この夏(1998年)8月14日から3日間、妻の伯父ご一家の好意で、信州望月へ旅することになった。

 14日午前3時、中古マークUステーションワゴンに妻、義妹、ぼくの三人と、沢山の荷物を積んで浦安のわが家を出発。

 首都高速、外環を経て、関越自動車道へ。真っ暗闇を突っ切って、マークUは快調に走る。
 「ラジオ深夜便」が4時台の「心の時代」を伝える中、車は藤岡ジャンクションを通過して、関越から上信越自動車道に入る。空が少し白んできた。

 小諸インターを出て懐古園着、まだ6時半。予定より2時間は早く着いた。入口の三の門付近に、当然ながら人(ひと)気はない。雨が少しぱらついている。
 掲示板の周辺案内を頼りに、先に布引観音に詣ることにした。

布引観音
 
 ずっと細い道を走って山門に到着、7時。
 駐車できる広場はがらんとして、蝉と小鳥の鳴き声だけが響いている。車から出て、小雨混じりのおいしい空気を吸う。
 靴紐を結びなおし、早速布引観音へ向かって「一巡1時間」の石段を上り始める。段差は大きく、かなり急だ。
 途中奇岩の見所がいくつかあり、そこを30分ほど上ると、眺望が開けた。プロカメラマンらしき数人が椅子に深く腰掛けて眠っている。正面すぐそこに布引神社が見える。

 渓谷を隔てて、向こうの険しい山腹に布引観音が見える。京都の清水寺に似ている。いわゆる、"布引山の絶壁に設けられた朱塗りの舞台作り"である。そこまでつり橋を渡る。

 絶壁の観音堂は年代物だ。絶壁がまたいい、スリルがある。しばしぐるりを行き来して、ありがたみをかみしめた。
 深夜3時に出発してよかった。早起きは三文の得とはよく云ったもの。途中一度も渋滞に会わず、予定外の観音様を拝顔することができた。後でかなり眠くはなるが……。

 山門へ下って、おにぎりをぱくつく。空気はさわやかで、幸せのひと時だ。雨がとっくに止んでいるのを忘れていた。
 いつしか時計は9時を回っている。布引温泉は入口を垣間見るだけで、懐古園へ引っ返した。

懐古園
 
 小諸駅の駐車場に車をおく。朝方の小雨混じりがうそのように盛夏特有の空、山の上に入道雲が広がっている。すでに日差しがまぶしく、暑い。サングラス、半ズボン、Tシャツにリュックの出で立ちは、身軽・気楽でいい。

 表玄関にあたる三の門をくぐる。(10時)
 すぐ左の徴古館に入る。ここは江戸時代の武具や古文書を展示する資料館だ。そこから少し向こうに藤村記念館があった。
 さて、懐古園ぶらり散策のはじまり。

 小諸城の石垣が周囲を固める厳かな城址公園である。炎天に蝉の声がやけにこだまする。桜の葉陰の並木道はそよ風が心地よい。夕方までに望月へ着けばいいのだから、時間は充分すぎるほどある。じっくりと古城・懐古園を味わおう。

 園内の西端には水の手、南端には富士見台という、2つの展望台がある。どちら側にも立って、遙か遠くまで連なる山並みや、真下を流れる千曲川を眺める。

 小諸の洋画家・小山敬三美術館(園内北端)で1時間ほどを費やす。絵の鑑賞20分、残りはベンチでうたた寝。

美術館の管理人 「いかがでしたか?」
ぼく 「おかげでさわやかになりました」

 江戸時代の町並み、本陣、その他観光案内にある園内名所旧跡をくまなく見物。1時過ぎまで、懐古園を堪能した。
 
バーベキューパーティ
 
 妻の伯父松原様宅にて。
 夕方、一族郎党が駆けつけて中庭に集まる。バーベキューパーティーの準備だ。
 石油のドラム缶を縦に輪切りにして作ったバーベキューコンロ。斧で割った薪はコンロの中でよく燃える。薪の上の練炭はすでに赤々といこっている。

 コンロを鉄板と金網で半々に分け、鉄板側には牛肉と野菜。肉は信州産、野菜はすべて松原さんの畑で穫れたものだ。ソース味を周囲にほとばせながらジュージュー音を立てる。
 金網にはぶつ切りの肉とネギ、なすの串刺しが分別なく乗る。さらに取れたてのトウモロコシ。

 宵闇の中でコンロの熱気がぐるりを囲む15人の頬を焦がす。焼けた具は瞬く間にみんなの口の中へ。代わりの具が次々と鉄板と網に並ぶ。

 生ビールの喉ごしは言を待たない。1.8リットル缶の中身はアッという間に消えて、いつの間にか空き缶が数個隅に並んでいる。
 ぼくのトウモロコシ好きは自他共に許す。夕方ゆでたのを1本半頂いたが、さらに金網で焼き転がしたのを2本平らげた。
 
