得ぬ思い出とともに、「十二月クラブとは」として、この「覚え書き」の中に残すことにしました。
その年4月に如水会の会合で山崎担先輩(十二月クラブでHP制作をご担当)にお会いしたのが機縁で、初夏から晩秋にかけて会員のみなさんに支えられて完成を目指しました。
後輩の渡邊桃伯子さんに大感謝です。ともクリエーションズを経営しておられる彼女には社をあげてずいぶんご支援いただきました。完成作品は、技術面・人海戦術を含め同社と私の合作です。
その年、2001年12月の卒業60周年記念総会でお披露目した後は、心身ともに疲労困憊で、引き続き維持更新に携わることができず、先輩のみなさんに迷惑をかけてしまいました。
体が変調を来して病院通いが数ヶ月続いたのも忘れ得ぬ思い出です。
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なお、各所で流れるBGMは全て、吉野賢三氏制作のMIDI音楽です。 |
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HP制作への深い関与がなかったら、当然20年も隔たった十二月クラブの先輩たちとの出会いもなかったでしょうし、その後重鎮・中核の中村達夫先輩からお呼びがかかり、それから先輩がお亡くなりになるまで数年にわたって、誇らしく吹聴できるほど親しくしていただくこともなかったでしょう。
自身なんとか卒業したとはいえ、無為徒食の4年間をいまも悔いる一橋大学での学生生活。だから就職してからは当然の如く母校とは縁遠くなり、学友との交流も断たれたままでした。
そんなぼくを「私について来なさい」と、中村先輩はいろいろな会合にぼくを伴い、紹介に余念がありませんでした。新年会、クリスマスパーティ、各種OB会、母校の著名人との会合、催し、キャンパス巡り……。
それらの幾つかは「中高年の元気!」のどこかに顔を出しますが、次の二つはぼくにとって「中村達夫先輩と私」の思い出です。
一つ、ぼくの願いを聞き入れて、先輩は10数名の後輩を前に、2時間にわたって「母校の話」を語ってくれました。その模様は、雑記帳第32話として残してあります。
一つ、母校の誇らしい裏面史伝授の強い思い入れで、先輩はぼくを伴い、国立キャンパスの兼松講堂の成り立ち・由来を追跡調査されました。調査半ばで病に倒れ、完遂に至りませんでしたが、それでも床にあお向けで力を振り絞って執筆を続け、そのレポートを「米寿記念」としたのでした。「私の兼松講堂」と題し、前半が先輩の「わたしの兼松講堂ものがたり」で、後半に、先輩の命を受けてぼくが小説もどきに書いた「ロマネスクと四神像」を載せてくれました。
200冊を私家版として出版され、友人に配られました。そして数ヶ月、安らかに天国へ旅立たれました。
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2011.07公開 |
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ぼくの小説もどきはその後改訂し、題名も「怪獣の棲む講堂物語」として、「雑記帳」に掲載してあります(第46-48話を改訂し、第116話、2018年現在)。
中村達夫先輩との写真
朗読: 10' 29"
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