「魚住京蔵伝」より ↑日の本丸 ↓南洋真珠貝
 2001年5月、10日もすれば古希を超えて71歳になる。この一年も数えれば日本・世界で痛ましい事件が相次ぎ、東日本大震災や中東・アフリカの内乱のようにこれからも長く尾を引くのが多い。
 自分にとっては大きな節目の年だった。70歳台への突入と併せて、この年父の寿命を超えた。
 体の衰えは否めない。血流と血圧の薬を朝晩服用している。大腸ガンは数年前に完治したつもりだが、トイレの都度気にしている。この旅から帰ったら定期検診を受けることになっている。お迎えが来るまで、まずは体の健康だ。フェロースポーツでのテニスとゴルフ練習は週一で続けている。
 気力はどうか。「中高年の元気!」が判断材料になる。紀行文、エッセイの数も量もそこそこに続いているからまあよしとしよう。海外旅行をしんどく感じてきたのが気がかりだ。
 なんにせよ、心身の健康があってこその「中高年の元気!」だ。
 そんなことでぼくにとっては古希の一年間、幾つか挑戦してみた。概ねこれまでの歩みを引きずったもので、新鮮みに欠けるかもしれないが、なんとかうまくいったのをまとめてみる。
 一つ、小説「魚住京蔵伝」。
 父繁蔵は41年前、ぼくが会社派遣で米国へ留学する1ヶ月前に、69歳で他界した。
 生前にこれといった語らいを受けた覚えはないが、還暦を迎えた10年前に父の一生を書いてみたくなった。
 一応小説形式で、三つの小話をつなぎ合わせたところで長い中断となる。そこまでをこの「中高年の元気!」に載せたままにしていたら、その4年後に、ふる里新宮出身の小説家新宮正春先生から便りをいただいた。この小説を「読んだよ」と。
 勇んで先生に「お会いいただきたい」と申し入れた。2004年4月、その時先生は入院されていて、国分寺の病院にお訪ねしたのだった。
 パジャマ姿でラウンジに案内してくださり、缶コーヒーで2時間は付き合ってくれたろうか。新宮弁丸出し、笑みを絶やさず。
 当時の題名「おもろい男」の書評になると、膝を乗り出して目つきが変わった。こんな風にコメントくださったと記憶する。
 「題名はもう一ひねりできないかな。少し軽い。登場人物の名前ですが、実物に近すぎる。重いね。濡れ場は書けないでしょう、この名前では。それに、名前もそれなりのがあるのです。会話が足りない。読ませるために重要なんですよ。……アラフラ海、木曜島、ケアンズ、現地に足を運ぶと世界が違ってきますよ」
 「小説技法というか、押さえどころがあるのです。原稿用紙、1枚目は”さび”。5枚で1節、20枚で1章……」

 なんと貴重な出会い、と喜んだのもつかの間、先生はその年8月に帰らぬ人となった。

 新宮先生にお会いした直後だ、意を決して文章作成講座に通いはじめたのは。講師M先生の薫陶よろしく、てにをは≠ゥら小説作法まで、まがいなりにわかりかけてきた。
 2年ほど経ってぼくは長編小説に挑んでいた。いまの題名「怪獣の棲む講堂物語」(当時は「鐘森講堂物語」)である。ここでO氏との出会いとなる。あとでわかったことだが、彼は生徒でありながらすでにさる大賞を受けていた。
 50歳前後の寡黙な彼がぼくには歯に衣を着せなかった。この小説原稿を通読して、「ド素人が書いた、論文に毛の生えたようなもの」と切って捨てる。そうではあってもこんな指摘に気分がいいはずはない。「いやな奴!」、……が待てよ。と、それから彼に弟子入りを請うた。
 たまたまぼくは大腸ガンで入院したが、彼は病室まで二度も押しかけて特訓に及んだ。1年半してぼくはもはや息切れ。最終稿(のつもり)を彼に手渡して数日すると、「やっとここまで来ましたね。これからですよ」。彼とのつきあいは以来途絶えている。
 「怪獣の棲む講堂物語」は、それでも少しは手直しして、「雑記帳」に残してある。
 小説はぼくにはムリと、自ら烙印を押したつもりでいたが、古希を迎えた昨年5月、「おもろい男」をもっと膨らませたくなった。父の寿命を越えて、なぜか畏敬と親しみの念がこみ上げてきたことによる。4ヶ月かけた結果、「魚住京蔵伝」として分量も前の2倍以上になり、末尾にふる里紹介を加えた。
 O氏はこの小説を何というだろうか。自分でも満足の出来映えとはいえないが、これがぼくの実力なのだ。古希にして、まがいなりにも子どもたちへの家伝にもなる。
 一つ、新広場「俳人えり好み」。
 昨年9月に長野県の斑尾高原へ旅した。新潟県との県境で、野尻湖の近くだ。一日は善光寺と東山魁夷美術館で遊び、もう一日はダリア咲き乱れるコスモス園に寄ってから、バスで少し行った信濃町大字柏原の「一茶記念館」を見物し、庭園を歩いた。小林一茶の生まれ故郷で、晩年もこの町で過ごしている。
 記念館で手に入れた小冊子「一茶」にヒントを得て、松尾芭蕉以降の好きな俳人の句集を作ることにし、ワープロに専念した。一茶の句が500ほどで、芭蕉は1000句近く。二人に加えて良寛、蕪村、子規、漱石……。
 もう一つの魂胆は妻の句をここにまとめることだった。彼女最初はいやがったが、そのうち協力的になり、10年以上前から「雲取」という句誌に掲載された彼女の句を700ほど拾い集めることができた。