横岳ロープウエイ
 
 翌日(8月15日)。
 望月から国道154号を東南へ1時間。八ヶ岳連峰の北横岳登山口にあたる、ピラタス・ロープウエイの入口である。
 寒い! そんなことつゆ知らず、半袖で来た。

 ロープウエイに乗って高度440メートル上へ5、6分で行き着いた。ここは標高 2,440mで、北横岳の8、9合目くらいか。気温は下の入口より4度低いそうだ。少なくとも10度以下であるが、風を計算に入れると体感温度はさらに低いはずだ。折りからの霧で視界20、30メートル、半袖姿の腕は鳥肌になっている。かなりキツイ。
 普段なら30分という遊歩道を、気をつけながら50分かけて歩く。ときどき霧の晴れ間から墨絵のような景色が覗く。寒さに震えながらも、半分気分爽快だった(とは少し強がり)。

榊祭
 
 信州望月はむかし中山道の望月宿だった。中山道六十九次26番目の宿場である。本陣や旅籠が軒を連ねていた当時の面影が今に残っている。

 望月の榊祭は大伴神社の例祭で、毎年8月15日に行われる。
 朝7時頃、トラックが榊(じつはミズナラ)を山から御輿のスタート地点に運び入れる。昼過ぎから笛や太鼓、郷土民謡がスピーカーで流れ、町の雰囲気が盛り上っていく。榊祭序曲といったところだ。
 夜7時過ぎに鹿曲川(かくまがわ)上流の望月山の稜線2点から炎が上がる。
 およそ500人の氏子たちが松明(たいまつ)に火を移して山を駆け下りてくる。ふもとの大川は鹿曲川という。10人から20人単位でその橋に整列して一斉に松明を川へ投げ込む。暗闇でいくつもの炎が弧を描いて川面へ落ちていく。見晴らしのいい場所に見物客が群がり、フラッシュがたかれる。
 あいにくの雨で、人出は例年の三分の二ほどだそうだが、それでもずいぶん賑やかだ。

 9時頃になっていよいよ目抜き通りの東端から西の大伴神社に向かって御輿の乱舞が始まった。広場の脇では、太鼓連打あり、郷土民謡が謡われている。
 幸い雨があがった。すでに見物客は街路を埋め尽くしている。

 10年前までは町の地区毎に10数台の御輿が並んだそうだが、過疎化には勝てず、ここ数年4台のみだそうだ。東町、西町、中町、臼台。それぞれ襷(たすき)の色を分けている。赤、青、白、黒。
 やけに茶髪が多い。かわいい女性も何人か担いでいるようだ……近づいてよく見ると全て男だった。お盆帰りの若者、他の町村からの助っ人。地の者は少ないという。

 町並みを練り歩き、大伴神社の急階段を駆け上って、本殿前でさらに激しく長く練る。
 午前零時をすぎて祭りは終わった。

望月の朝
 
 16日、松原様宅3日目の朝。起きてすぐ外に出てみた。6時。
 盛夏に秋晴れ、早朝に田んぼは輝いている。あぜ道に入ると、見渡す限り稲穂が黄金色の波をなしている。田園風景に縁遠くなっているぼくには目に鮮やかで、豊穣の秋を確信した。
 匂いも新鮮だ。爽(さわ)やかとふくよかを足したようで、胸張って深呼吸を繰り返す。蛙(かわず)の声が騒がしい。何重唱か。ほどよい間隔で合唱している。遠くでは蝉の声がすでににぎやか。昼には今日も炎天になっているだろう。
 政府の減反政策で農家の苦悩をよそに、よほどの台風でもない限り今年も豊作……、手放しで喜べない奇妙な世の中だ。
 母屋につながって果樹園があり、トマトが真っ盛り。お願いして三つ四つもいでみた。食卓に出してくれる。

 朝食終えて、裏山の墓参りにつきあう。段々坂はお年寄りにきつい、との気遣いは不要だった。松原様ご夫妻とも80を超えているが、すたすた前を行く。ぼくと義妹は山歩きの要領で何とか対面を保ったが、妻は息を切らしていた。
 山の中腹から望月町を一望できる。昨夜榊祭の"つわものどもが夢の跡"も、そんなことがあったのかと目を疑うほど、静かな農村風景だ。飛び交うトンボと騒がしい蝉時雨が、「お盆の季節」であることを知らしめてくれた。
 
 帰り道、親戚を数軒訪ねる。結婚直後に一度、それに留学終えた際と、いずれも30年もはるか前に、こちらの都合でうかがって以来だ。
 伯母の宅では90に近いおばあさんが待ちかねたように、妻と義妹をチャン付けで、丁寧な手織りの刺繍額をそれぞれに手渡してくれる。涙が出た。

 夕刻、望月インターで中央道に入る。
 親戚のもてなしに支えられて、1998年のお盆は思い出深い旅となった。

小話集第5話〔信州でお盆〕 おわり
1998.08

朗読(18:21) on
<第4話 小話集表紙へ 第6話>
メール