1.初日
2.二日目
3.三日目
Part3 三日目 8月3日(金)
 最終三日目、帰りのホテル出発が午後2時でなかったら、紀行文を書く気にならなかっただろう。その時刻まで自由時間になっている。これが幸いした。
 ぼくは腰痛に悩まされているし、妻は昨日軽井沢駅前の大アウトレット・パークで3時間以上もウィンドーショッピングをし、疲れをあらわにしている。が、「その辺の散歩やロビーでのんびり……」では物足りない。幸いぼくの腰痛は普通に歩くだけなら大丈夫と、昨日アウトレットで確認している。

 予定どおり「バラギ湖のぐるりを散策」で、二人の意見が一致した。
 一周に1時間も要さない人造湖で、周辺の景色もすぐれているらしい。「お時間があればお薦めします」。これといったあてのない客へのフロントの一押しだ。二日目の昨日なら、ホテルで午後一時出発の送迎サービスがあった。

 ホテルあつらえのおにぎり弁当≠リュックに入れて、9時にホテルを出る。フロント担当Sさんによれば、45分かそこらで湖に着くはず。1時半にはホテルに戻らなければならないとしても、自由時間が4時間半もある。彼女に教わった道順を反芻(はんすう)しながらホテルを出た。

 ホテル玄関の朝市はさっきまで宿泊客で賑わっていたが、出がけに見るとすべて売り切れてしまっている。キャベツ、大根、レタス、キュウリ、枝豆、カボチャ、トーモロコシ、トマト……、あれだけ山積みだったのに。

 緩やかな坂をしばらく下ると道が二股に分かれていて、左に折れるとバラギ湖方面になる……はずなのだが、二股のところまで20分ほどかかった。帰りは上り坂になるからぼくたちの足では30分は覚悟した方がよい。
 ここから先は道の両脇が亜高山帯の花々オンパレードだった(この章末尾の「目についた花々」をクリックされたし)。
 花ばかりでなく、生き生きした雑木林にシラカバが交じっている。そして足元で野草たちが生をおう歌……どれもこれもがぼくたちを山懐(やまふところ)に抱かれた気持ちにさせる。

 バラギ高原キャンプ場を標識にしたがって左へ抜けると、二人が並んで歩けないような小径になる。

 ゆっくりゆっくり歩いてもホテルから1時間少々でついた。
 バラギ湖は周囲2キロメートルの湖だそうで、標高1,400メートルのバラギ高原にある。目の前に四阿山がくっきりと見える。

 湖にせり出した台の上でご夫婦だろうか、釣り糸を垂れている。人気(ひとけ)はそれだけだ。

 貸しボートもあるようだが、時間のせいかどうか、湖には一隻も浮かんでいない。
 バラギ湖は夏空の下でさざ波もたてず静か、仮眠をむさぼっているようだ。よく見ると、岸辺のあちらこちらでニジマスだろうか、チョポンチョポンとはねる。湖には眠りの妨げか、それとも心地よい子守歌?

 「熊に注意!!」の看板がいくつも目につく。妻は当然のごとく尻込みして一周をためらう。
 「大丈夫だよ」、なんの根拠もなくぼくは平気を装って妻を促す。……やはり出た!

 ニジマス釣りが売りらしく、ただいま現在はなぜか釣り客は少ないが、岸辺では村の係員男女がタンクローリーから放魚していた。

 少し歩くと賑やかな声がして、小学生たちがルアーで釣っている、釣っている。なんと! 並んだどのバケツの中も獲物がばたくっている。一人二人が「ぼくが釣ったんだよ」と獲物をかざした。

 …………
 一周終えてキャンプ場まで来た。
 ホテルのおにぎり弁当をぱくつきながら調理小屋に入る。中学生数人が(かまど)で火をおこしている。そこいらで拾ってきた(たきぎ)をうまく積み重ねて、火吹き竹に口をふくらませている。
 「おじさん、上手でしょ!」「カレーライス作るんですよ」「1時間いてくれたら、少し食べてもらえるんだけどなあ」