 有名俳人の句は、いまもぼくの暇つぶしに役立っている。
 一つ、「モロッコ紀行」。
 11月にトラピックスのツアーに参加して、10日間モロッコを周遊した。2年前のエジプト旅行でアフリカは打ち止めのつもりでいたが、衝動的決断にしては思い出の旅になった。
 帰って「さて、紀行文」。古希を意識して、内心充実を期した。かなり時間をかけたつもりだが、振り返ると1ヶ月で仕上げている。ぼくにしては長編で、総朗読時間:2時間25分は、2004年の英国紀行(最長朗読)にわずか1分半及ばなかった。
 訪れた名だたる世界遺産に加えて、ぼくなりの思い出や連想をちりばめた。妻の評価はまあまあだ。「雑記帳第59話」
 一つ、新広場「名演説で学ぶアメリカ」。
 還暦過ぎて2002年の中国旅行を皮切りに、結構海外を旅した。アジアではベトナム、カンボジア、タイ、シンガポール。その他はイギリス、フランス、イタリア、イベリア半島のスペイン・ポルトガル、バルカン半島諸国、中欧、東欧、北アフリカ。
 まだこれから行きたい国々が控えている。北欧、ベネルックス、アメリカ西海岸、オーストラリア……。
 海外旅行の醍醐味でぼくの隠れた楽しみは、現地の人々との身振り手振りの交流だ。付け焼き刃の現地語をメモ帳に書き留めて出発する。これがすこぶる物を言うこと、論を待たない。ただ……、国際語。「英語をもっと勉強したい」気持ちが旅行に比例していや増した。
 高校時代、たまたま成績が良かったことに気をよくして、英語にのめり込んだ。英語教師を目指して大学受験に挑んだが、入学するや英語はおろか学問への情熱が冷めて、無為の4年間を過ごしてしまった。
 それでも昔取った杵柄が多少は評価されたか、D鋼では会社派遣で米国のPenn State大学に1年間留学し、40歳から4年間家族帯同でニューヨークに駐在した。駐在は脳梗塞に(かか)ってあっけない幕切れになり、数年してD鋼ともお別れした結果、以来20年以上英語とは無縁だった。
 その英語も、ぼくのは英文法本意で英文解釈主体の昔流受験英語≠セ。足して5年の米国経験にかかわらず、並みの英会話にはほど遠い。だからあの頃のレベルといっても内心忸怩(じくじ)たるものがある。加えてボキャヒンの嘆き。本当にすっかり単語を忘れた。熟語・慣用句はもとよりだ。
 妻と海外旅行幾たびか、英語熱(というよりも英会話熱)に目覚めて、上述の如く学習を開始した。
 話す方はつっかえ・(あせ)りでいらいらしながらも、ジェスチャー入りでなんとか。問題はヒヤリングだ。会話をしていてわかった気がするときもあるが、テレビのCNNや英語の映画はもとより、昔バイブルのように使った「アメリカ口語教本」の音声がほとんどわからない。なぜだ?
 ボキャヒンにもよろうが、スピード! 「名演説で学ぶアメリカ」の2冊がぼくの悩みの克服に救いの手を差し伸べてくれていることに相違はない。
 あうん≠フ呼吸とか目は口ほどにものを言う≠ニか「解るだろ、ぼくの言ってること」、がある意味日本の現状ではないか。言葉の文化で遅れていると言わないまでも、一方欧米ならずとも日本以外では言葉で相手に解ってもらう≠ェコミュニケーションの原点のように思える。とくに演説は、力を振り絞って情熱をぶつける演説者は、信念と気迫に満ちて身を張っている。相手たる聴衆はどうか。大部分が一般大衆で、人種や宗教・思想を異にする場合も多い。その一人一人が真剣に耳を傾けている様子がリアルに想像できる。言論による心のふれあいと葛藤を感じる。
 もし演説に難解な言葉や言い回しがあれば大衆の共感を呼ぶはずがない。その自己満足が故に大衆に背かれるという墓穴を掘ることにもなりかねない。だから、演説のほとんどは容易な言葉と言い回しでなされている! そう信じて単語も表現もスピードも、この2冊に託しよう。そう判断した。
 問題はぼくの向上欲に対する、現実と向上曲線と持続力の乖離(かいり)だ。
 まずは2冊に集約された演説エキスの全てをワープロし終えた。付属の音声CDを繰り返し聴き、真似をしながら朗読練習を重ねた末に、自分のパソコンには総計4時間分の「ぼくの朗読」入りで、自分用の教材が詰まっている。
(著作権絡みの演説は公開を遠慮し、全体の半分ほどを新広場に掲載してある)。
 飽きっぽいというか、熱しやすくて冷めやすいぼくのこと、息切れしないように、これからマイペースで英会話向上に努めるつもりである。
 今月13日から「日本縦断の旅11日間」のツアーに参加する。本土最西端の神崎鼻、最南端の佐多岬、最東端の納沙布岬、最北端の宗谷岬……、概ね鉄道で駆け足することになっている。
 古希を超えて初めての遠出だ。帰って紀行文をものするとすれば、それが「中高年の元気!」の新しい道程の門出となる。「僕の前に道はない、僕の後ろに道は出来る」(高村光太郎)とまではいかないし、伸びやかな気力を支える心身とも万全とはいえない。
 が楽しみだ。被災地のみなさんと心を一緒にして、前を向いてぼくの歩幅で前進したい。
【English】
朗読(20:46)  on
閉じる Close
メール