箒川 |
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山あいの川に似つかわしい。少なくともホテルの前は何も手が施されていず、自然の有り様にまかせている感がする。
河原は雑然として、水際は雑草と雑木がぼうぼうに生い茂り、それらをぬって流れが下っている。
荒涼としているように見えて、それなりに枯れた風情もある。
目の前に白鷺が少なくとも十羽はいる。鴨や他の鳥も何種類か。鱒やらの川魚を狙っているのだろう。山里だ。 |
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地の人に「目の保養になりますよ」と話しかけたら、「養殖のを喰い漁るのでね……」。感心ばかりもしていられない。
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さて初日。
一応用意はしてきた手袋・マフラーは必要なさそうだ。外気は川の景観ほど寒くない。ホテル側の遊歩道を一`ほど往復するにとどめた。
帰る日まで四日間とも、案内できるくらいにほとりの遊歩道をよく歩いた。 |
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妙雲寺 |
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二日目(11月27日)は雨だが、どしゃ降りではない。いつぞや訪れた静岡・小夜の中山の久延寺でもそうだったが、ここ妙雲寺も秋雨が趣をさらに深めていた。傘を差したりすぼめたりして、拝観した。
夏は牡丹のお寺として賑わうそうだ。が、秋深まったいまもいい。
うっそうとした林に柿色の紅葉がちりばめられた眺めは、とくに小雨の今、都会では絶対にお目にかかれない。何処(いずこ)ともなく感謝したくなる。
落ち葉を踏みしめる感触が、また何とも言えなかった。
臨済宗妙心寺派、甘露山妙雲寺という。
「寿永年間(1182〜1185年)に平重盛の妹、妙雲禅尼が京都から源氏の厳しい追手を逃れるため山中深く入り、安住の地として塩原に草庵をむすび、念持仏(ねんじぶつ)の釈迦を安置したことに起因する名刹」とか。自由に本堂に上がれた。 |
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境内片隅の「文学の森」には、有名文人の石碑あり。 |
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山岡荘八 |
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湯けむりに思いで熱き葉鶏頭 |
斎藤茂吉 |
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とうとうと喇叭を吹けば塩原の
深染めの山に馬車入りにけり |
尾崎紅葉 |
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本堂や昼寝無用の張り札す |
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他に、夏目漱石、松尾芭蕉、谷崎潤一郎のも。 |
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本堂は閉ぢられ雨の紅葉寺 |
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妙雲寺靴にはりつく紅葉かな |
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負うた荷の背ナ軽くなる山紅葉 |
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世の塵を湯舟に落し夕紅葉 |
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山眠るせせらぎやさし箒川 |
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足湯してたまわる力紅葉狩 |
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雨粒を大きく宿し冬紅葉 |
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恵美子 |
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妙雲寺、その他の写真 |
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逆杉(さかさすぎ) |
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妙雲寺からの帰り道を、ホテルを通過して少し歩くと、右に急な石段が見える。上に八幡神社があるとかで参拝することにした。上り詰めると、境内に天然記念物指定の逆杉(さかさすぎ)という夫婦杉が待っていた。 |
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樹齢千五百年以上の古木という。枝が垂れ下がっていることからそう呼ばれているとのこと。
樹高四十b、源義家が奥州征討の途中に立ち寄り、武運を祈って植えたという。雨が幸いしてか、みずみずしい。厳かというよりも、シックだ。
そう思えるのは、横に形のいい池があるからか。真ん中に渡した石橋にたたずむと、鯉が群がりよってくる。全部緋鯉だった。 |
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逆杉から石段を下りたすぐ近くが「源三窟」という洞窟だ。げんざんくつ、と読む。約四十bの鍾乳洞である。
案内書によると、「約八百年前、鎌倉での戦いに敗れた源有綱がこの洞窟に身を隠し、再興を期していたが、流れ出した米のとぎ汁が災いして見つかり、悲運の最期を遂げたと伝えられている」。
狭い穴倉に数ヶ所、ジオラマというのが設置されていた。鍾乳洞よりも、彼ら一族の雌伏の模様を紙芝居的に蝋人形で見せることが主眼のようだ。 |
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もみじ谷大吊り橋 |
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三日目(11月29日)。
十時半発の送迎バスを利用して訪れた。国道400号線を、渓谷のダイナミックな美景を楽しみながら、三十分ほどで着く。大吊り橋入口の売店前で、さわやかな陽差しを受けて、地元青果の朝市が賑わっていた。あれこれ目移りしたが、結局漬け物を買っただけで終わった。
もみじ谷大吊橋は、塩原ダムに架かり、全長三百二十bで、横桁なし、ワイヤロープを横に張った揺りかご式の無補剛歩道吊り橋≠ニいい、このタイプでは全国随一という。
「よく揺れる」と案内書にあったが、幸か不幸かそのスリルはなかった。逆に、歩道≠ノ網目が空けられてあり、自然にそこへ目が行ってしまう。ただでさえ高所恐怖症のぼくは、縮み上がった。
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帰りはJRバスを利用した。ホテルから一`ほど離れた湯っ歩(ゆっぽ)の里で下りる。この七月にオープンしたという、全長六十メートルの「日本最大の足湯」だそうだ。老若男女で混んでいた。ズボンを膝上までたくし上げて、湯のプールを一時間ほど歩いたり、板間の座席で休んだり……。妻は周囲のご婦人たちとはしゃいでいた。
二時過ぎて遅い昼食を、ちょうど箒川を真下に見る蕎麦屋でとる。渓流がぶつかって飛沫をあげる岩の上で白鷺がジッと水中を窺(うかが)っている。ぼくたちが食べ終わるまでそこに居続けていた。獲物にありついたかどうか。
「流れがやかましいでしょう」
店員の気遣いとは逆に、まさに清涼剤だった。 |
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ホテル最後の夕食は、妻の予想通り豪華版だったのだが。遅い昼食がたたって、アルコールは三百五十_gの缶入り地ビール「紀州鉄道・生ビール」一本で十分だったし、食事は半分残した。
最終四日目(11月30日)は、十時半ロビー集合になっている。
起き抜けに露天風呂へ直行。薄明かりの湯船を占領して、まだしばらくは紅葉を楽しませてくれるであろう楓の色づきを眺める。
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朝食を済ませてから集合時刻まで、二十ギガ・ハードディスクのウォークマンを聴きながら、源三窟付近から湯っ歩の里まで、東へ約二`、箒川土手の遊歩道を歩く。復路も同じコース、この道程が気に入った。
渓流の上で悠然と羽を広げる白鷺が、常緑の松とまだら模様を呈している紅葉にマッチして、時間を忘れさせた。 |
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ホテルから送迎バスで小一時間、那須塩原駅に着く。十二時二十八分の新幹線「なすの272号」に乗車、二時前には東京駅に着いた。
一旦浦安の自宅へ帰って寛いでから、約束していた大手町での六時半の会合には余裕をもって出席した。 |
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余談になるが…………
古今亭志ん生の落語に「塩原多助一代記」がある。落語というより人情噺で、上・下に分かれてCD一枚に収まっている(NHK落語名人選04)。
塩原多助の悲惨な生い立ちと、命からがら二十歳で江戸に出るまでが上巻の「青の別れ」。下巻は多助の波乱の出世物語「親子対面」。上巻三十四分、下巻三十三分の長尺物だ。
一、二度聴いていたのを、ホテルの寝床で、ウォークマンに携帯スピーカーを繋いで聴いた。塩原の多助だから、この辺りの出身に違いないということで。
間違っていた。「群馬県の沼田村」と、志ん生が冒頭で述べている。 |
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Part2朗読(15'03") on |