 邪魔にならないように、励ますだけでサヨナラした。見れば小屋の向こうの木陰が彼らのキャンプ場になっている。

 まだ正午前で、1時間半も自由時間が残っている。帰りは大いに道草した。
 妻は俳句を楽しんでいるせいか、花を見てはいちいち立ち止まる。ぼくはぼくで「なんていうの?」、覚える気もないのに横合いからちょっかいを出す。花の名において、ここ数年の妻の進歩は特筆に値する。
 今回も「○○よ」と明確に答えられるのが三分の一ほど。「○○ではないかしら……」と手持ちの小図鑑に照らし合わせたり、電子辞書の助けを借りたり、とりあえず写真に収めたり……、忙しい。1500mの花々は、特別の興味を誘っているようだった。

 写真に収めた8月はじめの花々はこんな具合。

…………………………
イワツバメ(岩燕)の群落

 初日荷物を部屋に置いて、まだ3時半。テレビのオリンピック番組でくつろぐ時刻でもないし、湯船には早い。バスから眺めたキャベツ畑オンパレードまで歩くことにした。15分ほど坂を下ると、車中で見たとおりに見渡す限り広がっている。
 賑やかなさえずりに気づいて、真上の電線を見やると、いるいる。驚いた。燕に違いないが、小さいからイワツバメなのだろう。数え切れないほどがずらりと並んでさえずりあっている。それだけではない。止まりきれない大勢が周囲を飛び回っている。

 嬬恋村での新発見には違いないが、ここになぜ? 適当な答えが浮かばないままその日は終えた。

 翌早朝も翌々早朝も、窓から部屋へかまびすしい小鳥たちのさえずりが耳に押し寄せる。なるほど見ると、ホテルビルの壁という壁の窪みがすべてイワツバメの住み処なのだ。
 下でブルドーザーのけたたましい音がすると、一斉に跳ね飛んだ。その数たるや!
 ロンドンでは人類の祭典が、嬬恋村では「パルコール嬬恋」を中心にイワツバメの祭典が繰り広げられている。

スコットランド交響曲

 嬬恋に到着した夕方、キャベツの大草原を見渡していたときふと「……似ている」、思わぬところにひらめきが飛んだ。
 景色そのものよりも空気、雰囲気。遠方、山々の稜線はあかね色に変化しはじめ、山すそから広がる草原は鮮やかな緑に陰がさして、イワツバメの巣帰りとともに嬬恋村は今日一日に別れを告げようとしている。ここでバグパイプの音色が流れてもおかしくはあるまい、そんな思いが去来した。

 三日目の正午、バラギ湖一巡を終え、嬬恋キャンプ場の木陰に坐っておにぎり弁当を広げている。手拭いを出すまでもなく、そよ風が汗をぬぐい去ってくれる……。気分が和むにつれて、再びバグパイプの音色が耳をくすぐってあの景色が脳裏にダブった。
 キャベツ畑の息吹き・ざわめきを風が運んで、白樺林を抜けてぼくを通り過ぎるとき、それはメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」が奏でるメロディに昇華している。

 8年前(2004年)の春、イギリスへ旅し、スコットランドとイングランドを巡った。景色ではとりわけハイランド地方と湖水地方の印象が濃い。「濃緑の草原に羊、々、々。ヒースの丘、々、々」。
 実景はともあれ、記憶の景色はぼくならずともバラギ高原にイギリスのあの状景が結びついてもなんの不思議もないと思った。メンデルスゾーンの交響曲第3番を媒介すれば。
 ぼくにはむしろ嬬恋村のこの風景のほうが曲になじむ、そう感じいった。

ハイランドと湖水地方↑↓

三日目、その他の写真

朗読(13:23)  on
小話集第51話「夏の嬬恋村三日間2012」
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再朗読(2023.07.24)
「夏の嬬恋村三日間 2012」
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